竜を夢見る人の恋
竜の夢を名乗る令嬢と、出生が厄めな令息の相思相愛婚約モノ。想い合う番が不幸な目に遭うのをサクッと楽しみたいひと向け。
「わたくしは、竜体がみている夢なのだよ」と。竜のように尊大な声で、夢のごとく美しい、令嬢は言った。
芝居がかった身振りのたび、可憐に膨らんだドレスの端々が光を散らす。彼女の瞳の黒をした極小のオニキスが無数に縫い付けられ、生地全体に濡れたような光沢をもたらしていた。小さな城なら購えそうな極上の仕立てが彼女にふさわしかった。
銀糸の髪。メレンゲ菓子に似たもろく甘そうな手指。儚い容姿へ二滴のインクを落とした黒の瞳がてらいなくオレの目を射抜く。
それこそ夢みたいな話だ。この白昼夢のような女がいま、オレの婚約者だった。
「……なら、オレはあなたの夢の登場人物か。コンスタンツァ嬢?」
問えば彼女はぱちくりと大きな目で瞬く。
「おまえ、馬鹿なことを、と言わないのだね」
「言うものか。嫌われるだろ」
「ふふ、お優しい。それとも、婚約者なぞどうでもいいのかな?」
そうして小さな唇を吊り上げ、笑みを浮かべる。敵意と見紛うくらい不敵で挑発的な笑い方。
「おまえはわたくしの見る幻、ではもちろんない。竜の夢は肉を持つんだ。稀だけれどね」
「それなら、竜のあなたは、今もどこかで眠っているのか?」
「うん」
ふと、彼女は窓の外を見る。鉛色の空がしんしんと雪を降らせている。うんざりする淡灰色がどこまでも続き、遠い丘陵には炭で引っ掻いたような黒い針葉樹が並ぶ。その果て、隣国とを隔てる常冬の山脈を、ほの白い指が指し示す。
「あれがわたくし」
一時、人形めいた頬から表情が抜ける。
ピケテの大山脈は、国一番の巨山をも擁するといわれる。
伝聞調なのは、実際に辿り着いた人間が存在しないためだ。最高峰の踏破は言うに及ばず、拓けたルートの通過すらも至難だった。白亜のように白く、謎めいたその連峰が竜の体だと彼女は言う。
夢物語のような話だ。オレにはどうだっていいことだった。「そうか」と答えれば彼女はまた怪訝に目を細める。
「あっさりしすぎじゃないか。……まさか信じたのかい?」
「オレが信じて不都合があるのか?」
「いやいいけれどもね」
ううん、と頬をかく。
「そうか、これを聞いても婚約を取りやめる気はないか」
「ないな。それだけは絶対に」
「ううん、そうかい。それなら……」
言うなり応接間中を漁り始める。引き出しを開け、戸棚を開き、細々したものを取り出しては机上に並べていく。繊細な意匠の万年筆、埃をかぶったインク瓶、真新しい紙と封筒がいくつか。
「まずは文通から始めよう、婚約者殿。それから年に一度はこの辺境伯領まで会いに来たまえ」
「いいだろう」
「即答かあ。王都からは遠いけれど」
「構わない、できる」
できるかそうか、とくつくつ笑う彼女から、文通用の一式を手渡される。彼女の体格に合わせてあるのか、筆記具は全体的に小ぶりなつくりだった。書きにくそうだと思いながら掌に握り込む。
「それはおまえに譲ろう。まずは帰路の手慰みにでもして、王都についたら送ってくれたまえ。話題がなければ通過した領の情勢とか書いてくれると助かる」
「ああ、頼まれた」
彼女はだらしなく応接机の上に腰かけると、じっとオレの目を見つめる。
「思ったより妙な男をあてがわれたな……」
「至らぬところがあれば極力矯正する。……結局、オレはオレにしかなれないのだろうが」
「なんだ、変わろうと思ったことが?」
「あるよ」
微笑んで返した。
暖かな記憶、平穏な日々、愛、オレの持ちえぬすべてを欲してオレではない人間になろうとしたことが、かつてあった。失うだけでなにも手に入らなかった。欲しいのなら、すべきなのはただ手を伸ばすことだけだ。
「……そうだ、改めて自己紹介をしようか、コンスタンツァ・カデンツ伯爵令嬢」
恭しく一礼。我が最も傅くべき光輝は、訝しげにオレを見つめている。
