19話 隣の筋肉と山へ行く
土曜の夜。
トレーニングを終えた俺は、シャワーを浴びて自宅リビングのソファで横になっていた。思い出されるのは昨日の教室での月城さんとのやりとり。
「月城さんの弁当……楽しみだなぁ……」
それにしても、お昼ご飯を一緒にって言ってたけど、お礼なんて助けた後にいってくれたありがとうの一言で充分だったのに……。
どうしてわざわざ弁当なんて作ってくれるんだ?
もしかして――。
最近、俺が購買でパンばかり食べてるのを見かねたのかもしれないな。優しい人だから、俺の偏った食生活が気になったのかもしれない。うん、きっとそうだ。特別な意味などない。
しかし、俺に月城さんの弁当を食う資格があるのか?
彼女は美少女になって、みんなから好かれて、俺の手の届かないような存在だ。しかも好きな人だっている。映画だってそうだ。一緒に行っていいのか? 本当は好きな人と行きたいのかもしれないのに、俺でいいのか?
答えなんかでないのはわかってる。でも、尋ねる気にもなれない。それを聞いたら、また月城さんを悲しませる気がした。
ダメだ。お礼で弁当をもらうだけなのに、つい月城さんのことを考えてしまう……。
こんなときこそ筋トレだ! 煩悩よ。俺から消え失せろ。
シャツを脱いで、上半身裸になり、その場で腹筋をする。
いいぞ! 筋トレしていれば雑念は振り払える。
見てみろ腹直筋が悲鳴を上げて喜んでいる。次は腹斜筋だ。さぁお前の声を聞かせてくれ!
……ふと我に返った。
最近の俺は筋肉と会話しようとするヤバいやつになっている……。きっと父さんに似てきたのかもしれない。
ガキンッ!
突然、玄関のドアの方から金属が悲鳴を上げて折れるような音がした。
直後、リビングのドアも爆発するように勢いよく開かれた。
「ただいまーって、おおっ! 見事な腹直筋だな!」
現れたのは、柔道着姿の巨漢――我が父、神崎剛十郎である。
「父さん。おかえり。遅かったね?」
「今日は遠征だったからな!」
「お疲れさま。なんか玄関で変な音しなかった?」
「玄関のドアノブが俺の握力でちょっと壊れただけだ。まぁ気にするな!」
「気にするわ!」
相変わらずの物理系帰宅である。
父さんは俺の肩を鷲掴みにすると、満面の笑みで言った。
「しかし、どうした翼! 腹直筋だけでなく、全身の筋肉の張りが尋常じゃないぞ!? 僧帽筋に広背筋、大殿筋まで……。なにかあったな?」
「べ、別に……」
「嘘をつけッ! お前の筋肉たちが語ってるぞ!“恋してます”となァ!」
黙ってくれ、俺の筋肉たちよ……。
「なんだと!? しかも月城さんから手作り弁当をもらうぅ!? どぉゆうことだ、翼ァ!?」
「はぁ!? そんなことまでわかるの?」
俺は驚いて父さんから距離をとると、慌てて脱いでいたシャツを着た。これ以上、俺の筋肉と語り合わないでいただきたい。
父さんは腕を組んで、鼻息を一つ、フンッと出した。
「図星か?」
どうやら父さんは本当に筋肉と会話ができるスキル持ちらしい。絶対、生まれる世界を間違えただろ……。
俺は観念して筋肉ではなく、自分の口で話した。
「実はさ、今日、月城さんが先輩から告白されてて……」
「ほう」
「困ってたから割って入って助けたんだ。そしたらお礼にお弁当作ってきますって」
「……翼、行くぞ」
「えっ……どこへ?」
父さんは俺を片腕でひょいと担ぐと自宅の駐車場に向かった。
「なにするんだよ父さん!?」
「いいから乗れ」
駐車場には父さんの愛車の白くてデカいバンがあり、俺は後部座席に放り込まれた。
「父さん、一体どこに行くんだよ!?」
「決まっている! 山だッ!」
「はぁ?」
※ ※ ※
真夜中。
父さんの車は高速道路を爆走していた。
到着したのは、標高の高い山の上――。
「……で、なんでここ?」
父さんは車を降り、夜空を見上げて仁王立ちになった。
「女の子の手作り弁当ってのはな、ただの飯じゃない。“気持ち”が詰まってる。それを受け取るってことは、その気持ちを“受け止める覚悟”がいるんだ。腹を満たす前に、心と体を仕上げろ。飯を受け取るってのは、想いを受け取るってことだ!」
「父さん……」
なんかすごい良いこと言ってるけど、こんな山奥に連れてきて一体なにするんだ?
父さんは満月を背にして振り返ると、笑顔で地面を指差した。
「ここから――走って帰れ!」
「はああああ!?」
「距離は約一五〇キロ! 間に合わないと月城さんの弁当は食えんぞ! 心配するな俺も走る。お前だけに辛い思いはさせない」
「えっ……ちょっと……父さん?」
「いい筋肉は、いい飯を呼ぶッ! 走れぇぇぇ!!」
父さんの号令と同時に、夜の山に咆哮が響いた。父さんは一瞬で姿が消えて見えなくなる。風圧で木の葉が舞い上がり、ひらひらと地面に落ちていく。
「速っ!? 今の人間!?」
俺は顔を覆って叫んだ。
「なんでこんな異世界転生直後の主人公みたいな状況になってんだ俺はぁぁぁ!」
でも、父さんは言ったことを必ずやり遂げる。絶対に戻ってこない。
俺は覚悟を決めて走り出した――。
しばらく走ると倒れた木。さらに進むと、気絶した熊。たぶん全部、父さんが通った跡だ。
月曜日の弁当。そのためだけに――今、俺は山を駆け下りている。絶対に間に合わせる。
「……間に合わなかったら、泣くぞ俺」
※ ※ ※
「ハァッ、ハァッ……」
どのくらい走ったのだろう――。日はすでに昇って、辺りはすっかり街になっていた。海沿いの遊歩道をひたすら真っ直ぐ走る。
意識が朦朧として、足裏の感覚がなくなってきた。まるでバーベルを担いで走っているように身体が重い。
「なんで俺、走ってるんだっけ?」
走る理由がわからない。苦しい。息ができない。もうやめたい……。
ちょっと休憩するか? 一五〇キロなんて、高校生には無理だろ……。
「わ、私、頑張るね! じゃあ、月曜日に持ってくるから!」
ッ! 月城さんの声が聞こえた気がした。彼女は頑張ると言っていた。ここで俺が間に合わなかったら、彼女の頑張りを無駄にしてしまう。
父さんは言っていた。女の子の手作り弁当には、“気持ち”が詰まっていると――。
俺が諦めたら、誰が月城さんの手作り弁当を食べるんだ? 俺以外の誰かか? そんなのは――嫌だ!
「月城さんの手作り弁当は俺のものだぁぁああ!」
そこからの記憶がない。ただ月城さんの弁当を食べる。それだけしか考えていなかった。家に到着したのは真夜中。父さんが庭先で待っていてくれた。
「よくやった翼。これで明日は完璧な状態で月城さんの弁当が食えるだろう。お礼だろうが、作ってくれた感謝の気持ちを忘れるなよ?」
そう言って父さんは、俺を自室のベッドへ運んでくれた。
そして――。
「しまった! 車を忘れた! とってくるからお前は寝てろ!」
父さんは、山に向かって走り出した。