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塩の剣  作者: 風雷
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第七章 塩の剣(10)

 屍から剣を引き抜きながら、ヴィユーニは妙な違和感を覚えていた。何であろう。微かな喧噪が胸の内にこびりついて離れない。激闘冷めやらぬためか。いや、そうではない。焦燥にも似た違和感。

 テーベを倒し、至高の天を見た。だが、何かが頂へ登ろうとするヴィユーニの髪を引く。

 恐らく、つい先ほどまで剣士団を指揮し、塩原の軍神を追い詰めた男はカルカラであっただろう。だが、ヴィユーニが見るに、彼は本質的に策略家ではない。より狡猾に、あらゆる欺瞞を投げ捨ててかかれば、斃れていたのは自分の方だったはずだ。テーベが毒矢を用いていれば、あっさりとけりがついたはずである。そう、「剣翁の孫達(タータ・ロセ)」の中でも隔絶した剣士でありながら、テーベには甘さにも似た何かがあった。

 言うならば、傷。テーベが目で語った今際いまわの際、彼の視線には傷があった。いや、もっと前に、テーベの剣そのものに拭いきれない傷があった。それはまるで――


「テーベに勝つか。見事だ、孺子じゅし


 低い男の声。だが生気が弱く、確実に老人のそれである。

 振り向いた先には、ヴィユーニが思い描いた通りの老兵が立っていた。


「……お前が剣翁か?」


 確証など無い。ただ、老兵の立ち姿が全てを語っていた。

 病に蝕まれ、起き上がることすらままならない体であると聞く。それが微塵も感じられないほどに、剣翁ロセは静かに歩み寄る。


「さあ始まりだ、孺子。剣を取るがいい」


 耳を疑いたくもなる。剣士団の戦力の中枢はすでに壊滅した。今さら老いた剣士が一人出てきて何を始めるというのだろう。


「――ッ!」


 危険を感じたのは、さすがに今しがた命を賭した争いを制したヴィユーニというべきだった。彼が咄嗟に逆鱗の剣で庇わなければ、この首は瞬く間に刎ねられていただろう。


(見えなかったか?)


 ヴィユーニが防御を行ったのは、予感によってである。ロセの打ち込みがそれほど速いか。否。剣を斬り払う際の一切の予備動作をヴィユーニは視認していた。言うならば、見えてはいたが、反応できなかった。結果的に、それはヴィユーニに見えなかったという他ない。


「ほう、孺子の分際で俺を測るか……」


 左手に持った逆鱗の剣を両手持ちに切り替える。ヴィユーニの直感が、かつてない危機を感じ取っている。


「毒で死にかけ、病で死にかけ。五分と言ったところだな、孺子」


 剣翁の顔には笑みさえ浮かんでいた。逆に死神とまで呼ばれた男の顔は驟雨でさえなければ玉の汗が浮かんでいただろう。

 剣翁が一歩を踏み出すと、やや遅れてヴィユーニが後退する。その間に剣と剣がぶつかる金属音が鳴り、ヴィユーニの顔が苦痛に歪む。


(防ぎきれないのか?)


 何故そうであるのか、ヴィユーニには全く理解できなかった。ただわかるのは、剣翁には一切の不要な動きが無いということだ。全ての無駄を排除し、最短距離を詰めてくる。故に、ヴィユーニの予測より遥かに速く技が繰り出される。これまでもこういった剣士はいないわけでもなかった。「剣翁の孫達(タータ・ロセ)」の技は一人の例外なく、熟練の域に達していた。だが、彼らより遥かに初動が遅く、打ち込みも弱々しい目の前の老人は、他の誰と比べても冠絶していたのである。


(何が?)


 自問してしまうほどに、これはヴィユーニにとって不可思議であった。

 ロセの攻撃には殺気が感じられない。感じた時には既に打ち込まれている。彼が手にしているのは色からして間違いなく逆鱗の剣だが、ヴィユーニが持つものより剣身が薄く、鞭のようにしなって変幻の剣筋を描く。だが、ロセの恐ろしさはそのような小細工にはない。

 不可解な事態に百戦錬磨のヴィユーニは狼狽えない。彼はロセの本質を全く理解できないが、苦手としそうな動きなら想像がついた。

 ヴィユーニが剣を右腰の下に構えると、ロセはにやりと笑みを浮かべた。

 じりじりと距離を詰める。ヴィユーニの思い付きとは、彼がクーンを訪れてから学んだ剣技――落竜覇である。

 飛び出す。負傷しているとはいえ、常人には反応すら難しい突進である。そのまま剣を斬り上げ、胴を両断しようかというところ、ロセが後方に飛びのく。

 ヴィユーニの斬り払いは瞬時に軌道を変え、突きとなって敵を襲った。

 まるで壁にぶち当たったかのようにヴィユーニの動きが止まる。知らぬ間に右脇に剣が付きつけられていた。赤子のような優しさでそれが肉に食い込んだ時、ヴィユーニは背筋が寒くなるのを感じ、その感覚のままに体を捻った。皮肉の欠片が千切れ飛んだ。