「オレはロドルフ・チェーザレ、あるいはロドルフ・アルヴァ。アルヴァ前王家の恥ずべき落胤。一介の騎士。本来あなたを求めて許される人間ではない。が、どうしても欲しかった。だから望んだ。あなたが竜の夢だろうがなんだろうがオレには関係がない」
「……これは政略結婚という話だったが?」
「信じたのか?」
オレに政治的価値など見出せまいに。
喉奥で笑えば、少女の当惑した頬にさっと朱が走った。かつて見惚れた林檎の赤、白皙に走る擦り傷と、木漏れ日のさす黒い瞳。暖かなある秋の日の情景が愛おしく脳裏によみがえる。
「婚約者殿〜!」
外からのよく通る声に聞き覚えがあった。聞いた瞬間ガラス戸を開け放てば、白馬にまたがった小柄なひとが、王宮の庭をパカパカと巡っているのが目に入った。
たなびく銀の髪。頬は上気して遠目にも薔薇色。領地に引きこもり、社交界にもめったに顔を出さない麗しの辺境伯令嬢。つまりこの場にいるはずのない、オレの、婚約者。
「どうして来た!?」
「会いたくなった! 駆けてきたぞ!」
一階分の高低差を感じさせない瓏々とした声だった。ため息を噛み殺し、窓枠を乗り越える。やわらかな芝の上に着地して馬上の彼女へ近づく。春の風が頬を撫で、彼女の髪をさらう。
「コンスタンツァ。今年はずっと領地に籠ると言っていなかったか。なぜ王都に?」
「言っただろう、会いたいから来た。……半月ほど前におまえからの手紙を受け取ったのだけど、一読してたまらなくなってね。ここ数年で最高の出来だ、おまえは書面の上では本当に愛らしい。文才があると言うべきか?」
「なにを言っているのかわからないが……」
手を差し伸べる。彼女はオレの手を掴み、ひらりと馬の背を降りた。
握った手を離さず、いたずらっぽい笑みを浮かべだと思えば後ろへ引っぱる。つんのめって距離が縮む。
「おい……危ないぞ」
「わたくしに会いたい会いたいと、熱烈に綴ったのはおまえだろう」
「オレは近況以外、書いた記憶がないが」
「なにを言うか」
オレの耳元を唇が掠める。
「『出先であなたに似ている花を見つけたから同封する』だの、『どこそこにあなたが気に入りそうな菓子屋があった、行くといい』だの、読む方の身にもなってみたまえ。たまらんだろう。……ああも一途に乞われてはね。応えてやらねば竜の名折れだ」
そういうわけで馳せ参じたよ、と彼女は笑う。出会ったときから変わらない不敵な笑み。
その文面のどこが、と反駁するつもりだったが、言葉が喉につかえて出てこなかった。彼女は正しい。焦がれていた。全ての事情を脇に置けば、常に侍っていたいほど。しかし。
「……コンスタンツァ、王宮にはどうやって入った?」
「ン? 番兵に名を告げれば通してもらえたぞ」
「そうか。名も顔も知られていたか。……王宮はおそろしい場所だ。明確な用がないなら帰ったほうがいい。あなたに会うときは、必ずオレが出向くから」
白馬の手綱を握り、彼女の背を押す。促されるまま歩きながら、きょとんとした目がオレを見上げる。
「おそろしい、とは? おまえの職場だろう」
「伏魔殿だよ、ここは。オレの生まれもあるだろうが……王族は特に油断できない。本格的に目をつけられる前に去るべきだ。あなたは価値があるから」
血統も悪くないが、たとえ平民の娘だったとして利用価値の計り知れぬ美貌だ。装飾品として連れ歩いても、誰に見せずに愛玩しても、あるいは粉々に踏み砕いても好い。
「美しい女は哀れだ。玩具に適しすぎている。……あなたは社交界を敬遠しているが、それは正しい。それができるのなら近づかないほうがいいんだ」
「おまえはここに留まるのにか?」
「すまないが、オレは王宮にしか後ろ盾がない」指の背で彼女の頬を撫でる。「聞き分けろ、コンスタンツァ」
彼女は猫のように目を細めてオレの指を受け入れ、ふんと鼻を鳴らした。
「おまえがそこまで言うなら仕方がない。大人しく帰るとも。……なんだいせっかく会いに来たのに。歓待の笑顔、熱いハグ、嵐のようなキスがあったっていいものなのに」
「次に全部やる」
「言ったな。二言はないね?」
「オレが約束を違えたことはあったか?」
「アハ、ない!」
