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塩の剣  作者: 風雷
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第七章 塩の剣(5)

(こいつは、どうにもまずい)


 多対一の戦いに慣れているヴィユーニだが、今この時ほどの危機を迎えた記憶を探るのは難しい。

 何せ、クーン最強を名乗る「剣翁の孫達(タータ・ロセ)」が三人も揃っている。その上、得体の知れない暗殺者サシャもまだそのあたりに潜んでいるだろう。

 重傷を負ったはずのカエーナが戦場に出てきたのはヴィユーニの予想の範疇を越えていたが、彼の後ろから十騎の騎竜兵が駆けて来たのには、さすがの軍神も肝を冷やした。全てが槍を持ち、ヴィユーニ目がけて突進してくる。この槍に引っかかれただけでも死が見える。

 左右の家屋の屋根から飛矢が放たれる。ヴィユーニはカエーナに向かって走りながらそれを躱したが、同時に騎竜兵達の相手をしなければならなくなった。上空のカルカラ、遠距離から確実に自分を狙って来るテーベにも警戒を怠るわけもいかない。


(まずはカエーナからだ)


 ヴィユーニはこの戦場で最も組しやすい敵をそう見た。カエーナを斬った手ごたえはまだこの手に残っている。ほんの数日で癒せる傷ではなく、今でも立っているのがやっとだろう。

 と、その時――どうにかしてやり過ごそうと思っていた騎竜兵が一斉に跳んだ。そのせいで彼らの槍を避けるのは容易かったが、彼らが背後で旋回する前にカエーナを討とうと走るヴィユーニの首ににわかに痛みが走った。


(無音剣――?)


 またもや上体を反らして首が飛ぶのを防いだヴィユーニを、カエーナの重い鉄槌の一撃が襲う。


(無茶苦茶な連係をしやがる!)


 心中で悪態をついたように、ヴィユーニは辛うじてそれを躱していた。だが、地にめり込んだ巨剣はそのまま地面をえぐりとるようにヴィユーニを叩き飛ばした。咄嗟に逆鱗の剣で防御しなければ、衝撃で臓腑が破裂していただろう。

 背後に殺気――またもや体勢を立て直す暇もなく身をよじると、微かに光る何かが眼前を横切った。吹き矢だ。恐らくサシャのもので、あれには確実に毒が塗られているだろう。このような乱戦にも関わらず平気で毒矢を用いるあたり、味方に当たるのを覚悟で射っているとしか思えない。


「おのれ――!」


 次の瞬間にはまた、ヴィユーニはカエーナの攻撃に備えねばならない。今、ヴィユーニの行動を最も制限しているのはサシャであるが、全てを措いて彼女を叩くほどの余裕は無い。ならば、今眼前に立ちはだかるカエーナを先に討つしかない。逃げの一手もあるが、ここまで包囲されていては何処かを破らねばならない。その最も脆い壁がカエーナであると踏んだヴィユーニの判断は、誰が見ても正しいものだった。

 そう、誰にでも予測が可能なほどに――

 カエーナは懲りずに鉄槌のような斬りおろしでヴィユーニを襲う。以前は剣の上を駆けるという曲芸を見せたヴィユーニだったが、毒の回った体――もし遅行性かつ致死性の毒なら彼の敗北は決定しているが――ではそれを行うに心もとない。


(あれはないだろう?)


 カエーナの神速の切り返し――落竜覇らくりょうはは恐らくありえない。あったとしても、重傷のカエーナに人間の反応の限界に近しい剣技を繰り出す力はあるまい。

 案の上、カエーナの斬り下ろした剣は空中で軌道を変え、ヴィユーニの胴を狙った。


(遅いっ!)


