第一章 異国の神(3)
大陸南部に伸張を続けていたクーン王国は、二十年ほど前に南方の雄であるナバラ王国と激突した。その際に王軍が大敗し、首都にナバラ飛竜兵団がなだれこんだ。この戦争は陸上を走る十万もの騎竜兵団が一万騎程度の飛竜兵団に敗北したという点でまさに南北文明の衝突であったが、クーン王都を護ったのは王軍ではなく、民衆が結束した義勇軍だった。
義勇軍を仕切る男の名をラァムといった。酒屋の息子に過ぎなかった彼は用兵に鬼才を発揮し、崩壊しかけた王都クーンをナバラ飛竜兵団から護り抜いた。そのほとんどは山林を利用して輜重部隊を急襲するという遊撃戦だったが、補給のみは陸路に頼らねばならないナバラ軍の弱点を見事に突いていた。やがて、補給線の断裂を恐れたナバラ軍は南方に退き終戦となるが、ラァムを以ってクーン側随一の英雄とするのは彼此を問わず明らかであった。
戦後、義勇軍のほとんどは解体されたが、一部は王都民衆の自衛団として残った。これが、クーン剣士団の始まりである。夭折したラァムの後を継いだのは、剣士ではなく彼の親友で商人上がりのエリリスという男だった。彼は商人らしい感覚で剣士団を運営した。彼らが傭兵化するまで十年と経たなかったのは、大陸南方の政情が不安定だったのもあるが、確実にエリリスの手腕である。
この二代団長エリリスの頃に、伝説の傭兵として名高い剣翁ロセが剣士団の顧問となった。エリリスの意図であろうが、ロセは剣士達の精鋭化に励んだ。その結果生まれたのが、死者数十名といわれる壮絶な鍛錬を乗り越えた「剣翁の孫達」である。
「剣翁の孫達」の中にはラァムの遺児であるシャモレイオという男も含まれていた。精鋭の中でも最強の剣士として期待されていた彼は、暗黙的に次期団長と目されていた。
だが二年前、剣士団に大きな試練が与えられた。
内乱である。クーン王の死後、太子と王弟との間で骨肉の争いが繰り広げられた。当初剣士団は中立を保っていたが、内乱が拡大するにつれて、旗色を鮮明にすることを強いられた。
この時、クーン剣士団内部も分裂した。太子を支持するシャモレイオ派と、王弟を支持するエリリス派、そして原則不干渉を主張するカルカラ派である。
シャモレイオは次期団長の最有力候補であったから、特に彼と二代団長エリリスの反目は剣士団にとって致命的といえた。意思統一を不可能と見たのか、シャモレイオはあろうことか自派を率いて太子に加勢してしまった。彼は自ら剣士団内部での地位を放棄したのである。
シャモレイオを失った団長エリリスは強権を行使して意思統一を図ったが、逆に反撃を受けて失脚した。団長の座を奪い取ったのは原則不干渉を説いたカルカラではなく、剣翁ロセの養女ルーンだった。ルーンを推戴することになったクーン剣士団は最終的に太子の側に付いた。そして太子陣営の勝利で内乱は収束した。
剣士団内部でのルーンの人気は凄まじく、シャモレイオの帰還を待たずに彼女は三代目団長として就任した。剣翁ロセは頑なに養女の団長就任を拒んだが、ついには折れたという。
「なるほど、傀儡だな。黒幕は――そのカルカラとかいう男か」
ヴィユーニはあっさり断定した。商人は頷きこそしないものの、否定もしない。
「だが、それでルーンが最強というのはおかしい。逸話があるのだろう?」
「内乱の折りに、ルーン自ら率いる一隊が二千兵もの賊に襲われたことがあった。剣士団の規模は飽くまで自衛団の域を出ない。彼女が率いた兵の数は五十と言われている」
「それに生き残ったと?」