「たわけが。弟子の技で師を屠ろうなど笑止千万」

「な、舐めるな、老いぼれ!」


 吼えた。生まれてからこのかた敗北を知らないヴィユーニが、ここまで虚仮にされたのは初めてである。

 ヴィユーニは無我夢中で打ち込んだ。全力で斬り下ろし、払い、突いた。だが、そのどれもが敵に刃が届く遥か手前――引き絞った弓が放たれる瞬間に阻止された。あるいは、これはヴィユーニがロマヌゥに対して行ったことと全く同じだった。このような神業を可能にした要因は何か。

 圧倒的な技量差である。


(こいつ、本当に人間か?)


 ヴィユーニはたった今自らを突き動かしている感情を理解していなかった。より速く、より正確に、より強く打ち込めばこの男に勝てるはずだと――ただそれだけを考えていた。

 剣翁はヴィユーニの攻撃を避けない。だが、その男に剣が届かない。ならば、奪うか。あの剣神ウラハールの弟子を斬り伏せた凶剣の奥義を、今一度繰り出せば勝てるだろうか。


(無理だ……)


 テーベの剣技は塩原の軍神にすら真似できぬほどの高みにあったが、一度相手に見せた技を再びふるったのが彼の敗因であった。ヴィユーニが同じことを剣翁に行えば、先程の落竜覇のように容易くあしらわれるだけだろう。無手の奥義が破られれば、その先にあるのは死である。


「うおぉ――!」


 渾身の力をこめて打ち込んだ一撃が、剣翁に初めて防御を行わせた。攻撃したヴィユーニの方が驚いてしまうほどに。


(押し切れば、勝てる!)


 たった一瞬の揺らぎが、剣翁の弱点を露呈した。この老いぼれにいつまでも自分の攻撃を受け流せる体力は無い。無限に打ち込めば、いつか死ぬ。

 これがヴィユーニの中で確信となった時、男は全身全霊を賭して攻勢に出た。

 剣翁が一歩下がり、ヴィユーニが一歩詰める。先程とは全く逆の方に風が流れ始めた。


「孺子、未熟ぞ!」


 ヴィユーニの視界が一瞬で暗んだ。それが何を意味するかに気づいたのは、暗んだ右の視界にロセの姿が溶けて消えたからだった。


(右目が死んだか。しかし何故?)


 右目に稲妻が落ちたような痛みをこらえながら、ヴィユーニは自分に起こった異変をにわかに信じることができなかった。

 ボリアのクーン商人は、剣翁の技を「触れずに斬る」と表現した。事実であるならば、それは妖術の類であろうか。否、技である。他でもない、剣の神と讃えられる男の絶技である。

 ヴィユーニがこれを確信したのは、ロセの次の斬り下ろしを防御した時だった。

 先程までとは全く違う。剣身すら見えない高速の打ち込みである。そして剣先が確実に触れていない肩の肉が割けた時、全てを理解した。


(水を飛ばしている!)


 ロセの持つ逆鱗の剣は、よく見ると普通の剣より薄く、剣身に溝がある。重量を減らすために剣身を削るなど本末転倒である。否、そうではない。ロセは剣身を濡らす雨水を勢いよく飛ばしてヴィユーニに叩きつけている。斬撃の勢いで溝を通り、剣先から放たれた水が刃物となって敵に襲い掛かるのだ。並みの打ち込みでこうなるのなら、誰もが剣翁となれる。

 だが――


「底が知れたぞ、剣翁!」


 避けない。如何に妖術の域に達した技であれ、致命傷に達しないのであれば、恐るるに値しない。


(腕の一本や二本、くれてやるッ!)