 激突。先日の失敗に懲りたのか、カエーナは竜皮の鎧を着こんでいたが、名剣砕剣の前には、それは紙の鎧同然であった。ヴィユーニの突きは容易くカエーナの胸を貫き、この戦場における脅威の一つは排除されたはずであった。

 だが、カエーナは己の命など投げ短剣ほどの価値しかないとでも言わんばかりに、剛腕でヴィユーニを抱きかかえた。


「サシャ、れ!」


 カエーナが叫ぶと、家屋の陰から黒装束の女――サシャが飛び出し、ヴィユーニに向けて吹き矢を射かけた。


「くっ……」


 ヴィユーニはカエーナの腕の中で悶絶するように身をよじらせた。カエーナは後ろ手になったヴィユーニの右手をとり、娼婦カルに噛まれて千切れかけた指を捻った。


「があぁ――!」


 痛みに絶叫するヴィユーニに向かって吹き矢が放たれる。


「――ああっ!」


 ヴィユーニは狂いそうな激痛に顔を歪めながら、右手を振りほどいた、わずかに繋がっていた人指し指は完全に千切れた。傭兵達の神と呼ばれる男の右腕は、この時死んだと言っていい。

 ヴィユーニが暴れまくったせいか、吹き矢はわずかに狙いを逸れ、カエーナに命中した。一瞬、巨体がふらりと倒れかけたが、ヴィユーニが脱出を試みた時には既に、次の脅威が近づいていた。


「我に任せよ!」


 そう叫んだ者の名をヴィユーニは知らない。先程騎竜で襲ってきた内の一人――ミトラは、竜を旋回させるや否や、敵に向かって駆け、槍を突き出した。


「くぅ……うおおおぉ――!」


 絶叫と共に巨体が持ち上がる。ヴィユーニの口から黄色い泡の混じった液体がこぼれ落ちる。男は死しても自分を抱き続ける死体を持ち上げると、力任せに体を旋回させた。


(化物か!)


 既に絶命したカエーナの体がミトラの顔面に直撃した。死体の拘束を振りほどき、ミトラが衝撃で落とした槍を空中で手にしたヴィユーニは、そのままもう一騎を突き殺した。

 地面に落ちたミトラはしたたかに頭を打ったが、痛みに悶絶する余裕などなかった。

 ヴィユーニはカエーナを投げ飛ばす際に抜き取った逆鱗の剣でまたもや防御を行わざるを得なかった。飛竜に乗ったカルカラが上空から急降下し、渾身の一突きを放ったからだ。逆鱗の剣は頑丈だが、まともに受ければヴィユーニは体ごと叩き飛ばされるしかない。

 着地したヴィユーニを飛矢と吹き矢が狙う。更に逃げようと思えば、ここぞという時にあらかじめ仕込まれた無音剣の罠に動きを邪魔される。


(今しかない)


 ヴィユーニは逃走を即決した。このまま戦えば必ず負けるとは思わないが、今は特にサシャの毒と無音剣が脅威である。テーベが毒を使っていないのは不幸中の幸いだが、戦士の矜持きょうじに助けられたとは思いたくない。

 この、ヴィユーニが一瞬思考した瞬間こそが、この戦いにおける彼の最大の隙であった。時間にして二、三秒。カエーナがまだ生きていたならば、確実に仕留めていただろう。

 地面に倒れていたミトラは勿論この特大の隙に気づいた。彼がヴィユーニの最も近くにおり、跳び起きて斬りかかれば「剣翁の孫達(タータ・ロセ)」を越える栄誉を手にすることが出来る。

 だが、剣の柄に触れた瞬間、ヴィユーニと視線の合ったミトラはたちまちに背筋が凍りついた。


――そのまま寝ておけ。動けば加減できんぞ。


 確かに聞こえた。唇は動いていない。ほんの一瞬の間に、ヴィユーニはそう目語したのである。


(格が……違い過ぎる!)


 そしてミトラの選択は、このまま倒れていること――であった。

 ヴィユーニは主を失って暴走している竜に飛び乗ると、そのまま駆けた。無音剣が何処に張られているかわからないため、首を低くし、剣を前に構えながら走った。


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