破顔し、それから彼女は道も知らないくせにオレと馬を先導して歩き出す。
月のような女の膝の上で、すでに義兄は事切れていた。血の気のうせた白魚の指が彼の髪をすいている。
義兄はうたた寝をしているような穏やかな表情で、その首から下は失われていた。婚約者の少女の真白いドレスに血の河が流れ、腿の間の血溜まりに片頬が半ば沈む。
「ロドルフ」
花の唇がその名を呼ぶ。何度も。声に色はなく、楽器の調べのように義兄の名前が呼ばれ続ける。
「ロドルフ。わたくしの婚約者。わたくしの番。なぜ、なぜ、なぜ──」
「そうやって項垂れていると女に見えるね。コンスタンツァ・カデンツ」
狂おしく乱れた銀糸が肩を滑り落ちる。ゆらり、と幽鬼のように顔をあげ、彼女は不遜な言葉の主を見上げる。
「普段のお前は小憎らしくてたまらないけれど、ロドルフを亡くした今のお前なら、心から愛せそうだ。鼠一匹喪っただけでずいぶん可愛らしくなるものだね? カデンツの娘」
「……貴、様」
「ク、ク……」
普段は無感動な目元をさも楽しげに緩めて、彼は肩を揺らす。王宮の至宝と謳われる深い蒼の瞳が爛々としていた。典雅に腰を折り、彼女の耳元へ囁く。
「コンスタンツァ、なにが不満? ただ婚約者の首がすげ変わっただけだろ」
「ふざけるな。すげ変わっただと……? 貴様の元へなどわたくしが嫁ぐものか。おまえのような悪魔は、愛を知らないまま、独りで死ね」
「愛? どうしてそんなものが問題になるのだろう。ふふ。お前たちは揃って愛などと……夢見がちなところが本当に気色悪いね」
ソレが生きていたときから、お前たちの語る御伽噺は心底気味が悪かった。
言いながらしゃがみ込み、義兄の頭をつつこうとする手を細腕が払いのける。
親しい人の体に集り始めた蠅を、必死に追い払う仕草を見たことがあった。それに似ていた。
払われた男の手はかわりに銀の髪の一房をすくいとる。正絹の手袋の上を液体のように髪が流れる。
「その大層お綺麗な顔と、まだ若く機能する胎、あとはカデンツへの人質となる血筋が一気に手に入るのだから、王家としてはそれで十分なんだ。お前の実家ってば寒すぎて粛清がめんどうでね」
「わたくしが受け入れるとでも?」
「お前の意思は介在しないのだって、わからないかな。そもお前が本来婚約するはずだったのは私だ。ロドルフが妙な横槍を入れてこなければ、お前は今ごろ私の妻だった」
「なに……?」
「あれ、知らないんだ? うふふ」
嗜虐心に蕩けた笑みで、彼は言う。それだけは、聞かせたくなかった。義兄が死ぬまで口にしなかった、この美しいひとのみが知らない公然の秘密。けれど足が動かない。彼女がこのうえ傷つくのをただ見ていることしかできない。お義兄さまはわたしを許さないだろう、と思う。
「その男はお前と引き換えに、ひとつしかない大事な命綱を手放したんだ」
「意味がわからない」
「知らないかな、知らないか。お前田舎貴族だし、あいつは自分勝手だものね。……ロドルフにはかつて特権があった。前王家が彼に残した唯一の遺産」
前王の落日は散々な愁嘆場で、あまりに惨めな様子に同情した現国王が、最後に願いをひとつ聞くと申し出た。
見逃してくれ、でもなんでも聞いてやるつもりだったが、前王が望んだのは「俺の子供たちにその権利をくれてやってくれ」というもの。言われた男は困ってしまった。そのほんの数時間前に、最後の王女を見つけ出して首を晒した後だったから。
宙に浮いていた約束が意味を持ったのは、まだこの国の言葉も拙い異邦の下女が、前王の遺児を身籠っていると知れた時から。王権の移譲に際して行われた誓のために、その子供は生まれながら、どんな願いもひとつだけ聞き入れられるという特権を有していた。
それがロドルフ・チェーザレ。筋金入りの純血主義であるチェーザレの家が、ロドルフという混血の子供を養子に迎え入れたのも、ひとえに彼の特別な権限ゆえだった。
「存在意義そのものといえる貴重な約束を、ロドルフはお前に使ったんだ、コンスタンツァ。お前を手に入れるために」
