第七章 塩の剣(8)
ココ、カエーナ、ルーン、アヴィス、カルカラ。そのいずれが相手であっても、これは致命の一撃足りえた。だがヴィユーニが見た光景は、まるで誘われるように斜めに構えた剣身の上を滑り落ちる自らの剣の姿だった。
(流すかよ、これをッ!)
必殺の確信が打ち砕かれると同時に、眼前に巻き起こる嵐が如き現象に総毛立った。
それは「突き」であった。確かにそう呼ばれる類のものだ。だが、ヴィユーニの知るそれとは異次元の違いがあった。砕剣をいなしたテーベの剣は、まるで生き物であるかのように向きを変え、ヴィユーニの心臓に飛びかかった。
(避けられん)
奇しくも先程テーベがそうしたように、辛うじて剣身を引き、剣腹を突きに合わせる。
「うおぉッ!」
浮いた。カエーナやカルカラほどの巨漢でないにしろ、武装した長身の男が突きの勢いに浮かされたのである。
捻じれ。空中で回転しつつある自分を知る。ヴィユーニの直感は、これは「突き」ではなく、「抉り」であると断定した。
(まるで嵐のような――)
このまま逆鱗の剣がへし折れるのではないかと思うほどの衝撃とともに、ヴィユーニは後方に突き飛ばされた。そのまま屋根を落ち、背なから地面に激突する。
「ぐはっ」
数瞬の呼吸の忘れ。それが致命であることを知らぬヴィユーニではない。もがくように転がると、先程まで自分がいた場所に手放した剣が突き立った。
呼吸を整える間もなく立ち上がったヴィユーニが目にしたのは、折れた剣を片手に持つテーベの姿だった。
「よく防ぐ。流石は砕剣だ。いや、流石はヴィユーニと言うべきだろうな」
自ら繰り出した技に耐えきれず砕け折れた剣を見ながら剣士が言う。ヴィユーニが相対しているのは、間違いなくこれまで剣を合わせた「剣翁の孫達」を凌駕する男である。
――抜けば嵐、納めれば凪、動けば神、止めば聖。
ふと、ロマヌゥの言葉を思い出す。呼吸を忘れた自分の肺を誤魔化すように、言葉を紡ぎだす。今数秒の間、五体が満足に動かぬことを決して相手に悟られぬように――
「……なるほど、お前が剣聖――剣神ウラハールの弟子か」
確証はない。だが、確信する。先の人間離れした突きを受けたからこその確信である。
「本当に俺が剣聖と呼ばれるべき男なら、とうにお前を斬って捨てている。ここに居るのはそれとは程遠い、ただ鞘を飾るだけの未熟者よ」
「七本鞘とは、持つ武器に難儀する者の名だったか」
自嘲と称賛。交差するそれらを受け止めるように、向かい合う二人の目が笑う。テーベが地面に突き刺さった砕剣を手に取る。
「お前なら、耐えてくれるか?」
何やら期待を込めるように、韜晦の剣士は青光りする剣に向かって呟き、軍神の前に降り立った。
(なんという男だ……)
これほどの剣士が、何故クーン剣士団の幹部などに甘んじているのか。剣神ウラハールのように孤高の達人として、この世のあらゆる武人の上に君臨していないのか。
(次は……受けられんな)
逆鱗の剣ですらあれだけの衝撃を受けたのだ。突き飛ばされて自らの武器を手放すなど、ヴィユーニにとっては生まれて初めての体験だった。今自分に可能なあらゆる動きを総動員しても、テーベが繰り出す必殺の抉りを防ぐことはかなわないだろう。ならば、避けるか。そのような甘えを、この男が許すはずがない。
(死ぬか、ヴィユーニ?)
自らに問うた。未熟な頃、塩原の真っただ中で食料が尽き、死を覚悟したことはあった。今この瞬間の危機はそれに勝るか。
(いや……)
ヴィユーニ自身、妙に落ち着いている自分を不思議に思っていた。もっと言えば、心のどこかで生還を確信する自分を――である。
かつてない強敵を前に、あまりにも無根拠な自信。それは冥府への誘いに他ならない。このまま蒙昧に剣をとれば、自分はテーベに突き殺されるだけである。
腹の奥底に溜まった泥を掬い取るように、ヴィユーニは己の中に眠る何かを探った。これまで剣に生きてきた全ての人生――その中の何処かに答えがあるはずだ。
「あっ――」
あった。同時に、確固たるものだと信じて疑わなかった世界が揺れた。
ココ、カエーナ、アヴィス、サシャ、カルカラ。その全てが難敵であった。軽々といなしたアヴィスですら、まかり間違えば自分が斃れていただろう。それでもヴィユーニにとって、自らの勝利は約束されたものだった。
だが――
(ルーン……?)
あの、他に類を見ない独特の身のこなしと、獣じみた闘争心。その上更に、ヴィユーニの予想だにしない発想。見る事の叶わなかった、凶剣の奥義。
それが、ヴィユーニの脳裏に炸裂したのである。
(あの時――)
テーベは恐らく、あえて相手の呼吸が整うのを待った。それを癪に思いながらも、ヴィユーニは傍らに横たわる死体の鞘から剣を抜き取った。
「一太刀で――」
まるで引き絞った弓のように、テーベは砕剣を引いて構える。
「ああ、一太刀で――」
テーベの誘いに、ヴィユーニが応える。
(あの時俺は――)
塩原の死神ですら真似できぬ、紛うことなき神業。それをこれから凌駕する確信が、ヴィユーニの心底に沸き起こっていた。右脚を前に起き、重心を預ける。自らは矢であると信じる。
雷鳴。まるで構えたまま動かぬ二人を急かすように、天が吼えた。
同時に飛び出した刹那、テーベが見たのは猛禽のように地を走る敵の姿だった。姿勢を低くし、走るというよりは射出された矢のようにそれは自分に向かってきた。元より、テーベの狙いはひとつしかない。ヴィユーニの正中に必殺の突きを繰り出すのみである。テーベに神弓の異名を与えたのは初代団長ラァムだが、彼がそう名付けた所以は巧みな弓術にあったか。あるいは他の「剣翁の孫達」ですら知らぬ彼の絶技にあったか。
互いの剣が激突する。技量の差か、あるいは砕剣の名剣が故か、まるで砂糖の塊を割る様に、ヴィユーニの剣が軽々と砕け折れる。
わずかに軌道が逸れた剣を潜る。ヴィユーニの突進は止まらない。得物が破壊された今、このまま激突して徒手で殴り合うつもりだろうか。
「しっ!」
カエーナのみならない。テーベの剣技もまた変幻自在である。必殺の突きを紙一重で躱されたのならば、その剣は軌道を変え、鋭い鎌となって相手に襲いかかる。
(あの時俺は、死んでいたのか。ルーン!)
名剣砕剣がヴィユーニの首筋に触れる刹那、それは起こった。




