50話 隣の息子は前を向いている
「はい、息吸って」
「すぅーーー」
「はい、吐いて」
「はぁーーー」
俺は、さっきまで泣いていた月城さんを落ち着かせるため、向かい合って深呼吸をさせていた。
深呼吸は自律神経に作用し、副交感神経の働きを活発にする――らしい。難しい理屈はよくわからないが、とにかく人の気持ちを落ち着かせる効果があるのは確かだ。筋トレで限界まで追い込むときも、俺はよくこれをやる。
「どう? 少し落ち着いた?」
「うん……ごめんね。取り乱しちゃって」
さっきの勉強会。たった一箇所の計算ミスで「帰る」とまで言っていた月城さんも、ようやく平常心を取り戻したようだった。
「全然大丈夫だよ。それより……」
俺は視線を向こうへやる。
「……うん。なんだか……禍々しい雰囲気だね」
父さんと澪ちゃんが、無言で睨み合っていた。
……やばい。あれは父さんが「面白そうなやつ」を見つけたときの顔だ。
「お嬢さん。翼とは、どういう関係なんだ?」
先に口を開いたのは父さんだった。
「弟子です」
真顔で大嘘をつく澪ちゃん。
違うから! 勝手に言ってるだけだからね!?
「……弟子?」
「はい。私は神崎翼さんを尊敬しています。ですので、師匠なのです」
全然説明になっていない。
父さんは少し考えるように目を閉じ、そして――
「翼! お前、いい弟子を持ったな!」
俺の肩をばんっと叩いた。
「この子、只者じゃないだろ?」
「父さん、違うから」
俺は慌てて訂正に入る。
「この子はクラスメートの妹で、高瀬澪ちゃん。バレーボールのU-15日本代表なんだ。この前、月城さんにバレーを教えてくれてからちょっと俺に懐いちゃったみたいで」
「なにぃ!? 日本代表だと!?」
父さんの目が一気に輝く。
「道理で筋肉のオーラが違うと思ったわ!」
「師匠のお父様。以後、お見知り置きください」
澪ちゃんは丁寧に一礼した。所作がきれいで、年齢以上の落ち着きがある。
「お、お父様……?」
月城さんが、その呼び方に地味にショックを受けている。
いや、月城さんも最初はそう呼んでたからね……。
「わっはっは! よろしくな!」
父さんは豪快に笑った。
「俺は神崎剛十郎。翼の父だ。元柔道日本代表で、今は大学でコーチをしてる」
……絶対わざと「元日本代表」って言ったな。
だが、澪ちゃんの反応は意外だった。
「お父様も、世界と戦った経験があるのですね。オーラがすごくて、圧倒されていました」
圧倒されてたのか……。無表情すぎて全然わからなかった。澪ちゃんもやっぱりそっち系の人間なんだな。
「わっはっはっは! 分かる人間だな!」
父さんは大満足そうに頷く。
「腹減ってるだろ。飯、食っていけ。肉は好きか?」
「はい。大好きであります」
アスリート同士、細かい説明はいらないらしい。
「よし、翼! 今夜は庭でバーベキューだ! 準備するぞ!」
「えっ!?」
父さんの号令ひとつで話は決まった。
庭に出ると、すでにバーベキューコンロと炭、テーブルまで一式揃っていた。
「……うちに、こんなのあったんだ?」
思わず呟くと、父さんは炭を並べながら答える。
「沙苗が生きてた頃は、よくやってたからな」
「へぇ……そうなんだ」
「まあ、久しぶりだな」
俺と父さんは火の番。月城さんと澪ちゃんはキッチンで肉や野菜を切っている。
「それにしても、いい肉だったね」
霜降りの牛肉に、キャベツやトウモロコシなどの野菜まで揃っている。変なものを買ってこなかったことに、正直ほっとしていた。
「最初は、猪でも狩りに行こうかと思ってたんだがな」
「……は?」
「……あ?」
俺たちは同時に固まる。
