第一章 異国の神(4)
レーヴィの顔は、青黒く変色した痣で一杯になっていた。いくつかの歯が欠け、脇を抱えるように歩いているところを見ると、肋骨も折れているかも知れない。
「先に行くぞ」
血反吐を吐いて救援を求めてきた少年を、ヴィユーニは待たなかった。彼から自らが向かうべき場所だけを聞き出すと、快速ともいえる跳躍でもって、ヴィユーニは街を疾走した。後ろからついてくる小さくも勇敢な気配には一瞥も与えなかった。
大道路をひた走り、二つほど角を曲がって裏路地に入ったところで、ヴィユーニは凶兆の大元にたどり着いた。
四人。一人は早くもヴィユーニを認めたが、他の三人は半裸のままで地面に転がる何かに群がっている。その中の更に一人が覆いかぶさっている下に、艶を帯びた褐色の肌が力無く伏していた。
「塩原は容易く人を殺す。そう言ったはずだが?」
ヴィユーニは少女に覆いかぶさる男――ココに向かって声を落とした。見張りの男まで十歩、ココまでは更に十歩の距離である。見張りは既に剣の柄に手をかけている。
「鹹い、鹹い。やはり塩原の娘は鹹いな。だが、男を食い千切るクーン女よりは遥かに愛おしいではないか」
上着をはだけたままの上半身を起こしたココは、眼下の少女に目を落としたまま、ヴィユーニに向けて言った。
「その娘を放せ」
抑揚のない声である。だが、感情のこもらないそれは、見張りの男には不気味に響いたらしく、彼は一歩も動かないままのヴィユーニに向けて剣を抜いた。
地獄の悪魔に相応しい笑声が周囲に響いた。ココはヴィユーニへの返答代わりとでも言わんばかりに、少女――意識があるかどうかさえ確かではないイーリを抱き起こし、その未熟な乳房を噛んだ。
少女の喉から、渇いた音が鳴った。
見張りをしていた男が指示を請うようにココの方を見やった瞬間、足元の土が弾けた。
ココが振り返るのと、見張りの首が胴から離れるのはほぼ同時だった。ヴィユーニと彼の間にあった十歩の距離が一瞬で詰められ、彼らの目測の愚かさを明らかにせしめた。
「ほう、少しはできるな」
部下が一人斬られたというのに、ココの声には全く動揺が見られない。彼は緩慢な仕草で立ち上がると、足元に置いていた自分の剣を拾い、腰紐に差した。
――暴君ココ。
男の二つ名である。何をもって彼がそう呼ばれるのか、ヴィユーニは知らないが、それはすぐ明らかになった。
ココの部下たちは彼の指示を仰ぐ立場であるのに、一度、ココよりも二歩ほど退いた。その上で彼らはこう言ったのだ。
「ココ様、ここは我々が――」
「手を出すな。俺一人でやる」
「しかし――」
そう言った部下の一人が真後ろに吹き飛んだ。顔面に手甲の一撃を喰らった彼は、鼻血を噴きながら仰向けに倒れ込んだ。
(なるほど、暴君だ)
修羅の庭にありながら、ヴィユーニは小さく笑った。暴君にあるのはただ二つだけである。彼自身の暴虐と、彼を取り巻く追従者である。案の定、無事に済んだ方の部下に少なからず余裕の表情が戻っている。
レーヴィは先程まで確かにこの場にいた。満身創痍であったということは、彼が単身でココ達に挑んだ証拠である。ココの暴虐を思えば、一命を取り留めたのが奇跡だろう。レーヴィは怒りのままに姉を助けるため徒手空拳でココ達に挑んだ。だが、完膚なきまでに叩きのめされた彼は、己の敗北を認め、ヴィユーニに助けを請うたのだ。
ヴィユーニにボリアの治安を守る義務はない。レーヴィからイーリの危機を知らされた彼は、警吏にこれを知らせるに留まる術もあった。だが、そうはしなかった。
(俺は、怒っているのか?)
