もうこのままではいられない
「どうして山さんまで。あ、この写真には裏に文字が書いてある。月?かわさん。そっちの写真には何かあります?」
「え?」
部下が彼の机の上に散らばった写真をひっくり返しながら裏を確認していく様を、彼は呆然と見つめていた。
彼の親友と彼が弟のように可愛がっている青年の写真は彼の手の下にある。
部下が最初に気づいたもう一人の部下山口の写真の裏には「月」と書かれているが、他の写真のどの裏にも何もない。
しかし、彼の手の下にある二枚の写真の裏に何かが書かれているだろう事が確実だとなぜか彼にはありありとわかり、そして、裏返したくはない気持ちで一杯なのだ。
世界が崩壊してしまう。
どうしてそう考えるのか彼にはわからないが、彼は確信していた。
否、もう遅い。
歯車は動き出し、彼は崩壊し続けている。
砂時計のように彼の意識はサラサラと零れ、崩れ、同じ山を作るが、それはもう新しい山でしかない。
以前の彼ではないのだ。
「他の写真には何も無いですけど、山さんの写真だけに、ほら月と。」
自分の物でないような重い腕に力を入れ、自分の手が押えていた友人達の写真を震える手で恐る恐る裏返した。
彼は、そこでがくっと崩れ落ちたのである。
夝とあったその文字は、夜には晴れて星が見える様を現す。
乹とあったその文字は、日の出の輝く様を現す。
「こうして見るとタロットカードみたいですね。月と、星と、太陽だ。」
「それじゃあ、危険なのは月の山口か。」
彼の目の前は真っ暗になり、彼の脳裏の中の暗くなった世界では、白い老人が笑って白い画用紙を彼に掲げている。
「おもしろい漢字だろう。夝に乹、どちらも晴れなのに朝と夜だ。」
幼い彼が慕い、大好きだったジェットという名の老人。
彼の七歳の時に死んだ曽祖父は少しずつ色を取り戻し、老人が中年男性の姿へと変化していき、若返ったその姿は毎日彼が覗く鏡の中の自分とよく似ていた。
ジェットは仕立てのいいスーツを着込んでおり、気がつけばそこは重厚な応接室だった。
「すまないね。急に呼び出して。人払いはしてあるから心配しないで。」
しがない巡査の自分がここに呼ばれる理由は何だろうかと彼は訝しく思いながらも、尊敬して、そして、手の届かない高官の彼が自分を覚えていて呼び出した事に気分はかなり高揚していた。
孤児の彼にとってその男は夢の中の父親である。
「佐藤君、君の健康診断の結果を勝手ながら読ませてもらったよ。」
「腎不全で後がない自分にお偉いさんが自ら離職勧告ですか?ご存知のとおり、私は家族どころか貯金もありませんので、仕事を辞めたら生きてはいけません。」
長谷警視長は書斎机を回って前に出てくると、佐藤巡査の傍にまで数歩で近付き、なんと彼を抱きしめたのだ。
「あの。警視長?」
「心配しないで。君は僕の子供だよ。同じ血液型だ。僕の腎臓を君にあげる。そしてね、治療代だって。これから僕が全部面倒を看るから、君は何も心配しないでいいのだよ。」
施設の慰問に時々現れる彼の姿に憧れ、気に入られようと勉学に勤しみ、そして佐藤は高校を出るや警察に入ったのである。
大学の学費の援助も「優秀な子のために」と警視長は申し出てくれていたが、高校進学時にすでに彼から援助を受けていたのである。
孤児が国の援助を受けられるのは義務教育の中学までだ。
それ以上の進学を望むのであれば、自分で働いて夜間の高校に行くしかない。
一六歳の子供が働いても生活費で高校を断念するのが関の山だ。
警視長から個人的に援助をもらっていたおかげで、佐藤はなんの心配もせずに昼間の高校に進学でき、そこで大いに勉学に部活と高校生活を楽しめたのである。
これ以上は贅沢だと、それ以上に、佐藤は少しでも尊敬する彼の役に立ちたいと進学など考えもしていなかった。
けれどこれは、篤志家と不幸な孤児という図式があってこそだ。
尊敬する篤志家が、愛人との隠し子を孤児院で育てていただけの唾棄すべき己の父親だったと、目の前に突き付けられた佐藤には怒りしか吐き出すことができなかった。
「俺のいた施設にお前が顔を出していたのはそういうことかよ。ふざけるな。俺は尊敬していたんだよ。お前をさ。ふざけるなよ!」
彼は自分を抱きしめる男を振り払い、気がつけば自分の机を前に尻餅をついていた。
「大丈夫ですか?」
部下の警部補が酷く驚いた顔で見下ろしており、彼はこみ上げてきた吐き気と記憶から逃げ出すべく部署傍のトイレへと駆け出していた。
駆け込んだトイレの手洗い場の大きな鏡は、自分ではない自分を無機質に映している。
佐藤だった時と違う顔、自分の物で無い他人の顔と姿だ。
「畜生。何だよ。俺は誰だって言うんだよ。」
よろよろと吐き気を堪えながら個室に向かう途中で、彼は床に転がり倒れた。
「畜生。トイレの床で濡れちゃったなんて情けない。びしゃびしゃで……。」
彼は自分の体を眺めるや、完全に体中の力を失った。
なぜならば、動けない体は切り刻まれて血まみれで、彼は路上に転がって一人で息絶えてしまっていたのだからだ。
彼にはそれが前世の記憶でしかないとわかっているが、その記憶が自分を殺すものだとも理解していた。
あぁ、俺は死んでしまっているのだ。
俺はもう自分のままではいられない。と。