28話 私は神崎君の家に突撃する②
神崎君の案内で、私は筋肉部屋の真ん中に立った。
見渡す限り鉄と黒いゴムの世界。壁際には鏡が貼られていて、自分の姿が映る。
……完全に場違いだ。服装は学校帰りの制服。スカートで筋トレなんてできるわけがない。
「月城さん、その格好じゃ動けないでしょ?」
「う、うん……。ちょっと見てるだけでもいいかなって思ってたんだけど……」
「Tシャツとハーフパンツ貸すよ。いつもトレーニングで使ってるやつ」
「え、そ、そんな悪いよ……!」
「いいって。ちゃんと洗ってあるから」
そう言って差し出されたのは、黒いTシャツとグレーのハーフパンツ。
サイズは明らかに大きくて、私の手の中でふわりとした形になった。
さらっと渡してきたけど、神崎君恥ずかしくないの? それ、付き合ってるカップルがすることだよ!?
居間の隅で着替えるときも、なんだか彼に包まれているみたいな気分になって、悶絶しそうになった。
Tシャツの裾が太ももまでかかるくらい長い。袖も少し余っていて、動くたびに布がひらひらと揺れる。
うわ、ブカブカだ……。神崎君やっぱり大きい……。
ハーフパンツはウエストがゆるくて、紐をきゅっと結ぶ。鏡を見ると、どう見ても「部活帰りのカップル」っぽい。
「ごめんね。月城さんが着れそうなの、それしかないんだ」
「は、ははは。ありがとー。」
「月城さん、無理しなくていいからね」
「だ、大丈夫っ。軽くだから!」
――見学で終わるつもりだった。最初は。
でも、神崎君が器具の説明をしてくれるその声が、妙に優しくて。
姿勢を正して、ゆっくりダンベルを持ち上げる姿が……あまりにもかっこよくて。
気づいたら、口が勝手に動いてた。
「わ、私もやってみたいっ!」
「えっ、ほんとに?」
「ほ、ほんとにっ!」
神崎君は少し不安そうな表情を浮かべて、小さめのダンベルを渡してくれた。
両手で受け取ると、思ったよりずっしりと重い。
「そ、それで何キロ?」
「五キロだよ」
「ご……キロ……」
手がプルプル震える。
神崎君は慌てて手を伸ばした。
「ちょっ、無理しないで! 落としたら危ないから!」
「だ、大丈夫……っ。私、持てる……っ」
「顔、真っ赤だけど!」
「う〜っ……! も、もてないっ!」
ガシャン、と音を立ててダンベルが床に転がった。神崎君が慌てて拾い上げる。
「ほら、言ったでしょ。無理するなって」
「うう……。ちょっとくらいできるところ、見せたかったのに……」
神崎君は少し困ったように笑って、それから真面目な声で言った。
「できないのに頑張ろうとするの、月城さんらしいけどね」
「ら、らしいってなに……」
「その……かわいいってこと」
「っっ!」
ダンベルより重い何かが、胸の奥に落ちた気がした。
ま、また可愛いって言った……!? どうしたの神崎君!? 昨日から変だよ!?
全身が熱くなる。どうしよう、筋トレより心臓に負荷がかかってる。
「ほら、ストレッチしておこう」
「す、するっ!」
神崎君の真似をして腕を伸ばす。でも、彼が背後から軽くサポートしてくれるたびに、背中越しに伝わる体温に頭が真っ白になった。
近い……! 神崎君近いっ! ああ、でも……これ……なんか良い……。
――そんな私の脳内が完全に崩壊しかけた、そのときだった。
「おーい! 翼ー! 帰ったぞーっ!」
玄関から響くような豪快な声が聞こえた。
……来た。神崎君のお父さんだ!
