61話 隣の彼女と夏休み
――数日後。
教室の中は、もう夏休みの空気に満ちていた。
机を引く音、椅子が床を擦る音。
あちこちで弾む声が交差し、終業式が終わったという事実を、誰もが体全体で感じている。
「夏フェス行くんだってさ」
「いいなー、うちは帰省」
「部活? だる……」
予定の話ばかりが、教室を行き交う。
担任の先生も今日はやけにあっさりしていた。
「戸締りだけ気をつけろよー」
それだけ言い残して、さっさと職員室へ引き上げていく。
窓の外では蝉が鳴いている。
開け放たれた窓から風が吹き込み、カーテンが白く膨らんでは、ゆっくりと戻った。
――ああ、始まったんだな。
去年の夏は、こんな雰囲気を感じる余裕なんてなかった。毎日、月城さんの隣に立てる男になりたくて、ただ必死に鍛えていた。
でも、今年は違う。
鞄に教科書を放り込み、立ち上がろうとしたとき、隣の席から明るい声が飛んでくる。
「神崎君、帰ろ」
見ると、俺の恋人――月城麗がこちらを見ていた。
口元に小さく笑みを浮かべて、目だけが妙に楽しそうだ。
そのまま俺の腕を掴むと、ぐいっと引っ張ってくる。
「い、行くから……引っ張らないで……」
「だって、遅いんだもん」
半ば強引に引かれながら、俺たちは教室を出る。
始まるのだ。夏休みが――。
二人で並んで校門を出ると、太陽は容赦なく真上から照りつけていた。
その眩しさに負けないくらい、月城さんの目も輝いている。
「ついに、始まったね。夏休み!」
歩きながら、弾むように話しかけてくる。
「そうだね。ずっと楽しみにしてたもんね」
「うん! どこ行く? いつ行く? 明日行く?」
明日どこに行くんだ? 俺は思わず苦笑する。
こんなに落ち着きのない月城さんは、初めてだ。
「とりあえず……来週は映画だよね?」
俺がそう口にすると、ふっと記憶が重なる。
まだ付き合う前。
俺が一方的に「嫌われてる」と思い込んでいた頃の約束。
「あ、そうだ!」
月城さんは立ち止まり、鞄からスマホを取り出す。
「もうチケット買っちゃったんだよ。ほら」
月城さんは興奮しながら、画面を突きつけてくる。
そこには『となりのヒロイン計画』のタイトルと、並んだ二人分の座席番号。
「もう買ったの!? 早いね」
「当然でしょ。日付まで決めてたんだから。座席なくなったら嫌だし」
月城さんは、えへん、と胸を張る。
その仕草が、少し子どもっぽくて、妙に似合っていた。
よほど楽しみなんだろう。
「あ、お金払うよ。いくらだった?」
俺は鞄から財布を取り出した。
「い、いいよ。私が誘ったんだし。それに……いつも神崎君の家でご飯ご馳走になってるし」
「それ言うなら、俺もずっとお弁当作ってもらってたし。受け取ってよ。お金のことはちゃんとしておきたい」
俺の言葉を聞いて、月城さんは立ち止まってしまった。
スマホを胸元に引き寄せて、じっと俺を見る。
視線が、妙に真剣だ。
一体、なんだ?
「……神崎君」
「な、なに?」
「私がこの映画に誘ったときのこと、覚えてる?」
「覚えてるよ。商店街の本屋さんで……俺が『映画やるんだね』って言ったら、月城さんが誘ってくれた」
「……うん」
月城さんは、視線を落とす。
指先が絡まり、ほどけて、また絡まる。
「あのときね……私、すっごく勇気出してたんだよ」
彼女は小さな声で呟く。
「この映画は、私にとって特別で……神崎君と一緒に読んだ本で……。だから、どうしても……一緒に観たかったの」
一拍、間を置いて。
「だから……これは、私が誘った分のお金なの!」
顔を真っ赤にして、言い切る。
……そんな気を使わなくていいのに。
「批評仲間が欲しいって言ってなかったっけ?」
わざと軽く言うと、月城さんは一瞬きょとんとしてから、鞄をぶんぶん振り回した。
「もう! それは建前! 意地悪言わないで!」
「ごめん。でもさ……俺も、この映画、月城さんと一緒に観たかったんだ」
俺は立ち止まり、月城さんの正面に立つ。
「誘ってもらえたときは驚いたけど、すごく嬉しかった」
月城さんの目が、少しだけ見開かれる。
「だから……ちゃんとお金は出させて。これは連れて行ってもらう映画じゃなくて、二人で行く映画だから」
しばらく黙っていた月城さんは、やがて息を吐くように笑った。
「……ずるいよ。そんな言い方」
スマホを胸に抱き、視線を逸らす。
「じゃあ……1,500円……」
「うん。ありがとう」
差し出したお金を、月城さんが少しだけ迷ってから受け取る。
指先がほんの一瞬、触れ合って……俺たちは並んで、再び歩き出した。
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