6話 隣の筋肉は全てを見透かしてくる
自宅ベッドの上で、スマホを握りしめたまま俺は固まっていた。月城さんと連絡先を交換してしまった――。
唐突だったけど、それ自体はすごく嬉しい。中学時代はスマホなんか持ってなかったし、初めての『女の子』の連絡先だったから――。問題はそのあとだ。
「なにか送った方がいいのか……いやでも、急に送ったら迷惑かもしれないし……でも、無反応のままっていうのも変だよな……」
頭の中でぐるぐる同じことを繰り返して、胸がドキドキして、落ち着かない。スマホに表示された『月城麗』の名前を見て逡巡する。
ダメだ、このままじゃ埒があかない。
そうだ! こんなときは――。
「筋トレだ」
迷っているのは雑念があるからだ! 汗をかけば気分も切り替わるはずだ。筋肉はいつだって答えてくれる!
ベッドから立ち上がって向かったのは自宅のトレーニング部屋――通称『筋肉部屋』だ。
壁一面に貼られた筋トレメニュー表には、父さん直筆の「気合」「根性」「脂肪は敵!」といった謎のスローガンが躍っている。
俺は室内にあるスミスマシンのバーベルにプレートを幾重にもセットしていた。その重さは一五〇キロ。
スミスマシンとは、バーベルをレールに固定した状態で上下に動かせる筋トレ器具だ。普通のバーベルでスクワットやベンチプレスをやると、バランスを取る必要があってとても危険だ。慣れないうちはバーが左右にブレて、下手したら潰されることもある。
でもスミスマシンなら、その心配がない。上下にしか動かない構造だから、フォームの安定感が段違いだ。
途中で力尽きても、バーを少しひねると、左右についてる金属のツメ――セーフティフックが、カチッとレールに引っかかって安全に止められる。
俺はそのスミスマシンでスクワットを始める。腰を痛めないようにパワーベルトをつけて、呼吸を整えて集中する。
「すぅーっ。はぁーっ」
「ふんっ!」
バーベルを持ち上げ、丁寧なフォームを意識する。
ドゴォォォォン!
「っ……はあ、はあ……っ!」
汗が滝みたいに流れ、床にポタポタと落ちていく。
「……っしゃあ! ラスト十回!」
筋肉が悲鳴をあげる。
太ももがぷるぷる震えて、目の前が真っ白になりそうだ。
「うおおおおおっ!」
最後の一回を上げきり、ベンチに寝転んで天井を見上げる。全身が燃えるように熱い。けど、たまらなく気持ちいい。
俺が筋トレでしか得ることのできない達成感につつまれている――そのとき。
玄関の扉が「ドン!」と開く音がした。廊下からは家が揺れてるんじゃないかと錯覚するほどのズシンズシンと地響きみたいな足音が聞こえる。
筋肉部屋の扉が壊れそうな勢いでドアが開かれた。そこには全身をスーツに詰め込んだ、二メートル近い筋肉の化け物が立っていた。
「ただいまー!」
父さんだ。神崎剛十郎――。
身長190センチ超え、元柔道日本代表。今は大学でコーチをしている。性格は豪胆そのもの……多分武将の生まれ変わりなんだと思う。脳みそが筋肉でてきているのだろう――どんな事でも筋肉で語ってくる。
「おっ、やってるな翼! ……ん? その大腿四頭筋、迷いがあるな」
「は? 大腿四頭筋が迷ってるってなに?」
父さんは真顔で腕を組み、俺を見下ろす。
その瞳は、筋肉という筋肉をすべて見透かすような鋭さだ。
「翼、お前……何か悩んでるな?」
「こわっ! なんで分かるの?」
俺がツッコむと、父さんは「はっはっは」と朗らかに笑った。
……ほんと、この人には敵わない。
幼いときに母さんが亡くなってからは、ずっと父さんと二人暮らしだ。俺が太ってコミュ障だったのも、母さんを失った寂しさがあったのかもしれない。それでも父さんは焦らず、無理に詰め寄ることもなく、ただ隣で笑って、時々こうして筋肉にかこつけて支えてくれる。
俺は中学の時、父さんに全てを話した。月城さんとの図書室での楽しい時間。彼女から告白されたこと。自分に自信がなくて断ってしまったこと。自分を変えたいこと。父さんは俺を抱きしめて号泣していた。
「父さんに任せろ。翼ならきっと変われる!」
その一言がどれだけ俺を救ったか――父さんには感謝しかない。ただ……その日から地獄の特訓が始まった。
まず朝。まだ外は暗い五時にベッドを叩き起こされる。
「走るぞ翼! 柔道着は汗で重くなってこそ鍛錬になる!」
無理やり柔道着を着せられ、帯をぎゅうぎゅうに締められてランニング十キロ。道すがら父さんはなぜか本気の声量で叫ぶ。
「一本だ翼ぁぁぁ! ゴールはあの信号機だぁ!」
近所のおばあちゃんに「元気ねぇ」と笑われながらダッシュする俺……恥ずかしかった……。
帰宅すれば次は朝食。食卓にはテーブルいっぱいに並んだ鶏むね肉の山、プロテイン入り味噌汁、そしてブロッコリー畑。
「筋肉は食事からだ。ほら、鶏むねが見てるぞ。食え!」
「どぉいうこと!?」
泣きながら鶏むねをかき込む俺……苦しかった。
日中はさらに容赦ない。
買い物に行けば、「その袋はダンベルだ」
家の中を歩けば、「常にスクワット歩き」
テレビを見るときも「腹筋しながらに決まってるだろう」
お風呂では「空気椅子で洗え」
筋肉に逃げ場などない。
そして、なぜか精神鍛錬として、
「笑顔百回! 鏡の前で女子に話しかけられた時の練習だ!」
「プロテイン飲んでる? って聞け!」
「そんな女子いねぇよ!」と当時の俺は心の底から思った。
でも――。
気づけば俺は走れるようになっていた。鏡に映る自分の顔から、二重あごが消えていた。胸を張って立つだけで、少し自信が出るようになっていた。
――そして、あの日。青葉学園入学式の朝。
「父さん。本当にありがとう。俺……ここまで変われたのは父さんのおかげだ」
「違うぞ翼。今の姿は変わろうとしたお前の力だ。父さんはメニューを組んだだけに過ぎない。本当によくやった」
涙ぐむ父さんに、俺は大きく息を吸って笑った。
「……いってきます!」
背筋を伸ばし、胸を張って、俺は青葉学園へと歩き出した。
――そして今。
俺は観念して父さんに打ち明けた。
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