「お、お父さん帰ってきた!」
「お父さん!?」
神崎君が振り向く前に、ドスドスと足音が廊下を進んでくる。まるで地鳴りみたい。
「おう、翼! 今日はお客さんか!」
扉が開くと、そこに立っていたのは――写真よりさらに大きく、声よりも迫力がある男の人だった。
黒いスーツがはち切れそうで、腕は丸太みたい。
そして笑顔。おかしい! 笑ってるのに、怖い。
「……こ、こんにちはっ! 月城麗ですっ!」
「おお! 君が月城さんか! 俺は翼の父で、神崎剛十郎という。よろしくな!」
剛十郎さんが笑顔で手を差し出した。でも、その手のひらが私の顔より大きくて――私は条件反射で直立不動になった。
「お、お父様! よ、よろしくお願いします……!」
「おお、礼儀正しいな! 翼! お前、良い友達持ったな!」
バシィッ! と肩を叩かれた神崎君がちょっと浮いた。その衝撃で、部屋の空気が一瞬止まる。
「う、うん……ありがとう父さん……」
こ、これが神崎君のお父さん……! お、大きい……! でも……。
剛十郎さんの笑顔を見た瞬間、私は少しだけ安心した。
悪い人には見えない……。
剛十郎さんは豪快に笑って言った。
「茶の準備をしよう! せっかくだから飯も食ってけ!」
その言葉に、私は思わず背筋を伸ばす。
「え、えっと……!」
「ごめん、月城さん。父さん、言い出したら聞かないんだ。良かったら食べていってよ。大丈夫かな?」
「は、はい! よ、喜んで〜」
ど、どどどうしよう……。もう逃げられない……。
居間に戻ると、神崎君のお父さん――剛十郎さんが、でっかいシェイカーを振っていた。ドスンドスンと、まるで戦太鼓のような音が響く。
「よし、いい感じに泡立ったな! さあ、飲め!」
テーブルに並べられた三つのコップ。中には、こげ茶色の液体がとろりと入っている。
……えっと、これ、お茶……じゃないよね?
「お、お茶……ですか?」
「うむ。チョコレート味の“茶”だ!」
胸を張って言う剛十郎さん。神崎君が小声で耳打ちしてきた。
「月城さん、それ、プロテインだから」
「ぷ、ぷろていん!?」
びっくりしてコップを見つめる。
表面に細かい泡が浮いて、かすかに甘い香りがする。
こ、これ飲んだら……私、ムキムキになっちゃうんじゃ……?
「遠慮せず飲みたまえ!」
「は、はいっ!」
断れる空気じゃない。意を決して、口をつける。
――あれ。おいしい。思ってたより全然飲みやすい。むしろ、ココアみたい。
「どうだ? 体に染みるだろう!」
「お、おいしいです! ちょっとびっくりしました!」
剛十郎さんは満足げにうなずき、神崎君が説明してくれた。
「昔のプロテインはまずかったらしいけど、今のはけっこう美味しいよ。水に混ぜて飲むことが多いけど、このプロテインは牛乳で割ってあるから、飲みやすいと思う」
「へぇ……そうなんだ……」
ほんのり甘い味が口の中に残る。なんだろう、これ。筋肉の飲み物なのに、なんか――優しい味がする。
目の前で笑う親子の姿を見ながら、私は思った。
神崎君の家って、怖いくらいの筋肉空間だったけど……こうして見ると、意外とあたたかい場所なのかもしれない。
「よし、次は飯だ!」
剛十郎さんが立ち上がった。
その声の迫力に、私と神崎君は反射的に背筋を伸ばす。
「め、飯……!?」
「うむ! 男の手料理ってやつを食わせてやる! なぁ翼!」
「ま、待って父さん! 包丁触るのはやめ――」
ドンッ! という音とともに、剛十郎さんがキッチンへ突撃した。
背中からただならぬ気迫が漂っている。いや、あれは闘志かもしれない。
「お父さん、料理できるの……?」
私が恐る恐る尋ねると、神崎君は遠い目をした。
「一応、やる気だけはあります……」
「やる気、だけ……?」
「うん。前にチャーハン作ったときはフライパンが天井に刺さった」
「刺さっ――!?」
聞いた瞬間、目の前で油のはねる音がした。
「おおっ!? なかなか火力が強いな!」
見に行くと、フライパンの中では肉が焦げ、煙がもうもうと上がっている。
剛十郎さんは満面の笑みで言った。
「男の料理は勢いだ! 細かいことは気にするな!」
「いやいやいや、気にしてください!!」
私は思わずエプロンを借りて、剛十郎さんの隣に立った。
「お、お手伝いしますっ! あの、焦げそうです!」
「おおっ、すまんすまん! 頼もしいな月城さん!」
――こうして、私は神崎家キッチンの戦場に参戦することになった。
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