謝りたい奴がいる
目を開けたら無機質な白い天井が青年の目の前に広がっていた。
自分の意識を感じた途端に、万力で粉々にされているような全身の痛みに襲われ、彼は再びぎゅっと目を閉じ、それからゆっくりと目を開けて室内をぐるりと見回した。
そこが病室であり、彼の全身にはぐるぐるに包帯がまかれ、包帯の隙間からは色々な管が繋がっていることを理解して、大きく息を吐きだした。
それから彼は痛みの中、誰もいない病室でナースコールを押すこともせず、そのまま痛みに埋没しつつ白い天井を無感情にただ眺めていた。
すると、誰かが病室に入って来た。
誰かではなく、彼がよく知っている人物であり、その男は青年の痛めつけられた体を見下ろしたが、一瞥だけで大丈夫の一言も与えずに踵を返した。
青年は今度は大きく息を吸い、その人物の後ろ姿に縋るように、動かない腕の代りに声をあげていた。
かすれた、くぐもった小声で「いっちゃん」としか言えなかったが。
だが、彼の呼びかけにその男は立ち止まった。
「お、俺はさ、つまらない自分に戻れる場所が欲しかったけどね。だ、誰かを不幸にしてまで、ほ、欲しかった、ば、ば、場所じゃないんだよ。」
同級生の死で高校時代の友人知人が蜘蛛の子を散らすように自分から去っていったと、帰って来ない父親代わりに懐いていた警察官の五百旗頭に楊は告白していた。
後に楊が聞いた話では、家族が気付かなかった彼の挙動の変化に気づいていた五百旗頭は、楊が帰って来ないという家族の話を耳にして、彼がよく車を走らせていた場所にてひしゃげた車の中にいた彼を助け出してくれたということだ。
だが、意識が戻ったばかりの楊を前にした五百旗頭はそんなそぶりなどチラリとも見せず、それどころか楊の状態に小馬鹿にしたように鼻でせせら笑って、たった一言彼に返しただけだった。
「で?お前はまだ死にたいか?」
楊は自分の事故が自殺の失敗でしかないと五百旗頭は全て知っているのだと観念し、それでもそんな彼に本心を答えることからも逃げて、何時ものふざけた餓鬼に戻っていた。
「死にたいなんて思ってるわけないじゃん。でもさぁ、そんな風に同情してくれるんならね、ねぇ、俺が警察官になったらさ、いっちゃんの隊に入れてくれる?」
楊が自殺を考えていたと知っているはずの五百旗頭は、傷心の楊を慰めるどころか切り捨てる様に言い捨てた。
「嫌だね。」
楊が五百旗頭に何か言い返そうとしたが、風景は急に明るくなり、楊は横ではなく立っていた。
彼は自分を見下ろして、歩行器にしがみ付いたまま白昼夢でも見たのかと自分を笑った。
「ああ、疲れて寝たか?あああひどいよね。こんなに頑張っている俺に人参もぶら下げてくれねえ。大怪我した人に希望を与えるって、いっちゃんは考えもつかないのかね。俺がまた死んだらどうするつもりなんだよ。」
骨折をした脚を引きずるのは片足でも難儀であろうに、楊は両足であった。
がらがらと音を立て、彼は歩行器を使って自動販売機へと向かっていた。
「医者に生きているだけでも儲けものって言われてもさぁ。」
車椅子を使うように言われていたが、彼はあえて歩行器の方を使っていた。
周りは「若いから。」だと苦笑し、「リハビリに積極的だ。」と誉めそやすが、楊の中の事実とは違う。
彼には苦行こそが自分のできる罪滅ぼしのような気になっているのである。
歩行器では苦行とは言い難いが。
「俺のせいで、あいつが、あぁ、男子全員から無視されていたなんてさ。」
口に出してしまったのは、その事実に彼が耐えられなかったからだ。
毎日、毎時間、頭から同級生の死が離れず、常に自分自身に責められているからだ。
目の前でホームから彼が落ちたのは、自分に脅えたからなのだ。
お前は人殺しなんだよ、と。
がむしゃらに歩行器を乱暴に使い目的地へと進む楊の頭には、もうひとつの言葉が、それは生還して意識を取り戻してすぐに実際にかけられた言葉が浮かんでいた。
「お前はまだ死にたいか?」
その言葉も楊の頭の中で何度も何度も彼に問い掛けるのである。いい加減に煩いと、彼は無意識に言葉に答えていた。
「まだ死にたくないですよ。俺は佐藤にまだ会って謝っていないからね。俺が構うなって、仲間に言ったからあいつが仲間外れになっていてゴメンて。相棒を失う原因を俺が作ってゴメンってさ。それに、俺の姿に脅えたあいつを、ホームから落としてごめんって。はは、最後のは謝れないか。告白なんかできねぇよ。人殺しじゃねぇか、俺は。」
彼が偶然駅のホームで出会った級友は、彼の姿を見るや脅えたのか後ずさり、そのままがくりとホーム下へと落ちて死んだのだ。
そしてそこで彼は死んだ級友の救助活動に加わるどころか、知らないと言ってその現場から逃げ出してしまっていたのである。
「俺は誰にも嫌われたくない臆病者なんだよ。死ぬのも途中で怖くて死にたくなかったし。情けねぇ。あいつに、あいつに会って、あいつだったら俺を殺してくれるかな。」
病院の壁がぱたりと外側に開いて落ちて消えると、楊の目指していた病院の自販機ではなく、目の前には大学の広場が広がり、驚いた楊の手からカランと歩行器のガードまでも外側にぺたりと三方向に倒れて消えた。
なんと楊の目の前には謝りたかった男がいた。
彼は高校時代の姿からは想像できないほど、酷く落ち込み打ちひしがれてみすぼらしくなっていたが、それでも、その傷つき悩む彼の姿に、遠巻きにしながらも溜息をつく学友達の姿が目に入った。
佐藤良純の外見は素晴らしいの一言に尽きるのである。