55話 隣の少女はまだ答えが出ない
私――月城麗は、お手洗いに向かった澪ちゃんを追いかけて、トイレのドアをあける。
どうしても、彼女のことが放っておけなかった。
「澪ちゃん、大丈夫?」
澪ちゃんは鏡の前でうなだれるように両手をついていた。
「月城さん、すいませんでした。態度悪かったですよね」
彼女はこちらを振り返ることなく、鏡に写る自分に話しかけているみたいだった。
「ううん。そんなことないよ……」
澪ちゃんは私のことが嫌いになったかもしれない。
もしかしたら……憎いのかもしれない。
私が……神崎君の彼女だから――。
少しだけ、覚悟を決めてから――私は尋ねた。
「澪ちゃんも、神崎君のことが好き?」
鏡越しに見る彼女は、驚いたように目を見開くと、寂しそうに視線を落とした。
「やっぱりそう見えますか?」
澪ちゃんは下を見つめたまま、拳をぎゅっと握る。
「……男の人のことなんて、今まで気になったこと、なかったんです」
澪ちゃんと出会った日から、神崎君のことを師匠と慕う彼女の気持ちが、ようやく分かる気がした。
「学校にも、部活にも……そういうの、全然なくて……」
彼女は少しだけ言葉に迷ってから、続ける。
「でも……師匠のことは、気になってしまったんです……
大会も近いのに、練習にも全然集中できなくて……考えないようにしても、頭に浮かんできて……」
澪ちゃんは、自分でも困ったように眉を寄せた。
「それが何なのか、分からなくて……だから、自分の気持ちを……知りたくなったんです」
――あの日のことを思い出すように、澪ちゃんの瞳がそっと閉じられた。
「気付いたら、あのバーベキューの日……若葉学園の校門に、立っていました」
「部活をサボったのは初めてでした。ただ……師匠に会えたら、何か分かる気がしたんです……」
一瞬、澪ちゃんは唇を悔しそうに噛む。
「でも……師匠の隣には月城さんがいて……前に……ウチでバレーの練習をしてたときとは……二人の距離が、違って見えて……」
ぽろりと、本音と一緒に涙がこぼれていた。
「恋人みたいで……どうしたらいいのか、分からなくて……それで……さっき、勇気を出して、聞いてしまいました」
「好きって言葉でいいのかも、まだ……分からないです」
澪ちゃんの声は、とても小さかった。
それでも、その言葉に嘘なんかないって分かる。
私は一度深く呼吸をして、もう一度覚悟を決める。
「私ね……中学のとき、神崎君に告白したの」
澪ちゃんがはっと振り返り、ようやくその綺麗な顔を見せてくれた。
「結果は……フラれたの」
苦笑するけど、私の声は自分でも驚くほど落ち着いていた。
「でもね。不思議なくらい、後悔はなかったよ。あの告白があったから……今、私は神崎君の隣にいられるんだと思う」
「言えたから……ちゃんと、自分の気持ちとして向き合えたから」
少し間を置いて、私は続けた。
「だから……澪ちゃんがどうするかは、澪ちゃんの自由なんだよ。私が止める権利なんて、ない」
「でも……月城さんは師匠の彼女ですよね……嫌ですよね……その……私みたいな女は……」
「好きになっちゃう気持ちは、誰にも止められないし……それを悪いとか、嫌だとかは思わない」
ただ……これだけはどうしても、澪ちゃんに伝えたかった。
私の大好きな……神崎君のことを想う、真っ直ぐな彼女に……後悔してほしくなかったから――。
「ただね、『あの時、言わなかった自分』を、将来嫌いになりそうなら……そのときは、逃げないであげてほしい。後悔って、言わなかったときの方が絶対強く残るから……」
澪ちゃんは、しばらく黙っていた。
床を見つめたまま、何かを探すように視線をさまよわせている。
「……すぐに、答えは……出せないです」
そう前置きしてから、ゆっくり顔を上げた。
