60話 隣の彼女は待っていた
体育館の中に戻ると、さっきまでざわめいていた観客席は、ずいぶんと静かになっていた。
試合が終わり、人波はすでに帰路についているらしく、席にはぽつりぽつりと人影が残るだけだ。
自分の足音がやけに大きく響く。
観客席を見渡すと、月城さんは一人でちょこんと座っていた。高瀬の姿は見当たらない。
俺は、月城さんの隣に腰を下ろす。
「ただいま」
俺が声をかけると、月城さんは一度だけ手の甲で目元を拭う。
「……遅いよ」
月城さんは拗ねたように頬を膨らませる。
「ごめん。大事な話をしてたんだ」
「澪ちゃん……何だった?」
月城さんには正直に話さなければならない。彼女も気にしているのが分かったから。
「告白されたよ」
「……やっぱり」
月城さんは俯いていた。
手を膝の上に揃えて、背筋を伸ばしている。
きっと……こうやってずっと待ってたんだ。
「なんて返事したの?」
俺は、すぐには答えなかった。
月城さんの横顔は少し引きつっている。
ちゃんと、俺の言葉を受け取る覚悟をしている顔だった。
「断ったよ」
月城さんは、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……神崎君、戻ってこなかったらどうしようって、ちょっとだけ思った」
俺の袖を掴んで、彼女は続ける。
「信じてないわけじゃないよ? でも……澪ちゃん、さっきの試合すごくて……きれいだし……勉強もできて……」
月城さんの視線が、床に落ちる。
「神崎君が好きになっちゃったらどうしようって……」
正直な言葉だった。
だからこそ、俺は迷わず答えられた。
「俺は始めから戻ってくるつもりだったよ」
月城さんが、少しだけこちらを見る。長いまつ毛が少しだけ濡れていた。
「……澪ちゃん、かっこよかったね。本当に、尊敬する。でも――」
俺はそこで言葉を区切る。彼女を不安にさせたくない。ましてや、泣かせたくなんかない。
だからこそ俺ははっきりと言う。
「それと、好きになる相手は、別だから」
月城さんの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「俺が戻る場所は、月城さんの隣だよ」
隣に座る月城さんをまっすぐに見る。
「……うん。……おかえり」
それだけだった。
でも、その一言には月城さんの気持ちがすべて詰まっていた。
俺はそっと月城さんの手に触れる。
握るほどじゃない。
離れない、という意思表示みたいな強さで。
体育館の天井から、撤収のアナウンスが流れ始めた。
――俺は、ちゃんと守れただろうか。
澪ちゃんの気持ちも。月城さんの不安も。
でも、少なくとも今は、隣にいる月城さんの体温が、それでいいと教えてくれていた。
「帰ろうか」
「……うん」
俺たちは、手を繋いだまま、並んで席を立った。
出口へ向かう途中、月城さんは俺の手を強く握ってくる。離れたくないという彼女からの意思だと思った。
俺は何も言わず、その手を握り返す。
もう迷わなくていい。
戻る場所も、守りたい想いも、ちゃんとここにある。
体育館の外に出ると、夕焼けが空を赤く染めていた。
――この人の隣で、俺は前に進む。
そう、静かに決めて、歩き出した。
* * *
師匠が戻っていった後、体育館の裏手にある非常階段に、私――高瀬澪は膝を抱えて座っていた。
体育館の中から聞こえる片付けの音と、風に揺れる木の葉の擦れる音だけが、やけに大きく感じられる。
そこへ……なぜか姉様がやって来た。
この人は、なぜ私のいる場所がわかるのでしょう。
「澪、優勝おめでとう」
「ありがとうございます……」
「元気ないなぁ〜」
姉様はそう言って、私の隣に座った。
「姉様……初恋ってやっぱり実らないものなのですね」
姉様はしばらく黙っていたが、やがていつものようにニカっと笑って金色のポニーテールを揺らした。
「ちゃんと言えたんだ」
「はい。ちゃんと自分の気持ちを伝えて、ちゃんとフラれました。後悔はしていません。でも……」
私はそこで言葉に詰まった。
もっと早く師匠と出会っていたら?
もっと私に魅力があれば?
たらればを言えばキリがないけれども、私は――。
「悔しい……やっぱり、まだ好きです」
私の瞳からはまたポタポタと汗が流れる。
泣いてなどいません。これは、汗です。
姉様は、私の流れる『汗』を見ても、すぐには何も言わなかった。代わりに、私の頭にぽん、と手を置く。
「……澪さ。前に、ウチが言ったこと、覚えてるよね?」
「はい」
私は小さく頷いた。
「澪はいい子だからさ。正直に、自分をぶつけたらいいって……」
「あのときの澪、友達関係で悩んでてさ。顔色ばっか気にして、何も言えなくなってた」
姉様は、少しだけ真面目な声になる。
「でもさ。今の澪、どう?」
私は、考えるより先に答えていた。
「全力でぶつかりました」
「そう」
姉様は、にっと笑う。
「好きって言って、フラれて、悔しくて、それでもまだ好きで……」
姉様は私の肩を、軽く叩いた。
「翼のことがまだ好きなのは、澪が正直な証なんだよ」
「……はい。でも、正直にぶつかっても……私は、負けました」
「うん、負けたね」
「優勝したのに、恋は完敗です……」
「それでもさ」
姉様は、私の目を真正面から見て言った。
「正直にぶつかって負けたんだから、めちゃくちゃカッコいい負け方だよ」
私は、思わず笑ってしまった。
姉様は、私が迷いそうなとき、いつも道を照らしてくれる。
「……姉様、ありがとうございます」
「ウチ、お姉ちゃんだからね」
姉様が立ち上がって、私に手を差しのべる。
「よし。帰るよ」
私は、ぎゅっとその手をとる。
「はい……」
「帰ったらさ、澪の好きなクッキー焼いてあげる」
「正直に言います」
「うん?」
「姉様の作るクッキー、まずいです」
「はぁ!?」
姉様の素っ頓狂な声が、夕暮れの吸い込まれる。
「ちょっと!? それ今言う!?」
「正直に自分をぶつけろって、姉様が言ったんです」
「そこは空気読んでよ!」
私たちは、夕陽が差し込む中、声を出して笑い合った。
私は立ち上がり、ユニフォームの裾を整える。
「……とりあえず全国、獲ってきます」
「さすが、ウチの自慢の妹だね」
姉様は、誇らしげに笑ってくれた。
失恋はした。
でも、私はまだ師匠が好きだ。
それで、いい。
――次は、もっと高く跳んでやる。
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