耐えに耐え、忍びに忍び、抑え込んだ叫び
マンションや戸建てが整然と並ぶベッドタウン。その駅から通りを少し歩いて数分のところに、この小さな御堂がある。
日曜日であれば、朝と夕方のミサに神様のマナを求めて老若男女が集う。祈りのリフレインに讃美歌、そして厳かな秘跡。そして祝祷を受けた兄弟姉妹たちは各々の家へ向かう。
けれども、平日ともなれば、早朝のミサを除けばほとんど人のおとずれない静かなたたずまいに戻る。
ミサが終わったところに、一人の青年がきょろきょろと辺りを見回しながら御堂の門を叩いた。
「ご、ごめんください」
遠慮がちに小さな声で声をかける。だが、誰も答えない。だから、もう一度、少し大きく、でもやはり小さな声が聞こえた。
「ごめんください」
「求めよ、さらば与えられむ 訪ねよ、さらば見出さむ 門を叩け、さらば開かれむ」
青年の背中に誰も聞こえない声が響いた。だから、青年は励まされてもう一度御堂の門を叩いた。
「ごめんください」
相変わらず、小さな声。だが、切実さは伝わってくる。ここまで来て諦めたくはない。
「少し待つだけだ」
彼は小さな声で独り言を言って自らを励ましている。
「はい」
低い声が扉の中から聞こえた。中肉中背の壮年の男性が応えてくれた。
「どちら様ですか」
「私、安野譲といいます」
「はい、どのようなご用件ですか」
そう答えながら扉を開けてくれた壮年男性は、白いカラーを纏った黒い祭服を着ていた。その姿を見て、青年はやっと安心した表情を見せた。
「相談したい...…いや、聞いていただきたいお話があって…」
「どんなことでしょう」
そう言いながら、祭司は青年の疲れ切った表情を認めて扉の中へと案内した。
扉から中は、ホールになっていた。日の出後にもかかわらず、少し薄暗かった。背中からは、ちょうどステンドグラスを通過した色とりどりの太陽光がホールの床を照らした。黒のリノリウムの継ぎ目が、そこだけはっきりと見て取れた。
「どうぞ、此方へ」
祭司は、青年をホール備え付けのテーブル席に導いた。どこからか、ラベンダーの花の香りが、伝わってくる。
「実は、僕はどこに行ってもうまくいかないんです…就職して…ダメになって…転職して…ダメになって」
「なるほど......」
司祭は、青年をリラックスさせようと、ティーセットと少しばかりの菓子をテーブルに置いた。青年は、それに気づいて一礼した。
「僕は、新しいところに行くと怖くなるんです…話しかけられてうまく答えられるのか、怒らせていないか、受け入れてもらえているのか、相手にしてもらえているのか、疎外されているんじゃないか......周りの人の一つ一つの動作、言葉が怖いんです」
「なるほど......」
「自分では、怖くない怖くないと言い聞かせているんですけど、突然何か怒られているように感じられることがあって…」
「うん」
「あるところで、突然、怒られたことがあって……それも、何度も何度も」
「どこで?」
「最初は中学でいきなり怒鳴られて引き倒されたことがあって…高校でも同じことが何度もあって……だから、高校は中退したんです」
「うんうん」
「就職はできたんですが、そこでも怒鳴られたんです…これは自分が悪いんですけど」
「どんなことで?」
「僕、返事の声が小さいと言われました…やることが遅いと怒鳴られました…そして、次の日から通えなくなったんです…だから、転職したら、また怒鳴られて…」
青年は涙声になっていた。祭司は、思わず彼の肩を優しく捉えた。
「そうだったんですね、それはつらかったでしょうね」
「ありがとうございます…それで、自分の部屋に籠っていた時、中学校の時に校門でもらった緑の本が目の前にあったんです…新約…とか書いてありました...『いつもそばにいる、必ず助ける』とも書いてありました...それから今までずっと待ち続けています…それでも辛くて辛くて…そして、ここに来たんです」
青年の涙声は、むせび泣きになり、その言葉は聞き取りにくかった。それでも、祭司には彼が何を語っているのかが、不思議に聞き取れた。彼の心の叫びが、祭司を通じて、天に確かに届けられた時だった。
祭司は、彼を礼拝堂へと導いた。そこは、東側に開いた入り口の上に明かり取りがあり、そこからステンドグラスを通った太陽光が祭壇を照らしていた。祭司はそのまま彼を、祭壇の間近に招いた。
「今、ここは、あなたにとって祈りの場、祈りの時なのでしょう」
青年は戸惑いつつ、祭司の導くままに進んだ。それでも、目の前に広がった祭壇と聖餐台に戸惑い、恐ろしさを感じていた。それでも、すがる方は目の前に確かにいると感じられた......この時、祈る彼にだけは、祭壇から大きな手が伸び、彼を覆ったように見えた。
「 主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられない あなたの神、主があなたと共に行かれるからだ」
その声が響き、青年は思わず目を開いて祭壇を見た。と、その時祭司が言った。
「申命記31章6節…そうですね…安心してよいと思います…これからのあなたには必ず助けがくるでしょうから」
青年は、戸惑いを残したまま、それでもいくらか元気を取り戻して帰って行った。見送る祭司は彼の背中を見ながら、さらに祈りを重ねていた…
そして、幾日経っただろうか。ある日曜日、ミサには彼の姿があった。