59話 隣の少女は強い人
神崎君が観客席を離れて、少し時間が経った。
私――月城麗は、じっと座って彼の帰りを待っている。
大丈夫……。神崎君は、ちゃんと帰ってくる。
神崎君のこと、信じているはずなのに、時間が経つにつれ、じわじわと落ち着かなくなる。
澪ちゃんが神崎君を呼び出したのって、やっぱり、告白……だよね。
私が自分で言ったんだ……。
澪ちゃんに……後悔して欲しくないからって。
でも、いざそのときがくると焦ってしまう。
さっきの試合、澪ちゃんはすごかった。
あんなふうに、全身で想いをぶつける姿を見せられた直後だから。
強くて、真っ直ぐで、迷いのない背中を見てしまったから。
もしも、神崎君が――あの想いを、真正面から受け取ってしまったら……。
嫌な想像が頭をよぎる。
私は無意識に祈るように手を組んでいた。
嫌だ、嫌だ。神崎君……早く帰ってきて。
隣で私を心配したのか、愛が静かに語りかけてきた。
「……麗、ごめんね」
「え?」
不意に向けられた言葉に、私は組んでいた両手を背中に隠した。
「な、なんのこと?」
「不安にさせちゃったよね」
もしかして、愛は……。
「翼が澪に取られちゃうんじゃないかって、不安なんでしょ?」
「っ……!」
やっぱりだ……。
「愛……気付いてたんだね。澪ちゃんが……神崎君のこと、好きだって」
「あたりまえじゃん。ウチ、あの子のお姉ちゃんだよ?」
愛は軽い口調なのに、言葉は真剣に聞こえる。
「……ファミレスのトイレでもさ。私が声かけに行こうと思ったら、麗が先に行っちゃったから、ちょっとビックリしたもん」
「うっ……」
澪ちゃんが心配で、後を追いかけた自分を思い出す。
「……そうだったんだ。余計なこと、しちゃったかな」
えへへ、と気まずく笑うと、愛は少し困ったように眉を下げた。
「そんなことない。麗だから良かったんだよ。麗はあの子の気持ちも、存在も否定しなかった。もしウチだったら好きになっちゃダメって止めてた」
「私は澪ちゃんに後悔して欲しくなかったの……」
ちょっと距離が近くてむっとするようなことはあった。それでも澪ちゃんには、神崎君に何にも言えないまま、諦めて欲しくない。卑怯……だと思ったから。
「麗、ありがとう。澪の想いを、大切にしてくれてさ。多分ね、あの子……翼に伝えると思う」
「……やっぱり、そうだよね」
「不器用だけど、度胸はあるからね」
やっぱり澪ちゃんは、今日、告白するために神崎君を呼んだんだ。
「でも、どうして私や愛も呼んだんだろ……」
「多分、見て欲しかったんじゃないかな」
愛はなにか思い出すように、体育館の高い天井を見上げた。
「ウチ、昔言ったんだよね。『正直に自分をぶつければ、きっとわかってもらえるよ』って、だから澪は逃げずに頑張ってきた自分とか、ずっと積み上げてきたバレーをウチらに見せたかったんじゃないかな」
愛はこちらを見て、にっと笑う。
「でもさ。あんまり心配しなくて大丈夫だよ」
愛の言葉に私は顔を上げた。
「だって、翼はさ。いつも麗のこと、一番大事にしてくれてるでしょ」
胸の中で絡まっていた糸が、少しだけほどけるような気がした。
「……うん」
小さく、でも確かに頷く。
「神崎君のこと……信じてる」
* * *
俺――神崎翼が正面玄関を出た瞬間、体育館のざわめきが嘘みたいに遠のいた。さっきまで、あれだけ熱を帯びていた空気が、ここではひどく静かだ。
傾き始めた太陽がひどく眩しく感じられて。
澪ちゃんはユニフォームのまま、その眩しさを背に立っていた。
どうしてだろう。さっきまで圧倒的なプレーをしていた澪ちゃんが、今は少し……小さく見える。
「……澪ちゃん」
振り返った澪ちゃんは無理に笑おうとしているわけでもなく、どこか覚悟を決めた目をしている。
その瞳には見覚えがあった。
――同じだ。
中学のとき、図書室で、眼鏡越しにこちらを見ていた月城さんの姿が脳裏に浮かんだ。