「何言ってんの父さん。昨日、買ってくるって言ってたよね?」
「ああ。だから、狩ってくると言っただろう?」
「えぇ!? 『狩ってくる』ってそっち!?」
「ああ。だがやめた」
父さんは火のついた炭を転がしながら、あっさり言った。
「女の子には、ちと臭いがきついと思ってな。あれは通好みだ」
……よかった。本当に、よかった。
月城さんに猪肉を食わせる未来が回避されたことに、心の底から安堵する。父さんにも、ちゃんと常識は残っていたらしい。
「お肉とお野菜切れましたよ」
月城さんと澪ちゃんが肉と野菜がてんこ盛りになったトレーを運んでくる。
あぁ……エプロン姿の月城さん……なんてかわいいんだ。こんな人が俺の彼女なんて……俺は世界一の幸せ者だと思う。
「師匠。お肉は私が切りました。どうぞご賞味下さい」
澪ちゃんが持ったトレーにはぶつ切りになった牛肉、一切れ一切れがやたらとでかい。
「なんか大きいね」
「も、申し訳ありません。包丁を持ったのは生まれて初めてだったので」
澪ちゃんは少しだけ俯いてしまった。トレーを持つ両手が震えている。
「神崎君……澪ちゃん頑張ってたんだよ。ちゃんと褒めてあげないと……」
月城さんが俺の近くで囁いた。俺ははっとしてすぐさまフォローする。
「大きい肉の方が肉って感じがして良いよね! 上手に切ったね」
「そうなのです! やはり肉は口いっぱいに入れて食べたいですよね!? 分かっていただけて嬉しいです」
良かった。なんとか元気を出してくれた。
女の子って繊細すぎる。
「よぉーし、じゃあ焼くぞ」
父さんが豪快に肉をドサっと広げる。月城さんがせっせと野菜を肉の周りに並べていた。
肉の焼ける香ばしい臭いが立ち込める。食欲をそそる良い香りだ。
牛肉なんて久しぶりだ。いつも鶏むねばかりだったもんな。
「よし、食え! 遠慮するなよ!」
「「「いただきます」」」
陽キャたちが、やたらとバーベキューをやりたがる理由が、今ならよく分かる。
パチパチと音を立てて燃える炭。じゅう、と脂を弾かせながら焼けていく肉。立ち上る煙と一緒に漂ってくる、食欲を直撃する匂い。
それらを囲んでいるだけで、不思議と場の空気が明るくなる。何か特別なことをしているわけでもないのに、なぜか楽しいのだ。
最初に動いたのは、澪ちゃんだった。
「……うまいです」
一言そう呟いたかと思うと、次の瞬間には――
「うまいです!」
網の上の肉を、ほぼ反射で箸に取り、口へ運ぶ。
「うまいです!!」
……早い。とにかく早い。
焼けたそばから消えていく肉。それも一切れや二切れじゃない。さっきまで山盛りだったはずのトレーが、みるみるうちに軽くなっていく。
「お、おかわりあるからね……!」
月城さんが慌てて声をかける。
「ありがとうございます! では遠慮なく!」
澪ちゃんは遠慮という概念をどこかに置き忘れてきたらしい。
その様子を見て――
「わっはっはっはっは!!」
父さんが、腹の底から笑った。
「いい食いっぷりだ! 気持ちいいな! 育ち盛りってやつだ!」
「はい! トレーニング後の栄養補給は重要であります!」
「分かってるじゃないか!」
完全に意気投合している。
……まずい。
横を見ると、月城さんが――ほんの少しだけ、唇を尖らせていた。
「……」
あ、これ嫉妬してるやつだ。
無理もない。自分よりも肉を食べ、父さんに褒められ、空気を一気に持っていかれたら、モヤっとしない方がおかしい。
「わ、私も……!」
月城さんが箸を取り、少し大きめの肉を取る。
「……んっ」
口に入れた瞬間、ちょっとだけ苦しそうな顔する。
「……お、おいしい……けど……」
