老女は出逢う!
―――、この国にはへんてこりんな伝説があった。それは。
『末期の時に蛙が訪れる事がある。出逢えたら運命の夜を過ごし、翌朝天国へと向かう』
何しろ、蛙とやらに出逢った本人は、運命の夜を過ごした後、翌朝には既に天国へ逝ってるので、話を聞いたものはいない。なので、誠か嘘かは判らない。ただ、そう伝えられていた。
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これ迄、厳しい戒律の下で生きていたゆえ、殿方の胸板など触れてはいけぬ代物。
先程、街までの移動の為に私は抱き上げられ、しっかりつかまるよう言われたのです。
勿論、何もかも初めての経験。触った感触も鼻に届いた、涼やかな香りも感じた熱も、私の中に入り込んだ途端、とろける様にうっとりとしました。
例え、人外のお方だとしても神の花嫁たる私には、殿方云々は禁断の世界の話でした。
でも、有り難い事に死ぬ間際に、当の神様からご褒美が来ました。きっとそうだと思います。
末期蛙。
私は、ソレに出逢ったのです。ああ、我が主よ。御慈悲に感謝いたします。惚れ惚れとする殿方に抱きかかえられ、夜空を飛ぶ……。目眩く幻惑の黄金郷は甘露に素晴らなのです。
「すまないが、少しばかりここで待っててくれ」
紫掛かった黒の瞳に烏の濡羽色の髪。引き締まった緋色の口元。目鼻立ちはくっきりとした良いお顔立ちの彼が、今は苦悶の表情です。さらりとした白い肌を恐らく呑み過ぎた為に、新緑のラーナ色に変えてますわね。
あれごときで情け無い。駆けつけ三杯は御存知無い?
息も絶え絶えにそう言うと彼はボワン。煙を立て、ポチャン。広場の噴水に飛び込んだのです。私は、少しばかり、はしたないとは思いつつもヒョイと、水の中を覗き込みます。
スイ……、スイ。後ろ脚を広げて、閉じて、広げて、閉じて。先程迄、人間の姿だった死神さんが、出逢った時の姿に戻り見事な蛙泳ぎをしています。よくよく考えると。
真っ裸の殿方が泳いでいるのです。
素っ裸の殿方が泳いでいるのです。
すっぽんぽんで、全裸なのですよ。
私とした事が、大切な事なので三回も繰り返してしまいました。そう考えると太腿あたりが、何やら艶かしく感じますわ。ホホホホ。何しろ初めての事ですから、つい、まじまじと見てしまいます。
スイ……、スイ。後ろ脚を広げて、閉じて、広げて、閉じて。蛙泳ぎ。発達した後ろ脚、その太腿のお肉がとてもぷりぷりとし、素晴らしいのです。
ああ……、御伽話と思っていた事が本当にあったのです。私は夜が明ければ寿命を全うするヨボヨボの老婆です。先ほど迄は、修道院の窓際の安楽椅子に身を沈め、離れた下の街を眺めつつ、時なりに人生の終わりを迎えようとしておりました。
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ヨボヨボの老女、アン・メアリーはかつては王の娘であった。側室の腹ではあったが、母親が存命の時は蝶よ花よと可愛がられ育てられた。
運命の転機はよくある話。それほど身分が高くない母親が病に伏したのだ。先を悟った母は、まだ幼い娘の行く先を考える。
……、このままだと、他の妃や王妃から邪険にされ、家臣に嫁げば良い方、悪ければ敵国に人質に出される。ならば今の内に。
先を見越した母親は、娘を修道院へ送る事にした。将来、彼女が院長として修道院を取り仕切れる様に、多額の寄付をし娘の将来を買った。
……、そして私はお城を出て、ここで教育を受け育った。昔の暮らしは殆ど覚えていません。厳しく躾けられ、大人になりそれなりの年になると、院長としてこの修道院を任された。充実した人生でした。神に仕え、祈り、人に手を差しのべ、修道女達を教え導き、孤児院のあの子達と遊んで。そしてもうすぐ私は神の御前に逝く。
年老いた彼女は、寝台ではなく、窓際に置かれたお気に入りの安楽椅子に座り、聖書を膝の上に乗せている。別れの涙を堪える修道女達に優しく話す。
「今宵で私の時も終える。仕来り通りに明日の朝迄、独りで過ごします。後で迎えに来なさい」
そして独りとなった彼女。とろりとろりと浅く眠る。うつうつと薄く目を覚ます。繰り返す波の様に、時を過ごしていた彼女。そして幾度目かの目覚めの時に、膝の上から聖書がコトンと落ちた。
おや、いけないと、軋む身体を動かそうとした時、目の前に『蛙』浮かんでいる事に気がついた。
「まあ……、これは末期蛙。御伽話は本当でしたか、アイタタ……」
「おお?我に気がついたのか、人間。ならば未練残さぬ様に、何がやりたいか言ってみろ。ひと晩、何でも好きな事が出来る。私は死神だ」
少しばかり横柄に言う蛙。彼はここ最近における人間の今際の際の願いに、些かうんざりとしていた。
……、どいつもこいつも、アレに復讐だの、奴だけ幸せにしてたまるかだの。もう少し穏やかになれんのか?死ぬ間際にそんな事をすると、煉獄の落とし穴にハマるというのに。
「まあ……、死神さんですか。ようやく楽になれるのですね。主に感謝を致します。ふう……。やりたいこと。そうねぇ……」
……、こいつも何かやらかし修道女になったんだろう、いじめられたと捏造され追い出されたとか、お前の顔は見たくないと、どこぞの馬鹿に言われたとか……、いったい、誰に復讐するのやら?
