18話 隣のお姉さんはお母さんです
私はため息交じりに重い足取りで家へ帰った。神崎君にお弁当を作るのか……。どうしよう……。
私は別に料理ができないという訳ではない。神崎君にフられたあの日から、いつか彼に食べてもらえる日を夢見て、お母さんに教えてもらっていた。
ただ、自分の料理を家族以外に振る舞った経験がなかった私には自信が持てなかった。
お父さんとお母さんはいつも「ん〜! 麗ちゃんの料理最高!」と言ってくれる。そのときの二人の笑顔は本当に美味しいと思ってくれてるって分かる。……でも、好きな人に手作り弁当を用意するというは、全くの別物……プレッシャーが半端ない。
しかし、料理に関しては師匠であるお母さんしか頼れない……。帰ったら相談してみよう……。
商店街を抜けると、春の風がスカートの裾をふわりと揺らした。
沈みかけた夕陽が街をやさしい橙色に染めていく。その光の向こうに――彼の笑顔がある気がした。
頬を撫でる風が少しだけ暖かくて、私は小さく息を吐いた。
「……頑張ろう」
春の放課後は、静かに、でも確かに輝いていた。
※ ※ ※
玄関の扉を開けると、リビングのテレビの音が聞こえた。お弁当のことをどう相談しようか迷いながら、おそるおそるドアノブに手をかけた。
「ただいま」
「麗ちゃん。おかえりなさい」
ソファに腰かけていた母――月城志保は、振り向いた瞬間、まるで少女漫画から抜け出してきたみたいな笑顔を見せた。
肩までのゆるく巻かれた栗色の髪に、白いブラウス。年齢を感じさせない透明感のある肌は、光の加減によって少しだけ桃色に見える。
いつもほんのり甘い香りがして、近所でも「お姉さん」と間違われるほど若く見られる人だ。けれどその笑顔には、ちゃんと“母親”の温かさがあった。
「今日も頑張ったわね。顔が少し赤いけど……なにかあった?」
包み込むような声で、私の不安まで優しくほどいてくれる。
「あ、あの……お母さん……」
どうしよう……。“神崎君にお弁当を作ることになった”なんて話を、母にどう説明すればいいのか分からない。
母は神崎君のことを知っている。私が彼にフラれて泣いて帰ってきた日、ベッドで泣いた後、心配する母に全てを話してしまった。
神崎君と過ごした楽しい時間――。
彼に告白してフラれたこと――。
自分を変えたいこと――。
「大丈夫。麗ちゃんならきっと変われるわ」
母はそう言って優しく抱きしめてくれた。
でも……神崎君から離れたくなくて、彼と一緒の高校を選んだことは言っていなかった……。
「そんなことで、大事な進路を決めるなんて!」って怒られるかもしれない……。
母はテレビを消して、湯気の立つマグカップをテーブルに置いた。
「どうしたの? なにか困りごと?」
その仕草があまりにも優雅で、自分の母親なのかと疑ってしまう。
「ふふ。お母さんの目は欺けないわよ。ずばり! 恋のお悩みね!」
「ち、ちちちち違いますよ!」
「麗ちゃん、ほんとに嘘が下手ね〜」
私はため息を一つして、完全に理解してしまった。母のその笑顔で隠れた瞼の下には、全てを見透かす神のごとき千里眼があるのだと……。
観念して母の隣に腰かける。そして、ぽつりぽつりと話し始めた。
「神崎君のこと覚えてる?」
「えぇ、もちろん。麗ちゃんが中学のとき好きだった男の子よね? その子がどうかしたの?」
「実は彼と同じ高校なんだけど……」
途端に母の雰囲気が変わった。笑顔に隠れていた瞼が開き、頬を赤くして私を睨み始めた……。その瞳には冷徹の二文字が並んでいた。
「麗ちゃん。まさか神崎君を追いかけて『青葉学園』を選んだんじゃないわよね?」
やばい。怒られる……。でも母に嘘はつきたくない。私は意を決して母に言った。
「彼と離れたくなくて……ごめんなさい」
私は母に向かって頭を下げた。大事な進路を、私の恋心で決めてしまったのだから……。怒られて当然だ。覚悟を決めた、その瞬間――。
「まぁっ!」
母は両手を自分の目の前で合わせて目をキラキラと輝かせている。まるで、恋愛漫画の新刊を見つけた中学生みたいな反応だった。
「胸キュンじゃない! なーに、その少女漫画みたいな展開!」
「お、怒らないの?」
「怒らないわよ。よっぽど神崎君のことが好きなのね。一途な恋は最高よ!」
そう――母は少女漫画が大好きなのだ……。リビングの壁一面の本棚には、漫画喫茶かと思う程の少女漫画がずらりと並んでいる。全て母のコレクションだ。好きがたたって、在宅ながら漫画の校閲の仕事をしている。本人曰く、「発売前に新刊がチェックできるでしょ?」とのことらしい。
「あらあら、麗ちゃんにもついに春がきたのね。」
「ち、違うってば! 私、フラれてるし……」
私は顔を真っ赤にして否定するけど、母は完全に聞いていない。頬に手を当て、うっとりした目で天井を見上げながらつぶやいた。
「麗ちゃんをそこまで夢中にさせるなんて……素敵な人なんでしょうね」
「う、うん。素敵です……」
いつも優しくて、かっこよくて、頼りになって、今日なんて、困っていた私を助けてくれた。私は母の前だというのに神崎君のことを思い浮かべてぼーっとしてしまう。
「で、その麗ちゃんの王子様がどうかしたの?」
はっ! っと我に返った私は、今日の出来事を母に話した。
先輩から告白されたこと、困っていた私を神崎君が助けてくれたこと、彼が手作り弁当をご所望なこと。
母は私が話している最中も、ときどき「きゃーっ」とか「ふふ、尊い……」とか、どこか夢見心地な声を出していた。まるで少女漫画のヒロインに感情移入しているみたいに。
「麗ちゃん。それ脳に変なフィルターかかってない? 事実だとしたら神崎君、カッコよすぎるわね……」
「かかってないよ!」
だって、全部本当のことなんだもん。そう――。だから私は不安になる。あの超絶イケメン王子に、わ、私のお弁当を献上しなくてはならないのだから――。
「私に出来るかな?」
そう言うと、母はまたいつもの優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。お弁当なんていつも通りで大丈夫。麗ちゃんの作る卵焼き、ふんわりしてて世界一おいしいんだから」
母の言葉が、不安で固まっていた心をじんわり溶かしてくれていくのがわかった。
「……ありがとう、お母さん」
「さぁ。一緒にメニューから考えましょう! 王子様を満足させて虜にしちゃいましょうね」
窓の外では春の風がカーテンを揺らしていた。淡い夕陽が部屋の中に差し込み、私の決意をそっと照らしてくれた。
「あ、麗ちゃん」
「なに? お母さん」
「その話、お父さんに言わない方がいいわよ」
「どうして?」
「麗ちゃんが神崎君にフラれたって聞いたとき、『そいつぶっ殺す』って言ってたわよ〜」
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