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2. 良くない噂

 翌日、真一は正午過ぎに目を覚ました。起き上がると背中に激痛が走る。

 あれから朝までかかってすべての宴会場をクリーニングした。

 一晩中デッキブラシでじゅうたんをこすり続けていたために、終わるころには背中がパンパンに膨れ上がっていた。

 始発で中野のアパートに帰ると、倒れこむようにして眠りに落ちた。

 背中をかばいつつ台所に立った真一は、痛みを刺激しないよう静かに歯ブラシをくわえた。同時に流しのコンロにそっと火をつける。

 午前中の講義をサボってしまったので、せめて午後からは遅刻しないようにしなければいけない。

 テレビをつけるとお昼のニュースがやっていた。


「本日未明、都内のホテルで衆議院議員の原清三郎氏がなくなっているのが発見されました。死因は心臓麻痺と見られます」


 アナウンサーが読み上げるニュースに真一は釘付けとなった。画面に映し出された顔写真は、まぎれもなく昨日見た酔っ払いの男だった。


「原氏は近く開催される国際会議の準備のため都内のホテルに滞在中でした。関係者の話によりますと……」


 目の前で歩いていた人間が数時間後には死んでいたという事実にショックを受けた。おそらく自分が仕事をしている最中のことだろう。

 真一が気になったのは原の隣にいた美女のことだ。ニュースでは彼女のことに一言も触れていない。

 しかし、あのあと原を部屋に送り届けてそのまま帰ったとは思えなかった。

 当然、一緒に一晩すごしたはずだ。二人がベッドで絡み合う妄想を、必死で振り払いながら仕事をしたのを覚えている。

 「腹上死」という言葉が頭に浮かんだ。ニュースで触れられていなくても、彼女が原の死に何らかのかかわりがある可能性は高いと思う。

 可能性どころか、ひどく酔っていた原の顔を思い出すと、どうしても腹上死としか考えられない。

 笛吹きケトルが甲高く鳴りひびいた。あわてて火を止めると、真一はインスタントコーヒーを入れたカップにお湯を注いだ。


       ○


 あちこち筋肉痛になっていて普通に歩くのも難しかったが、何とか午後の講義に間に合うことができた。

 教室に入った真一は友人の河野を見つけると隣の席に座った。


「よう真一」

 河野が背中をぽんと叩いた。


「うぎいいいいいいいい!」

「……どうした?」

「筋肉痛で死にそうなんだよ」

「またバイトか? 働きすぎは良くないな。午前中こなかったのもそのせいだろ」

「おまえと違って苦学生だからな」

「よく言うぜ。ちゃんと仕送りはもらってるんだろ」


 どうやら仕送りさえもらえば人並みの生活ができると思っているらしい。

 河野は実家暮らしなのであくせくバイトする必要がない。親元から離れてひとり暮らししている真一とは、どうしても感覚にズレが生じるのだ。


 講義が始まって十分ほどたったころ、教室の後ろのとびらが開いて女が入ってきた。女は遅刻をわびるように会釈すると、とびら近くの端っこの席についた。

 野暮ったい服装の地味な女だった。顔立ちは整っているようだが、いつもマスクをしているのでよく分からない。

 おまけにショートカットの毛先があちこちに跳ね上がっていて、ツバメの巣を頭に載せているように見えた。お世辞にも魅力的とはいえない。

 だが真一はその女を見た瞬間、きのうの美女の正体を確信した。女のガラス玉のような冷たい目は、きのう見た目と同じものだ。

 名前はたしか本多といった。いつもひとりで行動している女だった。いつの間にか教室の隅にいて、講義が終わればいつの間にか消えている。

 おそらく友達と呼べるような人間はひとりもいないだろう。自ら人付き合いを拒絶しているような女だ。

 前からなんとなく気になってはいたが、一度話しかけて無視されたことがあったので、それ以来あえて近付こうとは思わなかった。


 彼女をチラチラ眺めていたら、あっという間に講義が終わってしまった。終わった途端、彼女はいつものようにさっさと教室から出て行った。

 真一はあわてて追いかけようとしたが、筋肉痛で上手く歩けない。大声を出して呼び止めるのも気が引けた。そのうち彼女は廊下を曲がって見えなくなった。


「本多瑠香か……あんまり関わらないほうがいいよ」

 河野が廊下でボンヤリしている真一を見つけて声をかけた。肩に手を置こうとしたが、筋肉痛のことを思い出したらしく、あわてて手を引っ込める。


「どういう意味だよ」

「いろいろと良くない噂を耳にしてるもんでね」

 河野は付属校上がりなので学内に友人が多い。自分でも情報通を自認していた。


「噂ってあれか? 宇宙人だとかロボットだとかいう……」

 本多瑠香に関する噂は真一もいくつか耳にしていた。同じ語学クラスの女子が積極的にあることないこと触れ回っているのだ。


「そんなのは序の口だ。他には頼めばやらしてくれる、というのがある」

「頼んだやつがいるのか?」

 真一は思わず身を乗り出した。その噂は初耳である。


「さあね、おまえ試してみたらいいじゃん」

「遠慮しとく」

「変わったところでは死神というのも聞いたことがある」

「死神?」

「彼女に関わると不幸になるとか死ぬとか」

「……そこまで行くと、ちょっとな」

「いや、もちろんデマだろうけどさ、これだけいろいろな噂を流されるって事は、やっぱり本人に何か問題があるって事じゃないの?」

「いじめられるほうが悪い理論か。そういう考え方は好きじゃないな」

「なーに? 何の話?」


 二人組の女子が話に割って入ってきた。鶏がらのようにやせたきつね顔のノッポと丸々太ったたぬき顔のチビだ。この二人はいつもコンビで行動している。

 真一は二人の名前を思い出せなかったので、頭の中で暫定的にきつねとたぬきと名づけた。


「死神の話だよ」

 河野が気を持たせようとミステリアスな言い方をした。


「ああ、本多さん……」

 きつねは死神だけですぐにピンときたようだ。


「あたしあの子きらーい!」

 間髪いれずにたぬきが顔をしかめる。


「なんか薄気味悪いよねー。ぜんぜん口きかないし、それにダサイし」

「死神ってだけで誰だか分かるんだ」

 真一が皮肉な調子を含ませて言うと、


「だって有名じゃない。あの子とセックスした男はみんな死ぬんだってさ」

 きつねが応えた。


 悪口大会が始まりそうだったので、真一は話の輪から離れて校舎を出た。

 女の悪口というのはどうも陰湿で苦手だ。彼は痛む体をぎこちなくあやつってキャンパスを歩いた。


(あの子とセックスした男はみんな死ぬ、か……)

 きつねのいった言葉が頭を離れなかった。その言葉と原清三郎の死が真一の中でひとつになって、ある結論にたどり着こうとしていた。


(あるいは本当に彼女は死神なのかも知れない)

 五月の暖かい日差しを浴びているはずなのに、彼の背中にスッと冷気が立ちのぼった。

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