稀に聞く話だ――と、ヴィユーニはたかをくくった。五十対二千となれば絶望的な兵力差だが、地勢や運気を味方に付けて戦況を覆した例は枚挙に暇がない。
「そう、生き残った。ルーンただ一人がな……」
「健闘するも、結局は部下を見捨てておめおめと逃げ帰ったのか?」
「そうではない。文字通りの意味だ。敵味方合わせてルーン一人が生き残ったのだ」
杯に口をつけていたヴィユーニの動きが止まった。彼は口に含んだ酒を噛むように口内で転がしながら、商人の言葉を脳内で反芻していた。やがて、得心したように酒を飲みこんだ。
「全て斬ったのか?」
「そう云われている」
商人でさえも恐らく信じられないのだろう。ヴィユーニとてそうだ。如何に健闘したところで、五十兵が二千兵を全滅させるのは不可能としか思えない。しかも、味方の生存者がただ一人であることから、敵を罠に嵌めて一方的に殺戮したのではないのは明らかだ。白兵戦の末にルーンただ一人が生き残ったということだろう。
「どのような剣士だ、そのルーンとかいう女は?」
「わからぬ。誰も――剣士団の者ですら彼女の剣筋を知らぬ。ルーンと剣を合わせたものは皆、死んでいる」
駄目押しと言わんばかりに、商人はもう一つ、ルーンについてまわる逸話を語った。
ルーンの団長就任は、彼女が剣の神とまで讃えられる剣翁ロセの養女であることを考慮しても、それが女であるというだけで一部の剣士達には不満であった。特にシャモレイオの帰還を熱烈に望む一派が、団長暗殺の暴挙に出たことがあるらしい。
その際にルーンはたった一人で二十人の刺客を斬り殺したという。賊の内二人は逃げたが、次の日の朝には王都を流れる川に死体となって浮かんだ。
ルーンにはこういった逸話が指折り数えるには足らぬほどあり、ついには「ルーンの剣を見た者は、彼女から逃げおおせることができても、その剣気に呪い殺されるだろう」とまで云われるようになった。その末についたあだ名が――
――凶剣のルーン。
である。
「多くのクーン人がルーンのことをそう呼ぶ。彼らは神の尾を踏むことを最も恐れる」
「だが、傀儡だろうなぁ」
説明のつかないことは多いが、商人から聞く限りではクーン剣士団には政争の臭いが強い。英雄である剣翁ロセの娘など、政治の道具にするにはうってつけだろう。ならば人間離れした逸話にも頷ける。誰もルーンの剣技を知らないのはそういうことに違いない。
「たとえそうであっても、剣士団に喧嘩を売るのは得策ではない」
ああ、そういえばそんな話をしていたなぁ――と、ヴィユーニはこの話が商人の忠告から始まったことを思い出した。
「塩原の神に尾っぽはないぞ」
元来が騎竜文明であるクーン人は何でも竜に例えるが、ヴィユーニにはそれが少しおかしかった。商人はもはや無駄だと悟ったのか、あるいは先程は賢明に喧嘩を回避したヴィユーニにはそもそも忠告など不要であったとでも思い直したのか、苦笑で返した。
ふと、分厚い外気が店の中に流れ込んだ。
(嫌な風だ……)
重い。夏の日には似つかわしくない冷気である。高原地帯にあるボリアではそれほど珍しくもないことだが、ヴィユーニはこの風が言い知れぬ凶兆を含んでいるように感じた。
徐々に近づく足音――急いている。旋律は危急を告げるそれだ。
先程道端で出くわした少年の姿が思い浮かぶ。姉に旅の話をしてくれとせがんだ彼自身、誰よりもヴィユーニと話すことを楽しみにしていた。その者が凶気ともいえる足取りで店に駆け込む理由は、ヴィユーニには思い当たらない。
「ヴィン!」
店の扉が勢いよく開いた時、ヴィユーニは何かを確かめるように剣の柄に触れた。