澪ちゃんの立ち姿が、あのときの月城さんと重なる。
必死で、逃げ場のない目。
俺は……もう誰かの想いから逃げてはいけない。
あのとき、月城さんの想いを、ちゃんと受け止められなかった自分を、もう一度、繰り返すわけにはいかない。
答えがどうであれ、向き合うことから、目を逸らさない。それが、今の俺にできる、最低限の誠実さだ――。
「師匠……今日は来てくださって、ありがとうございました」
澪ちゃんから出てきたのは、丁寧な言葉だった。
「応援、すごく力になりました。師匠の声も、姉様の声も……月城さんの声も」
澪ちゃんは、ぎゅっと拳を握る。
「師匠は……私の憧れでした。初めて師匠のサーブを見たときは本当に驚いたんです」
澪ちゃんの視線が、まっすぐ、俺を見る。
「それから……師匠のことが気になってしまって……甘えてしまって……二人がお付き合いしていると聞いたときは、なぜかショックでした」
言葉を選ぶたびに、澪ちゃんの声は少しだけ震えていた。それでも、途中で立ち止まろうとはしない。
「でも、月城さんはそんな私を受け入れて、励ましてくれたんです。月城さんは、とっても良い人です」
月城さんを褒めるその言葉が、澪ちゃん自身を責めているようにも聞こえた。それでも、彼女は目を伏せない。
「それで……私が車に轢かれそうになったとき、師匠が助けてくれて……そのとき、ようやく分かったんです」
短い沈黙。
夕暮れの風が、二人の間を静かに通り抜けていく。
「こんなこと言われて、迷惑だって分かっています。月城さんにも……申し訳ないと思っています」
ぎゅっと握られた拳に、力がこもる。
「それでも……言わないまま終わるのは、嫌でした」
澪ちゃんは、俯きながらゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に溜め込んでいたものを、外に逃がすみたいに。
「だから……言います」
顔を上げた澪ちゃんは、今にも泣きそうな顔になっている。
「私は……師匠が……神崎さんが、好きです」
本気なんだな……。
澪ちゃんの覚悟が、想いが、俺にぶつかってくる。
それは、まるで彼女のスパイクみたいに、真っ直ぐで、強い。
だから……だからこそ俺は、澪ちゃんにちゃんと返事をしなければいけない。彼女の真剣な言葉に応えるために。
「……ありがとう。大事な気持ち、話してくれて」
澪ちゃんの肩が、ほんの少し揺れた。
「澪ちゃんのこと、すごいと思ってる。本当に、尊敬してる。でも……俺には、大切な人がいるんだ。その人を、傷つけることはできない」
「……はい」
澪ちゃんは、ゆっくりと一礼する。
「分かっていました。……それでも、言えてよかったです」
顔を上げた澪ちゃんは、泣いていない。
少しだけ、目が赤くなっていたが、それでも、どこか晴れやかだった。
「これで、ちゃんと前に進めます」
強い人だ。本当に。
俺は一瞬だけ、迷ってから、澪ちゃんの頭に手を伸ばした。
「よしよし、澪ちゃんの気持ちに応えることはできないけど。困ったことがあったらいつでも相談してね。俺は澪ちゃんの……『師匠』だからさ」
「……はい」
「また、ご飯も食べにおいで。父さんが澪ちゃんに、肉を食べさせたがってるからさ」
「……はい」
「月城さんも、きっと喜んでくれるから」
「……はい」
「全国大会、頑張るんだよ」
「うぅ……任せてください」
「ほら、もう泣かないで」
「泣いでいばぜん! これはさっきの試合でかいた汗です」
ユニフォームの袖で涙を拭う澪ちゃんの姿を、俺はずっと忘れないだろう。
「こ、この後、クールダウンとストレッチをしますので、師匠はもう戻って下さい! 月城さんが待ってますよ」
「うん。澪ちゃん、またね」
「はい!」
澪ちゃんは最後にようやく笑ってくれた。
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