7話 結婚して下さい!
「……父さん。迷ってるのはさ。クラスに……中学のときに告白してくれた月城さんがいて……連絡先を交換したんだけど、なんて送ればいいか、わかんなくて」
言葉にすると、胸の奥がむず痒くなる。スマホを握る手にじっとりと汗がにじむのがわかった。
父さんは一瞬だけ目を細め、真剣な表情で俺を見つめた。そして一瞬で俺との間合いを詰め、その大岩のような顔を近づけてこう言った。
「翼……それって……気まずくないか?」
「近っ!? あぁ、うん。かなり気まずい。だからなに送ったらいいか悩んでんだよ」
父さんは腕を組み、うーんと唸る。その巨体から生まれる影が、筋肉部屋の床に濃く落ちる。
「翼、お前は月城さんに告白されたときに太ってなかったらどうしてた?」
いきなり核心を突かれ、息を呑む。脳裏に、あの日の月城さんの真剣な瞳がよみがえった。
「……付き合ってたと思う」
「なぜだ?」
「それは……俺も好きだったし、せっかく好きって言ってくれたし……」
言葉が自然と途切れた。あの日、勇気を出して告白してくれた彼女を、俺は――自分の弱さで拒絶した。
「じゃあ、今はどうしたいんだ?」
父さんの声は穏やかだったが、まっすぐで逃げ場がない。その視線に押されて、俺はしっかりと顔を上げた。
「俺は……ちゃんと、あのときのこと謝りたい。できたら……また仲良くしたいと思ってる」
父さんは目を閉じて、しばらく考えるように沈黙した。
そして――ゆっくりと頷く。
「翼。迷ったときは筋肉と同じだ」
「……筋肉?」
また始まったよ。
「急に重すぎる負荷をかけたら壊れる。でも止めても衰える。大事なのは――少しずつ続けることだ」
父さんは言いながら、自分の分厚い胸筋をバシッと叩いた。
「少しずつ……?」
「そうだ!」
父さんはどこか得意げに笑った。
「女の子はいきなりガツガツこられたら嫌なもんだ。毎日、挨拶して、会話して、少しずつ距離を縮めていけばいいじゃないか」
父さんの真っ当なアドバイスに、俺は思わず叫んでしまった。
「父さん! どうした!? すっげぇまともなこと言ってる!」
「お前なぁ、俺を誰だと思ってるんだ?」
父さんは俺の部屋に飾ってある一枚の写真を手にとり、両手で誇らしげに掲げた。――すっげぇドヤ顔で。
「こんな美人の母さんを射止めた男だぞ!」
父さんが持っているのは、生前の母さんの写真。青い海を背景に、赤ん坊の俺をそっと抱きかかえている。その笑顔は見ているだけで心が温まるようで、優しさという言葉そのものが形になったような人だ。
確かに母さんは父さんにはもったいないくらいの美人だと思う。まるで美女と野獣だ……。
「……え? 父さんと母さんって、どうやって知り合ったんだっけ?」
「大学のミスコンで優勝した母さんに一目惚れしてな! 俺、初めて話したときにこう言ったんだ――」
「結婚してください!」
「それ少しずつどころか初手プロポーズじゃん!? で、母さんは!?」
「『ごめんなさい』だった……」
「振られてるじゃねーか!」
思わず笑ってしまった。けれどその笑いが、少しだけ前を向く勇気に変わっていた。
俺と月城さんを隔てる壁は、重いバーベルみたいに見えるけれど……一気に持ち上げる必要なんてないのかもしれない。
「……ありがとう、父さん。ちょっと気が楽になった」
「うむ!」
父さんは白い歯をキラリと輝かせ、グッと親指を立てる。
「筋肉と恋愛は一日にしてならず、だ!」
「いや、筋肉と恋愛を同列にするなよ……」
父さんの豪快な笑い声を背に、俺は自室に戻った。
扉を閉めると同時に、緊張が一気に押し寄せてくる。
ベッドに腰を下ろし、深呼吸を三回。スマホを手に取り、月城さんとのトーク画面を開く。
……よし。シンプルに、短くだ。
俺は一文字一文字、言葉を選びながら打ち込んでいった。
『今日はありがとう!
久しぶりにちゃんと話せて、すごく嬉しかった。
いきなり昔みたいには戻れないかもしれないけど、少しずつでいいから――また色々話せたらいいな』
送信ボタンを押す。
押した瞬間、急に恥ずかしさが込み上げてくる。
「ぐおー! 送ってしまった……。大丈夫なのかこれで?」
少しずつ――積み重ねろ。
父さんの言葉を、ほんの少しだけ信じてみよう。そう思えた自分に、俺は小さく笑った。
* * *
スマホが震えた。画面を見ると、見覚えのある名前が光っている――。
「神崎翼から新着のメッセージがあります」
心臓が、胸の奥でバクンバクンと跳ねている。手が震えて、画面をタップする指がまったく動かない。
――ど、どうしようどうしよう!
頭の中がぐるぐると回る。何を返せばいいのか、そもそも開いていいのか、読んだらどうなるのか。考えれば考えるほど、胸が押しつぶされそうになる。
私はベッドの上で体を丸め、布団をぎゅっと握る。冷たい汗が背中を伝い、頬が熱くなる。呼吸を整えようとしても、手も心も全く落ち着かない。
思わず指がスマホのボタンに伸びる。
スクショ……しようとしてしまった。――ダメ、違う! こんな風に残すなんて、失礼すぎる。神崎君の気持ちを軽く扱うようで、自分が嫌になる。
手を止めて深呼吸する。指先が震えて、スマホを握る手の熱さに気づく。頭の中は真っ白で、でも胸の奥は花火のように高鳴っている。
「落ち着け、私……!」
自分にそう言い聞かせながら、深呼吸を一度して、ようやく指が画面に触れる。震える手で、メッセージを開く。
『今日はありがとう!
久しぶりにちゃんと話せて、すごく嬉しかった。
いきなり昔みたいには戻れないかもしれないけど、少しずつでいいから――また色々話せたらいいな』
文字を目で追いながら、胸の奥がじんわりと熱くなる。素直に嬉しい、でも、どう返したらいいのか――迷いと期待が一緒に押し寄せてくる。
私は深呼吸をひとつ。指先に力を込めて、ようやく画面に触れた。
「……うん、私も、少しずつでいいからまた話したい」
送信ボタンを押すその瞬間、頭の中で小さな花火が弾けたような気がした。これでいい。今、この瞬間を大切にしたい――そう思った。
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