「でも……月城さんの言葉、ちゃんと……胸に、刺さりました」
自分でも驚いているみたいに、澪ちゃんはそっと胸元を押さえる。
「師匠……神崎さんのことを……よく、考えてみますね」
澪ちゃんは笑ってくれた。中学生らしく、照れた、はにかむような笑顔だった。
「うん……きっとそれが良いと思う」
澪ちゃんが、どんな決断をするのか私には分からない。でも私がすることはただ一つ。
やっと掴んだ神崎君の手を離さないことだ――。
澪ちゃんと二人でトイレを出ると、さっきまでの暗い顔が嘘みたいに明るくなった。
「澪〜、デザートきてるよ〜。早く食べないとウチが食べちゃうよ?」
「姉様、八つ裂きにしますよ?」
「怖っ!」
思わず、くすっと笑ってしまう。
……よかった。少しは、気持ちが軽くなったみたい。
「師匠、私にも勉強教えて下さい!」
「えぇ!? 澪ちゃんの勉強難しいんだよな……」
神崎君が、そんな澪ちゃんを笑って迎え入れる。
私が神崎君の隣に腰を下ろすと、彼は周りに聞こえないよう、そっと顔を寄せてくる。
「……ありがとう」
耳元にかかった吐息だけで、心臓が店の外に飛んでいきそうだ。
たったそれだけなのに、体温まで伝わってくるみたいで。
――やっぱり。
神崎君は、誰にも渡したくない。
私はそう心に誓い、運ばれてきていたデザートを一口、口に運んだ。
* * *
会計が終わるのを待つ間、私――高瀬澪は先に店の外に出た。
自動ドアが閉まると、ファミレスの中のざわめきが、急に遠くなる。
昼下がりの空気は思ったよりも暑くて、その熱が、体の奥に溜まっていた血を一気に巡らせるみたいだった。
ぼんやりしていた頭が、少しずつ冴えていく。
好き、なのかどうか。
私には、まだ分からない。
でも――逃げないで、ちゃんと答えを出してみせる。
そんなことを考えながら歩道に立っていると、前からベビーカーを押したお母さんと、男の子が歩いてくるのが見えた。
たぶん、三歳くらい。
公園にでも行くのだろうか?
男の子は赤いボールを持っていて、楽しそうに弾ませている。
――次の瞬間だった。
ころん、と。
軽い音を立てて、ボールが車道の方へ転がっていく。
「あっ……!」
お母さんの声より早く、男の子が走り出してしまう。
危ない――
そう思ったときには、もう身体が動いていた。
足に力が入る。
バレーで鍛えた脚が、男の子を助ける為に地面を蹴る。
「だめっ!」
男の子に手を伸ばすけど、視界の端で、車が近づいてくるのが見えた。
間に合う――そのはずだったのに。
男の子を歩道に押し戻した拍子に、私は一人、車道でバランスを崩してその場にへたり込んでしまった。
――あ。
時間が、ゆっくりになった気がした。
少しずつ私に近づいてくる車、驚いて私をみる通行人の人たち、私が押してしまって泣いている男の子の泣き声。
そして、不意に浮かんだのは――どうでもいいくらい、小さな後悔だった。
――ああ。
好きなのか分からないとか言ってたけど、こんなときに浮かぶのは師匠の顔だ。
なんだ……私……やっぱり、師匠のこと好きなんだ。
――ちゃんと、言っておけばよかったな。
そしたらこんな後悔なんてしなくて済んだのに。
人生の最期になるかもしれない瞬間、私は悩んでいたことの答えを見つけた。
最後に目に入ったのは店から出てきてクシャクシャになった姉様の泣きそうな顔。
「澪ォ!!」
いつも明るくて、元気をくれて、大好きな声が、遠くから私を叫んでいる。
姉様――ごめんなさい。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
月城さんや澪ちゃんの気持ちが、少しでも読者の方々に届いてくれたら私は嬉しいです。




