70話 諦めない人
「やっぱりお前だったかー! 和史ー! 久しぶりだなー!」
「げぇ! 剛十郎!」
風をも置き去りにするスピードで、俺たちの元に突っ込んでくる影。
……筋肉だ。
いや、父さんだった。
父さんは速度を全く落とさず、俺たちの前で急に立ち止まる。
止まった風圧で、月城さんの長い黒髪がばさりと揺れた。
やっぱこの人、人間じゃないわ。
「父さん、お帰り」
「剛十郎さん、お帰りなさい」
「おう! 二人ともいい子にしてたか?」
父さんはいつもの暑苦しすぎる笑顔で白い歯をカッと見せる。
いい子って、幼児じゃないんだから……。
それはそうとして、この二人って知り合いだったのか?
「父さん、和史さんのこと知ってるの?」
俺がそう尋ねると、父さんは和史さんと無理矢理に肩を組む。和史さんはかなり嫌そうだ。
「和史とは大学の同期で、柔道のライバルだ。会うのは久しぶりだが、まさか月城さんの父親とはな! 世間ってせまいな!」
耳元で父さんのでかい声が響いて、和史さんはうんざりしたのだろう、父さんの組んでいた腕をパシリと払いのける。
「なにが、ライバルだ。俺は結局、一度もお前には勝てなかった」
「そうだったか!? でもお前は強かったぞ?」
「それはそれは……元世界チャンピオンのお前に言ってもらえるのは、光栄だ」
「お父さんが柔道やってたなんて、知らなかったよ」
月城さんが不思議そうに首を傾げる。
「人に自慢できるようなもんじゃなかったから」
寂しそうな目で和史さんは応える。
「剛十郎、線香上げてっていいか? 沙苗さんに」
そうか。大学の同期ってことは和史さんも母さんのこと知ってるんだ。
「おう! 上がってけ! あいつも、きっと喜ぶ」
全員で家の中に入ると、父さんはいつものように、キッチンで茶とか言ってプロテインシェーカーを振っている。
和史さんは、母さんの遺影の前で小さく何かを呟き、静かに手を合わせた。
月城さんも、その隣で同じように手を合わせている。
「……和史さん、ありがとうございます」
俺がそう言うと、和史さんはふっと短く息を吐いた。
「最初な、麗ちゃんがフラれたって聞いたときは、正直どこのクソガキだと思った」
ぐさりと来る言葉なのに、不思議と反発は湧かなかった。
「でも、見た瞬間にすぐ分かった。剛十郎の息子だって。若い頃のあいつに、驚くほどそっくりだったからな」
「和史さんと父さんは、仲良かったんですか?」
「ああ。親友だったし、ライバルだった。二人で散々バカやったし、試合では絶対に負けたくない相手だった」
和史さんは、母さんの遺影から視線を外さないまま、ぽつりと続けた。
「だが……どんなに練習しても、どんなに研究しても、剛十郎には届かなかった」
「スピードも、パワーも、勘も、あいつは全部持ってた。
強くなるために、ただまっすぐ走り抜ける。そんなあいつを見てると、俺じゃ勝てないって、諦めてしまったんだ」
和史さんは一度、言葉を区切る。
「だから俺は、柔道をやめた。……後悔はしてない。おかげで同じ出版社に勤めてた志保に出会えたし、麗ちゃんもいる。あれ以上の人生はないと思ってる」
遺影の前で、拳を握ったまま、和史さんは視線を落とした。
「ただな……たまに考えることはある」
和史さんの声が、わずかに低くなる。
「もし、あのとき諦めずに続けてたら、どうなってたのかなって」
それは後悔というほど強い言葉じゃない。
長い間、胸の奥にしまい込んでいたものを、さらけ出すような小さな叫びだ。
俺は少しだけ考えてから、正直に言葉を返す。
「……本気だったってことですよね」
和史さんが、ちらりと俺を見る。
「簡単に諦めたんじゃない。諦めるにも相当な勇気がいるはずです」
和史さんは、呆れたようにふっと鼻で笑う。
「生意気だな」
けれど、その表情はどこか穏やかだった。
「まあ、終わった話だ」
そう言って、遺影にもう一度だけ頭を下げる。
「……お前は、俺みたいに逃げるなよ」
それだけ告げて、和史さんは父さんの待つキッチンへ向かった。
その背中を見ながら、俺は思う。
これは忠告じゃない。きっと――託されたんだ。
自分が見られなかった『その先』を――。
「剛十郎! それプロテインじゃねぇか!」
「おう! 美味いぞ! 飲め!」
「ただの中年が飲んだら太るわ」
「うちで最高級のプロテインだぞ! 飲め!」
キッチンから聞こえてくるやり取りに、思わず肩の力が抜けた。この家は、こういう場所だったな。
「ふふ。お父さんたち楽しそうだね」
隣で月城さんが嬉しそうに二人を見つめている。
「そうだね」
父さんは和史さんを抑え込んで無理矢理プロテインを飲ませようとしていた。あれは、ルール上なら技ありだな。
「ねぇ……翼君、これからもよろしくお願いします」
横を見ると、月城さんがこちらに微笑みながら、赤くなっていた。
月城さん、今……名前で呼んだ?