目を閉じ考え込む年老いた彼女を見ながら待つ蛙。
「ああ、そうだ。私は夜遊びを、一度で良いからしてみたい」
「はい?夜遊び?街でか?」
「ええ、街で遊んでみたい。お酒を飲んで、美味しいものを食べて、そうねぇ。後は私のお財布の中身を、私の為にパァァと使ってみたい」
細い声で話すソレに、は?この婆さん……。蛙はそれ迄のソレと違う、子供みたいな夢にあ然とした。
「そんな事で良いなら、お安い御用。今宵は貴方のお供を致しましょう、マイ・プリンセス」
無邪気な子供の様な笑顔を浮かべた、年老いた修道女。
無邪気な子供の様な願いを叶える事になった、蛙の姿の死神。
「じゃあ、先ずはコレを飲め、お前が願う頃の姿にひと晩だけ戻れる」
ぱぁの手を上げる蛙。小さな瓶がひとつ姿をみせた。
「はいはい、では……、楽になれるなら、喜んで頂きましょう」
中にはほんの一滴、新緑の雫が入っていた。神に祈りを捧げた後、受け取り栓を空け口に入れた、アン・メアリー。
ボワン。煙が立ち彼女を包む。そして蛙の頓狂な声!
「ケロロ?何で若返らない?皆、若い姿になるというのに?」
「あらまぁ、すっかり気分が良いわ!元気いっぱい。そうなの?私は若い時はやりたい事をやって、とても充実してたの。今やりたい事は、今の姿でも良いわねと思ったのだけど」
立ち上がってもフラフラしない!病気になる前に戻ってるわ!蛙さん!ほら見て!安楽椅子から勢いよく立ち上がると、部屋をパタパタ走る彼女。
「おいおい!見つかったらどうする。それに街に行くのにその格好じゃなぁ」
「あら、いけないいけない。静かにしなくちゃ。そうねぇ。修道服以外なら、そう。街着ならあるけどそれでいいかしら」
「シスターだとわからなければ大丈夫」
蛙に言われ、こんなお婆さんだけど、それでもちょっと見ないでねと断るアン・メアリー。着慣れた修道服からお忍びで出掛ける時の装いに、いそいそと着替える。
白いブラウスに紺色のロングスカート。ケープが有る紺色の外套。胸に白のリボン。コロンと丸い帽子を被る。ポケットの中の革の巾着を確認する彼女。
「さあ、用意出来た、これで良いかしら!あらまぁ!蛙さん!男の方でしたの」
ボワン。蛙が煙に包まれた。スラリと背の高い若い男の姿になる。
「では、参りましょう」
「どうやって?ここから出るには、そのお姿はちょっと……、女子修道院は男子禁制ですよ」
大丈夫ですよ、失礼。と断り、ヒョイと、姫様抱っこをした蛙。
「きゃあ!何という破廉恥な……。神に仕える私は、これ迄この様に殿方に触れたことは御座いません!」
「術にて外に出るのですよ、それに私の事は『ラーナ』と呼んでください。マイ・プリンセス」
「ラーナ、異国の言葉で『蛙』ですね。かしこまりました。では私めの事も、そんなこそばゆい呼び名じゃなく……、そう。ただの『アン』にしましょう」
「アン。街に出て最初に何をしたい?」
「そうねぇ。元気になったせいかとってもお腹が空いたので、うんと賑やかなお店で飲んで食べたい」
抱き上げられたままで答える彼女。そしてある事に気がつく。
「ねえ、ラーナ。私は明日死ぬ事になるのね、貴方は末期蛙の死神さん。その……、ちゃんとここに戻って来れるの?朝には皆が部屋に来る事になってるから」
「心配ない。予想外の事が起こらない限り、ちゃんと送り届ける」
フフ、大丈夫。任せておくれと彼は言う。
そう、ならば任せましょうと老いた彼女は笑う。
そうだ!そのままコツコツと、部屋に飾られている花瓶に近づくラーナ。一輪、白い花を抜き取ると帽子にぐるりと巻かれたリボンに差し込んだ。
「これで可愛らしくなった。さあ!行こう。アン、しっかりと掴まってて」
トトン!踵を鳴らすと、その場でクルルと回るラーナ。
ギュゥ!顔を赤らめながら、胸に頬あてしっかり掴まるアン。
ボワン!煙を立てる死神。窓から風がヒュルルと入る。モアモアとした煙を散らして行くと……。
二人の姿はそこからスッポリと、消えていた。
花粉症のお薬を飲みましたら、出てきた蛙と、お婆さんなのです。