 渾身の踏み込み。首さえ両断されなければ、この突きは必ず剣翁に届く。仮令たとい胴を半分断たれようとも、その前に砕剣がロセの心臓を貫くだろう。

 避けることなど決して許さぬ自信――それは迅さと同義であった。飛矢より迅く飛び出したヴィユーニ自身、自分が何かに引き寄せられている感覚を味わうとは夢にも思わなかった。

 剣翁は襲い来る凶刃にぴたりと剣先を合わせると、まるで獣が獲物に飛びつく直前の構えを取る時のようなしなやかさで、全身を引いた。


(これは――)


 ロセの持つ逆鱗の剣は、ヴィユーニが突ききった剣先にぴたりと吸い付き、弓のようにしなっている。それは瞬時に解き放たれ、樹上から飛びかかる蛇のように相手の胸に突き刺さった。死に至らなかったのは、ヴィユーニが後方に飛びのいたからではない。そんな余裕など今の彼には全くなかった。


「浅いか。孺子、よくぞ躱した」


 躱してなどいない。ただの偶然。ぬかるんだ地面に足を取られ、後方に仰け反ったためにあばらを抉られただけで済んだのである。

 己の血と泥にまみれながら、ヴィユーニはロセの本質を理解した。この男はヴィユーニという男が繰り出し得る全ての動きを読んでいる。いや、恐らく知っているのだ。

 今しがた、自らが頂きと確信したもの。確かに見た、己が人生の到達点――それは、巨竜の爪先に過ぎなかった。

 理解するとともに、ヴィユーニは生まれて初めて、心の底から恐怖した。

 剣翁と剣を合わせる度に、自分だけが傷を負っていく。先ほどのように攻勢に出ようとすれば、全てが無に帰した。技量において、この老兵は遥か高みにある。一見、力量では拮抗しているが、ヴィユーニはこの男にかすり傷ひとつすら負わせることができない。あるいは毒に体を蝕まれておらず、先の戦いでの負傷もなければ、一気呵成に押し切れたかもしれない。だがそれはロセとて同じだろう。彼が病身でなければ、ヴィユーニは切り結ぶ間もなく首を刎ねられていたかもしれない。


「そろそろ……終わる……か」


 体中が血まみれになり、膝まで震えだした男を前に、剣の神はそう吐き捨てた。

 肩の肉がちぎれ、胸の肉が穿たれ、耳に風穴が空き、内臓に雨粒の弾を射ち込まれながら、ヴィユーニは心中で絶叫した。


(死ぬ! 俺はここで死ぬ!)


 いつか、自らに問うたことである。


――お前は、どちらの天へ逝く?


 ここには一つの天しかない。ヴィユーニという男が死ねば、それは地に伏し土に還るということだ。ここは彼の愛する大塩原ではないのだから。


「おお……おおおぉぉ――!」


 死を覚悟した刹那、喉元に突きつけられた剣先が止まった。

 酷く乱れたヴィユーニの息遣いだけが、周囲に響く。


「ロ……セ?」


 剣翁は敵に剣を突きつけたまま、微動だにしない。

 ふと、ヴィユーニの顔に暁光が射した。雨はいつの間にか止んでいた。

 剣先で、恐る恐るロセの剣に触れた。すると老人は音もなく、まるで人形のようにふらりと揺れた。


「勝っ……た?」


 そこには自分以外の一切の呼吸が無かった。ロセの顔を凝視した時、開ききった瞳孔が全てを物語っていた。


「はは……老いぼれめ。死んでやがる」


 ふと、全身が脱力し、手から剣が滑り落ちる。

 安堵の息が漏れ出る刹那、眼下の光景が自分を自分たらしめているものが何かを痛烈に語りかけてきた。

 全ての者に死をもたらす大塩原。ヴィユーニはこれと同じ名を享けた。雨で泥だらけになった大地は、奇しくも塩湖の双天と同じ光景を彼に見せていた。


嗚呼ああ、剣が見える。白く輝く塩のつるぎが――)


 目の端で、水たまりに反射する陽光を見た。その中で蠢く影をとらえた時、ヴィユーニは地面に落ちかけた剣を蹴り上げた。

 次いでロセの脇腹から白刃が煌めき、ヴィユーニを襲った。

 防御は間に合わない。ヴィユーニは右の掌を貫かせることで、確実に心臓を穿とうとする強固な意志を捻じ曲げた。残った左手で逆鱗の剣を手に取り、感覚の任せるままに突いた。

 ロセの背後で呻き声が上がり、最後の刺客――アヴィスは斃れた。




 ヴィユーニはロセの死体に歩み寄り、その髪を掻き切った。

 何故――と問われれば自分でも上手く答えられないだろう。ただ、自分が見た景色を、剣の神にも見せてやりたい――そう思った。

 一部始終を見守っていた剣士団の者達は、中には戦意喪失する者もあったが、多くはヴィユーニ目がけて斬りかかってきた。

 気付けば夥しい屍の上で、己の傷の多さに驚いていた。


「帰ろう。大塩原ヴィユーニへ――」


 この日、ヴィユーニは王都クーンを去った。そして、たった一人だけ、少し遅れて彼を追う剣士の姿があった。剣士の名はルーンといった。




第七章「塩の剣」了

終章「双天鎮魂歌」へ続く


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