それが最も己の死を近づける愚行であることは、他者の死によって嫌というほど思い知らされてきた。だがココという男を見ていると胸のどこかがざわつくのも確かだ。
ふと、ココの足元で何かが蠢いた。
「ヴィン……」
そう呟いたイーリの口から血の混じった泡が噴き出た時、ヴィユーニは自らの死を予感した。彼は、己の内にこみ上げた全ての感情を、まるでそれが死神からの贈り物であるかの如く瞬時に投げ捨てねばならなかった。
ココは既に飛び出していた。剣の柄に手を伸ばし、脇元で嵐が吹き起こるような速度でそれを抜き放とうと――
初めに土の弾ける音があり、肉の割ける音、次いで骨が両断される音があったはずである。だが、それらの全てが同時に起こっていた。
飛んでいたのは誰の手であったか、最も早く理解したのはヴィユーニであろう。だが、自らの体の異変に気付かぬように、あるいは全てを須臾の間に理解したココは、舞いあがった砂粒が下降を始めぬ間に次の行動に移っていた。
剣を抜こうとしていたココの右手を斬り落としたヴィユーニは、決着はおろか、優勢すら感じる暇もなく、次の敵の攻撃に晒されていた。
ヴィユーニが袈裟切りに落とした剣を引き戻そうとする刹那、ココは足元の小石を蹴りあげていた。それは正確にヴィユーニの眉間目がけて飛んできた。剣撃とも見紛う速度である。剣での防御など到底間に合わず、かといって直撃すれば一瞬にしろ視界が失われる。一呼吸の間にこれほどの動きをする相手に一瞬でも有利を与えれば、それは死を意味する。
ヴィユーニが小石を避けようと微かに上体を反らしたのは自明だったが、ココもまた蹴り上げた右足を利用して体を捻り、左腰に差したもう一振り剣を逆手のまま抜き放った。
(これが……「剣翁の孫達」!)
声にならぬ賞賛が、ヴィユーニの脳裏でこだました。初手でココの右手を斬り落としていなければ、今頃はどうなっていたのか、想像すらつかない。
ヴィユーニの視界は、逆手に剣を抜き、自らの失われた右手など見向きもせずに自分に襲い掛かろうとするココの姿を鮮明にとらえていた。
不利はヴィユーニにあった。上体を後ろに反らし、斬り下げたばかりの剣はまだ地面を向いたままだ。このまま勢いを殺さずに後ろに飛びのくのが最も利口に思えた。
(だが、相手は暴君……)
ヴィユーニが斬る、避けるの二動作を行う間に、最初の攻撃に失敗し右手を失いながらも、蹴り上げる、腰を捻る、剣を抜くの三動作を咄嗟に仕掛ける手練れである。それほどの相手に、後ろに退くという行為は更に二動作の有利を相手に与えるに等しい。
ヴィユーニの感覚では、この時点でココを含めた三人を斬り殺しているはずだった。いかな手練れとて、一人目しか倒せていない現状は彼に小さからぬ衝撃を与えた。
ふと、視界が白んだ。中天にあった日の光がヴィユーニに降り注いだ。
(ヴィユーニよ、お前はどちらの天へ逝く?)
自問とともに淡い痺れが背筋に広がった。次の瞬間、ヴィユーニの背なの筋肉が鋼鉄のように硬く、凝固した。
上空を見上げた一瞬、ヴィユーニはまるで大地に杭を立てるように左足を突き立てた。
それまで時の流れを緩慢にしていた感覚が、凄まじい速さで回転し始める。
瞬間、仰向けに反っていたヴィユーニの上体が、矢のように敵に向かって飛び出した。
ちっ――と鳴った音は、あるいは敵に向けて剣を突き立てる際に剣先が地面をなぞったものかも知れず、ヴィユーニの予想より遥かに速く剣撃を繰り出してきたココと接触した音かも知れなかった。だがそれを確認する術などヴィユーニには無く、全ては激流のように過去に押し流された。
イーリが呻いてからまだ数秒と経っていない。その間に嵐のような攻防が全て行われ、そして二人の剣士が抱き合うように折り重なっていた。
息の乱れが、敗者が誰であったのかを告げていた。
まるで今までそれを忘れていたとでも言うように、暴君ココの斬り落とされた右手から血が噴き出した。
「地獄で……」
呻きともつかぬ声。腹に一切の力が入らず、最後の息を吐きながら辛うじてひねり出すそれである。
ヴィユーニがココから離れると、胴を貫いた剣が引き抜かれた。既に真っ赤に染まった剣身に、腹から噴き出した血が更にかかった。
ココはおぼつかない足取りで数歩下がりながら、続けて言った。