無理してる。
俺はそっと、月城さんの手首に触れた。
「無理しなくていいよ」
「で、でも……」
「澪ちゃんは体育会系だからさ。あれが普通なんだよ」
小声でそう伝える。
「俺たちは、ゆっくり食べよ?」
月城さんは一瞬きょとんとして――それから、ふっと力を抜いた。
「……うん」
安心したように、少しだけ微笑む。
父さんはそんなやり取りに気づく様子もなく、上機嫌で肉を焼いている。
そして――ひとしきり食べ終えたあと。
父さんは庭の奥、一本の木のそばに置かれた椅子に腰を下ろした。
炭のはぜる音と、夜風に揺れる木の葉。その景色の中で、父さんは珍しく静かだった。
* * *
俺――神崎剛十郎は庭にある木の側に椅子を運んで腰掛ける。
視線の先では、翼が笑っている。ぎこちなくて、それでも確かに、前を向いた笑顔だ。
……翼もここまで来たか。
そう思っていると、足音が近づいた。
「剛十郎さん」
月城さんが、俺の前に立っていた。
「少し、お話してもいいですか?」
「ああ」
俺は頷いた。彼女は、あの木を一度見上げてから、俺の方を見る。
「私……待ってて良かったです」
「……何の話だ?」
「神崎君のことです」
その一言で、胸の奥が少しだけ軋んだ。
「ずっと、不器用で。でも、ちゃんと前に進んで……今は、すごく楽しそうで」
月城さんは、静かに頭を下げた。
「ありがとうございました」
礼を言われる覚えはない。
「俺は、何もしていない」
正直な言葉だった。
「あいつが、自分で答えを見つけただけだ」
月城さんは、少し迷うように視線を泳がせ、それから意を決したように口を開いた。
「……この木のこと、神崎君には言ってないんですか?」
来たか。
俺は、しばらく黙った。
「言ったことはある」
「え……?」
「早苗が死んで、すぐにな」
記憶が、否応なく引き戻された。あの日、あの時、幼い翼がまだ母親が死んだことを理解できなかったとき。
⸻
――この木の下で、翼は泣いていた。
小さな身体で、幹にしがみつくように。
「お母さんは……帰ってくるの?」
答えられなかった。
「木になってるなら……話したら、お返事してくれる?」
風に揺れる葉が、かすかに音を立てる。
「……抱っこ、してくれる?」
その声が、今でも耳に残っている。
何度も、何度も。
日が暮れても、翼はそこにいた。
俺は思った。
――この話を続ける限り、あいつはずっとここで待つ。
待って、待って、前に進めなくなる。
だから――言うのを、やめた。
優しさだったのか、臆病だったのか、今でも分からない。
ただ一つ確かなのは――
あの光景を、二度と見たくなかった。
⸻
「……あんな寂しそうな翼はもう見たくない」
気づけば、そう口にしていた。
月城さんは、何も言わない。否定もしないし、慰めもしない。ただ、隣に立って聞いている。
「でも」
月城さんは、静かに言った。
「神崎君は、もう一人じゃないです」
俺は、顔を上げた。
「待つことより、前に進むことを選べる人になりました」
庭の向こうで、翼が澪ちゃんに何か言われて困ったように笑っている。
それを見て、月城さんも微笑んだ。
「それは……剛十郎さんが、ちゃんと守ったからだと思います」
「俺がか?」
俺はただ、あの木を見上げた。
風に揺れる枝。重なり合う葉の音。
――早苗、見えてるか?
あいつは、ちゃんと、未来に向かってる。ちゃんと成長してるぞ。
俺は、椅子に深く背中を預け、庭に広がる笑い声を聞いていた。
それだけで、今夜は十分だった。
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