1. 青いドレスの女
小田真一がその美女を見かけたのは、深夜、虎ノ門のホテルオークでじゅうたんの掃除をしていたときだった。
清掃会社のカーペットクリーニングは三人一組のユニットで行われる。
まず最初の人が洗剤水と回転ブラシを使って汚れを浮き出させる。次の人がその汚水を巨大な掃除機で吸い取る。最後の人がデッキブラシを使って湿ったじゅうたんの毛先を起こして整える。
真一の担当は先輩がクリーニングした後のじゅうたんを整える作業だった。これを目起こしという。
下っ端の力仕事だが、仕上がりを美しく見せる大事な作業でもある。洗剤水が乾かないうちに終えなくてはならないので、かなりの素早さが要求される。
しかしこのときの真一は仕事が遅れていた。
先輩たちはさっさと隣のホールに行ってしまい、彼ひとりで体育館ほどもある広大な宴会場のじゅうたんを目起こししなければならなかった。
ただでさえ踏み固められて起こしにくいじゅうたんなのに、薬剤が乾き始めてさらに固くなってきた。
彼は五分の一もやってないのに、もう背中に痛みを感じてきた。
(キツいなあ……広すぎるんだよ、このホール)
立ち止まって背中をもんでいると、楽屋口のとびらから女が出てきた。女は真一に目もくれず、早足に宴会場を横切って正面口から出ていった。
ガラス玉のような冷たい目をした、人形めいた美貌のもち主だった。青白く生気のない顔だが唇だけはゾッとするほどなまめかしい。
そんな彼女がサテンの青いドレスを身にまとい、ストレートのロングヘアをなびかせて颯爽と歩く姿に釘付けとなった。
(あれ? あのひと……)
一目見た途端、彼女と会ったことがあると思った。
むろんそんなはずはない。真一のような貧乏大学生が、あんな一目でセレブと分かるような美女と接点なんか持ちようがないのだ。
上京したばかりの彼にとって女の知り合いといえば大学の同級生かバイト先の社長の奥さんぐらいしかいなかった。
(それとも芸能人だろうか? テレビで見たことがあるから知っているんじゃないか。いや、そうじゃない。彼女には絶対どこかで会ったことがある)
真一の中には確信めいたものがあった。
幸い周りに同僚はいない。真一は目起こし用のデッキブラシを放り出し、ふらふらと彼女の後を追った。自分でも説明できない奇妙な衝動にかられたのだ。
女は一階の大宴会場を出て右に折れると、そのままロビーを通りすぎ、階段で二階に上がった。
真一は一定の距離を保って、女に気付かれぬように後をつけた。
幼いころはよく知らない人の後をつける「尾行ごっこ」をして遊んでいた。そのときの興奮が胸によみがえってきた。
二階には中宴会場と小宴会場がずらりと並んでいる。女は迷いのない足取りでその中の一室に入っていった。定員十六名の小宴会場だ。
部屋の前には屈強そうな黒服の男が立っていた。真一はなにげない様子を装いながらその宴会場を通りすぎた。
部屋の前のボードには「原清三郎先生ご一行様」と書かれてある。
その名前には聞き覚えがあった。こちらは間違いなくつい最近テレビで見た男の名だ。失言の多いことで有名な保守党の代議士で、三日前にも「日本はいつまでも年寄りが死なないから若者にしわ寄せが来る」と発言して非難を浴びていた。
真一は廊下を曲がると、立ち止まって背中を壁につけた。曲がり角からそっと顔を出して黒服の様子をうかがう。
いきなり頭をガツンと殴られ、目から火花が出るほどの痛みが後頭部を襲った。ふり返ると先輩が怖い顔をして立っていた。
「てめえ、いい度胸してるじゃねえか。何でこんなところをウロチョロしてんだ」
澤田という名の陰険な男だった。大柄な体格で、ノミで彫ったような荒削りのごつい顔をしている。彼はいつも真一を目の敵にしていた。
「……すいません」
「すいませんじゃねえんだよ。おれは何でこんなところにいるか聞いてんだ」
「いや、ちょっと疲れて、その」
「疲れてだあ? 疲れてんのはみんな同じなんだ、バカヤロオ!」
「すいません」
頭を下げる真一の髪をつかんで、澤田は強引に持ち上げた。
「おまえさあ、仕事はノロいわサボるわホント最悪だよな。これでバイト代は同じなんだからやってらんねえよ。ムカつくから二、三発殴ってもいい?」
「すいません、勘弁してください」
このバイトは学生課の紹介なので同じ大学の人間が多い。
真一にとって、澤田はバイトの先輩であると同時に大学の先輩でもあった。だから余計彼には逆らえなかった。
澤田もそれが分かっているので、真一に対しては遠慮のない態度をとる。
「だったらさ、女ひっかけてこいよ。おれのために」
「えっ?」
「ナンパだよナンパ。で、ひっかけた女をおれにさしだす。いいアイディアだろ」
澤田はつかんだ髪を離さず、真一の頭をぶんぶん振り回した。
「いや、それはちょっと……」
「なんだよ、殴られるよりはマシだろう?」
「殴ってもいいですから、ナンパは勘弁してください」
もうさっさと終わらせたかった。殴られてすむならそれでいいと思った。
「あっそう! それじゃあ遠慮なく……」
澤田がこぶしをふり上げるのを感じて、思わず目をつぶった。しかし、いっこうにパンチが飛んでこない。不審に思っておそるおそる目を開けると、
「冗談だよ、冗談。おまえなんか殴っても手が痛いだけだからな」
澤田はあわてた様子で真一の髪から手を離した。彼はどうも真一の後ろのほうを気にしているようだ。
ふり返ると黒服の男がこちらをにらんでいた。黒服だけではない。その後ろには代議士の原清三郎と、例の青いイブニングドレスを着た美女が立っていた。
原はかなり酔っているらしく、ゆでダコのように顔を真っ赤にさせていた。女に体を支えられてようやく立っている状態だった。
女のほうは手で口を押さえ、明らかに驚いたような目でこちらを見ていた。
「さっさと仕事に戻ろうぜ」
そう言って澤田がきびすを返して走り出したので、真一もそれに従った。
二人とも清掃会社のロゴ入り制服を着ている。もし黒服がいまのことをホテルに報告し、ホテルから清掃会社にクレームが来たら大目玉を食らうのは確実である。
「あの酔っ払い、どっかで見たことあるぞ」
澤田が走りながらボソリとつぶやいた。
「おまえ知ってるか?」
「原清三郎ですよ、政治家の」
「ふん! こっちは汗水たらして働いてるってのに、いいご身分だよな。あんないい女をはべらせやがって、スケベジジイが!」
彼はそれから聞くにたえない卑猥な雑言をはき続けた。それを聞き流しながら、真一は青いドレスの女のことを考えていた。
代議士の隣でこちらを見ていた彼女。あのときの驚きと戸惑いの入り混じった目は、明らかに自分か澤田を知っているからとしか思えない。
やはり最初の直感は正しくて、自分と彼女はどこかで会ったことがあるのだ。