「貴様のことを待っている……ぞ。…………貴様は……たった今、神竜の尾を踏んだのだ!」
彼の体を受け止めるべき者は一歩も動けぬままに、暴君は風に打ち倒されるようにして、地に沈んだ。
自分の生涯で最も苦戦した相手がココであったかと問われると、ヴィユーニは首を横に振るだろう。これ以上の危機など幾度もあった。だが、ココ以上の剣客をヴィユーニは知らない。クーンの地には彼を上回る者が何人もいるという。
遠雷。ふと、何かに呼ばれたような気がした。振り返った遥か先の空に、それはあった。
ただの稲光に過ぎないそれは、まるで時間が止まったかのように数瞬の間、ヴィユーニの網膜に己の像を焼き付けていた。にわかに信じ難い光景であった。それは天地を繋ぐ柱のようでもあり、そして――
「神竜……思い出した。ドラクワの神の名が、確かそうであった」
不思議な感覚がヴィユーニを包んでいた。自分が今見た怪異は、果たして遠方の神であったか。
この思索が、本来はヴィユーニにとって致命的な隙となるはずであった。だが、彼はココが言ったように幸運に恵まれてもいた。ココの死を見た部下は、大きな隙を晒す敵を討とうとせずに、彼自身の保身を願った。ヴィユーニがそのことに気づいた時には、既に彼はヴィユーニの横を走り抜け、大通り目がけて逃走していた。
ヴィユーニは傭兵にあるまじき己の不覚にもまた驚いたが、それもいい――と思い直し、地に伏せたまま自分を見上げる少女の元に歩み寄った。
背後に何者かの気配を感じた。ヴィユーニは既に知っていたのか、振り返らなかった。
「レー……ヴィ……? レーヴィがいるの?」
凶風――あるいは、それはイーリの口から漏れ出た吐息でもあった。
「やめよ。放っておいてもその者は塩原が裁く」
ヴィユーニは背後で気絶したココの部下を見下ろすレーヴィに向かって言った。
「その男はヴィンが裁いた。なら、こいつは僕が――」
何かで土を引っ掻く音――恐らくレーヴィが剣を拾ったのだろう。彼がそのまま気絶した剣士の喉元をかき斬るのを、ヴィユーニは止めなかった。
ヴィユーニが言う塩原とは、勿論過酷な大地のことであるが、同時にそこに住まう人々のことでもある。塩原で無法を働いた者は、大地と人の双方に裁かれる。イーリを凌辱した時点で、ココ達は他者無しでは決して生きられない塩原における全ての助けを失ったのだ。
ヴィユーニはイーリを抱きかかえた。そのまま剣を持って何処かへと向かったレーヴィを止めたかったが、姉の惨状を見せつけるのは少年の傷を抉るだけだろうと思い直した。手負いのレーヴィでは命惜しさに逃げる敵に追いつくことなどできないだろう。
風が吹いた。未だ止まぬ凶風である。
ボリア郊外でレーヴィの死体が見つかったのは、それから一時間ほど後のことである。
レーヴィは満身創痍でありながら、旅の商人が駆る竜を奪い取り、敵を追撃した。敵に追いついてしまったのがレーヴィの不幸であった。
ボリア人の誰もがイーリを憐れんだ。先にヴィユーニに向かって忠告したクーン商人ですら、同胞の非道を詫び、少女に許しを請うた。だがイーリの怒りはその程度で消え去るはずもなかった。彼女は天に向かって泣き叫び、地に向かって慟哭し、人々に向かって復讐を訴えた。イーリに同調し、嚇怒したボリアの青年たちは武器を取って全てのクーン人を街から叩き出そうとした。警吏が彼らを保護しなければ、凄惨な殺戮は現実のものとなっていただろう。
「レーヴィの仇を! 全てのドラクワ人に死を! 塩原の神よ! ヴィユーニよ、どうか!」
葬儀の場で、イーリは狂ったように泣き叫び、ヴィユーニの膝にしがみついた。
(復讐など――)
あるいは人を殺して生計を立てると言い換えてもいい生業にあるヴィユーニからは最も遠い感情である。だがそれが、ヴィユーニに告げるのだ。少女の願いを叶えろというのだ。
イーリを抱き寄せて共に涙を流す酒場の店主は、無表情で立ち尽くすヴィユーニに向かって囁いた。
「ドラクワ人は執念深い。いくらヴィユーニといえども、しばらくは姿を晦ませた方がいい」
店主に背中を押されるように、ヴィユーニはボリアを後にした。だが、彼が竜首を向けたのは塩原の向こうの南国ではなく、遥か北――クーン王国であった。
第一章「異国の神」了
第二章「クーン剣士団」へ続く