愚かだよね、と嬉々とした声。俯いた彼女の青ざめた唇がわなないていた。真意を確かめるように、膝の上の亡骸へ白い指がひたりと触れる。義兄が応えることはもうない。ただ震える痩身をしばらく観察していた蒼い目が、ふいにわたしを向く。
「ジェルトリューデ、おいで」
「あ……」
「おいで?」
抗えず、進み出た。
近づいたわたしの両肩を絹の手袋の感触が包む。背後から首をもたげ、主人はわたしの耳元に口を寄せる。
「客人はお疲れのようだ。部屋へ案内しなさい。手荷物は預かってね」
「……て、手荷物……ですか……」
「お前が殺した、お前の兄だよ」
ぐっと胃液がせり上がり口元を押さえた。
殺した、わたしが殺した。わたしとコンスタンツァの命を盾にされ、義兄は抵抗のひとつも示さなかった。捕縛されながら微笑みさえしていた。「今か、10年先か、あるいは前か。それだけの瑣末な違いだ。どうあれいずれこうなっていた」と、悟ったようなことを言って。けれど握り込んだ拳はわずかに震えている。瑣末な違いであるはずがない、と言えなかった。目の前に跪いた彼が潔くこうべを垂れ、うなじを差し出した。かつて義姉と慕った磊落なひとの、怒声が悲鳴のような嘆願に変わっていくのを聞くともなく聞いた。どうしてこうなったのだろう。わからないけど、でもたぶんわたしが悪いのだ。血のつながらない義兄をただ義兄と慕いながら、一方でのんきに中央殿の侍女などをしていたわたしが。
この期に及んで、主人の御身を汚してしまう、とおそれ、床へ膝をつく。吐き気は胸下で蟠り、掌に浅い息をこぼした。そうして、は、と顔を上げれば目の前には人形のような虚なかんばせがある。わたしを見ていた。
「ジェルトリューデ」名を呼ばれる。
「お、義姉、さま」
「ジェルトリューデ。わたくしは、もうやめる」
「お義姉さま……?」
「もう目を覚ます。もう、夢を見ない」
古い詩を誦むごとくに抑揚のない声だった。
ふつり、と彼女の両目の縁に紅玉のような滴が浮き上がる。膨らみ、決壊し、頬に赤い筋を残してしたたり落ちる。義兄のこめかみで、まぶたで血涙が跳ねる。
「ジェルトリューデ。やさしい義妹。巻き込んですまない」
「い、え、そんな……」
「すまないが決めた。わたくしはわたくしの恋の弔いに、すべてを壊す。愚かな、悪い竜だ……」
頬に降った数粒の雨滴がいつのまにか驟雨へ変わるように。血の色の涙はやがて滂沱と喉を胸を流れ出す。ごぼ、と可憐な口が血を吐く。突然の異様な変容に、背後から息をのむ音が聞こえる。
もはや頭部のあらゆる箇所から血を吹き出し、彼女は最後に膝の上へ笑いかけた、ように見えた。
「……ああ。本当に、夢のような時間だった。さようならロドルフ。わたくしの番」
ぱちん、と頭が弾けた。
なみなみと満ちた桶をひっくり返したように、彼女の体が血を浴びる。頭部を失った華奢な体が、ゆっくりと横倒しになった。ぶちまけられた血の中に脳漿も骨のかけらも見当たらず、石英に似た透明なきらめきがいくつも沈んでいた。これは、人ではない。
そして大地が揺れた。遠く北の果ての空より、慟哭に似た竜の絶叫が遍く響き渡る。
林檎の葉を透かして、翠の陽が差してくる。
「熟れた林檎がほしいときにすべきなのは、哀れっぽく泣くことではなく、枝に足をかけ、上へ手を伸ばすことだ」
今しがた盛大に木から落下し、林檎を大事に掲げたままひっくり返った少女はそう宣う。
泣いたのは林檎ほしさではなく、目の前の幼い令嬢の頬に擦り傷を作らせてしまったおそろしさのためだったけれど。彼女はそんなことは意に介さずむくりと起き上がり、そして、真っ赤に熟した林檎をこちらへ差し出した。
「どうぞ。ほしかったんだろう」
「あの、でも……傷が」
「うん? 気にするな。すぐ治るよ」彼女は無造作にぐいと顔を拭う。貴族の少女には信じがたい頓着のなさだった。「それより早く受け取りたまえ。腕が疲れる」
「あ、は……う、うん」
オレはとっさに手を差し出した。つややかな林檎の丸みが掌に転がり落ちた。