49話 隣の彼女は良いところを見せたい
神崎家の玄関に到着すると、月城さんは家に入らず、いつものように庭へ歩いていった。
「師匠、月城さんは何をしているのですか?」
「……俺にもわからないんだよな」
月城さんは、うちに来ると必ず庭の一本の木の前へ向かう。幹にそっと触れ、しゃがみ込み、誰かに話しかけているように微笑む。
前に「なにしてるの?」と聞いたときも――
『ご挨拶だよ』
それしか言わなかった。
……ご挨拶? 誰に?
意味はさっぱりわからないけれど、その横顔はまるで――そこに大切な誰かがいるみたいに優しかった。
風が葉を揺らし、さらさらと返事するように鳴る。
「ごめんね。お待たせ! さぁ、勉強がんばろう」
振り返った月城さんは、右手の拳をぴょこんと上に上げた。どうやら気合い十分のようだ。
リビングに入ると、月城さんは慣れた手つきでキッチンへ向かった。
「神崎君はアイスコーヒーでいい? 澪ちゃんは何にする?」
完全に自宅のように動くその姿に、ツッコミを通り越して感心するレベルである――通い妻だな。
「ありがとうございます。同じものでお願いします」
「はーい。ちょっと待っててね」
ケトルがコポコポと湯気を立てるころ、俺はテーブルの前に座り、参考書を広げた。
「師匠の隣、失礼します」
澪ちゃんがすっと隣へ腰を下ろす。距離が……近い。ほんとに近い。肩、触れてる……。
爽やかなシャンプーの香りがふわっとして、不覚にもドキっとしてしまう。
「うん?」
アイスコーヒーをのせたお盆を持ってきた月城さんの動きが、ぴたりと止まった。
「み、澪ちゃん? ちょっと……神崎君に近くないかな?」
「そうでしょうか? この距離でなければ教えていただきにくいと思いましたが」
「そ、そっか……じゃ、じゃあ……仕方ないね……」
月城さんはぷくっと頬をふくらませながら、澪ちゃんを睨んでいた。やばい、これは絶対に怒ってる。
「準備できました」
「そ、そう……」
「じゃあ、私はここに……座るね」
月城さんは俺の正面に座ったが、笑顔は引きつったままだ。
「私、神崎君の彼女なのに……」
小さな呟きが聞こえて、俺は慌てて澪ちゃんとの距離を空ける。
「澪ちゃん、ちょっとだけ離れよ。わからないとこあったら言ってね」
「……師匠がそう言うなら」
少し不満げにしつつも、従ってくれる澪ちゃん。だが月城さんの嫉妬オーラは、なおバチバチに漂っていた。
しばらく三人で静かに勉強していたのだが、澪ちゃんがふと口を開いた。
「申し訳ありません師匠。この問題の解き方がわからないのです」
「ん? どれどれ?」
覗き込んだ俺は――完全に固まった。
え、なにこれ。中学の問題じゃなくない?
応用効いてて普通に怪しいんだけど……。
月城さんがこちらを不安そうに見ている。
……見栄張って間違えるより、素直に頼ったほうがいい。
「ごめん月城さん。この問題……助けてほしい」
「えっ……!」
月城さんの顔がぱあっと明るくなる。完全に頼られた喜びの表情である。
「あ、うん! 任せて! これね、見た目より簡単なんだよ!」
さらさらとノートに解き方を書き始める月城さん。説明は丁寧で、わかりやすくて、俺も普通に感心した。
「ここを整理すると……ほら、こうなるの!」
「なるほど。ありがとうございます」
淡々と礼を述べる澪ちゃんとに、月城さんは得意気に胸を張っている。
うん、この流れは良いぞ。機嫌が直ってきた。
「月城さん、ほんと教えるの上手だね。先生とか向いてるよ」
「フフフ。そんなに褒めても……『答え』しか出ないよ?」
意味不明なドヤ台詞なのに、かわいいから許してしまう。
「……解き方は、非常にわかりやすかったです」
「でしょ〜?」
澪ちゃんは答えを確認し、すっと視線を上げた。
「しかし、一箇所……計算が間違っています」
「……えっ?」
空気が、一瞬で冷えていくのがわかった。
澪ちゃんがミスした箇所をトントンとペンで指す。
「う、うそ……」
さっきまで笑顔が咲き誇っていた月城さんの顔が……しゅうぅぅと萎んでいく。
「ほんとだ……」
そして、うるうるの瞳で俺を見てくる。そんな顔されたら、逆にこっちが泣きそうだ。
「うぅ……わ、私……帰る……」
「待って! 月城さん! 本当にちょっとした計算ミスだから!」
「だって! あんなにドヤっちゃったんだよ!? なにが『答えしかし出ないよ?』なの! 私なんてただのポンコツなんだよ……!」
泣きながらカバンを掴む月城さん。心の繊細さだけはトップレベルでヒロインだ。
「解き方は完璧だったよ! ほんとに!」
俺は全力で彼女の腕を掴んで引き留めようとするけれど……。
「もう帰るの!!」
細いくせにめちゃくちゃ力が強い! 帰宅を阻止するのが本気で大変だ。
……誰でもいいから助けてくれ……!
そう心の中で叫んだ瞬間。
「ただいまー! む? どうした?」
「父さん!?」
「剛十郎さん……!」
父さんは泣き喚く月城さんと澪ちゃんを交互に見つめ、眉を寄せた。
「……修羅場か?」
「ち、違います……!」
月城さんがビクッと震える。
「なんだケンカしたのか? ケンカはな、男が折れれば全部丸く収まるぞ! 土下座の一発で――」
「絶対しない!!」
父さんの謎理論は無視だ。今は月城さんをなんとかしないと――。
「ケンカじゃありません……。私がポンコツで……」
「違うよ月城さん! ほんとに違う!」
俺が否定しても、涙はぽろぽろ落ちるばかり。
そんなとき――どうやら全てを察した父さんが、低い声で言った。
「月城さん」
月城さんが顔を上げる。
「間違いは誰にでもある」
「剛十郎さん……」
父さんはにかっと笑い、親指を立てた。
「翼の前でいいとこ見せようとしすぎて、空回りしただけだよな!」
「~~~~~っ!?」
顔を覆ってうずくまる月城さん。お、追い打ちかけやがった……。
「若いっていいなぁ! はっはっは!」
父さんの高笑いがリビングに響き渡る中、俺はただ頭を抱えるしかなかった。
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