第六章 臆病者のロマヌゥシア(8)
(可哀想なことをしたか……)
シャモレイオが手配した宿に足を向けながら、ヴィユーニは考えていた。
ロマヌゥとの技量差は隔絶している。その遥か格下の手を斬り落とすことはなかったのではないか――などと思っていたヴィユーニの前に、ロマヌゥは三度現れた。
息も絶え絶えに、ロマヌゥはヴィユーニの前に立っていた。その異様は、ロマヌゥの向こうにボリアの可愛らしい少年を見ていた剣士の目を一瞬で醒ました。
「……臆病者め!」
二人の実力を知る者ならば、何の冗談かと耳を疑うだろう。塩原の死神に三度剣を向けるなどと、一体誰に出来るだろうか。しかし、だからこそ、ヴィユーニの言葉はロマヌゥという男の最奥を貫いていた。
「その通りだ、ヴィユーニ。臆病が祟って、お前の前に立つ他なくなった愚か者だ」
「死ぬ気か、ロマヌゥ?」
答えない。斬り落とされた右手に剣を括り付けた姿からは狂気以外の何も感じられない。
「なるほど、死兵であったか」
恐らく止血が十分でないのだろう。ロマヌゥの右手首から血が噴き出す様を見ながら、ヴィユーニは先とは違う懐かしさを感じた。
これが最後になる――それはロマヌゥにとっても同じであり、だからこそ全力で挑みかかった。
少年が繰り出す攻撃の尽くは、形になる前にヴィユーニに潰される。突きを放てばヴィユーニは短刀を抜き、その切っ先をロマヌゥの剣先に合わせてぴたりと止める。このような神業を目の当たりにしながら、ロマヌゥは頭の中で全く別のことを考えていた。
今の自分は何故、ヴィユーニに挑んでいるのだろうか。
――お前が南人ではなくロマヌゥシアであるということを、誰かがきっとわかってくれるわ。
亡き母の言葉を思い出す。ロマヌゥシアという男は、結局王都の何処にも存在しなかった。ロマヌゥの人生でただ一つの例外がトローンであった。だが、それもミトラが笑いながらかすめ盗っていった。
少年には何も残らなかった。彼は自分以外の誰かに、その名を刻むことに失敗したのだ。
だが今、目の前にいる男はどうだろう。自分と似通った血筋のこの男は、クーンに生まれたロマヌゥとは全く違う。塩と水以外何も無いという塩原をまたにかけ、傭兵業をして食い扶持を得るという生き様は、ロマヌゥにとって羨望に値した。
ロマヌゥはヴィユーニの魅力に抗えない自分を感じた。この男なら、ロマヌゥシアという一個の人間を余すことなく受け止められるだろう。それで砕け散っても後悔はない――とさえ思った。
剣を振るう度に、斬り落とされた右手の先から血の塊が噴出し、ヴィユーニの服を汚した。最初こそ痛みに顔が歪み、涙が止まらなかったが、それもすぐに止んだ。
剣を大上段に構えた。元よりロマヌゥにはこれしかない。この時、ヴィユーニは初めて構えを見せた。剣を下手に持ち、斬り上げる姿勢である。
「おおおっ――!」
咆哮と共にロマヌゥは飛び出し、ヴィユーニに向かって剣を斬り下ろした。
細い薪を割ったような軽い音――ロマヌゥの剣は砕剣によってへし折られ、宙を舞った。
瞬間、ロマヌゥは更に踏込み、ヴィユーニに向かって突進する。
ヴィユーニはロマヌゥが残った左手で短剣を抜き、自分に突き出してくるのをわかっていた。故に手にした剣の腹でロマヌゥの左手を叩いたのだ。
もはや止まらぬロマヌゥは気絶させるしかない――そう考えていたことが、ヴィユーニが犯した最大の過ちであった。
激痛が鎖骨のあたりに走るのと、ロマヌゥの口に咥えられた刃を見るのはほぼ同時だった。少年は、へし折られ、宙に投げ出された剣先に噛みつき、武器とした。
(まるでルーンのような――)
そう思った時には既に、ヴィユーニの体は動いていた。ルーンの驚嘆すべき体さばきを思い出したためか、ヴィユーニの感覚もその時と同じように四肢を動かした。
少年は体を預けるようにして前のめりに倒れ込んだ。
「ロマヌゥよ。何故剣に毒を塗らなかった?」
命を投げ出して攻勢に転じたロマヌゥの刃は、その危うさ故に自らにも牙を剥いた。ヴィユーニはロマヌゥに密着することで彼の攻撃が形になる前に潰そうとした。ロマヌゥが口に咥えた刃を除けば、それは成就した。だが、敵に弾かれた剣が己に跳ね返ることもある。ロマヌゥは右手に残された折れた剣でもヴィユーニの命を狙ったが、ヴィユーニが咄嗟に左手で払った際に刃は少年自身へと向きを変え、喉笛に突き刺さった。
ロマヌゥはヴィユーニの問いには答えなかった。彼に意識があれば、何と返しただろう。
もはや一片の活力も残っていない少年の肉体は、塩原の死神にもたれかかりながら、ずるずると地面に吸い寄せられるように倒れた。
ヴィユーニはもはや死体に声をかけることはなかった。遠目からこちらを見る竜に乗った二騎に気づくと、そちらへと歩を向けた。
鞍上の二人はヴィユーニではなく、斃れたままの少年を凍りついたように凝視していた。
すれ違い間際、鞍上の一人――カルカラが剣の柄に触れようとした腕を、テーベがつかんだ。
「放せ、テーベ! 貴様それでも男か!」
剣士団では知恵者で通るカルカラが激昂している。
「やめよ、カルカラ。お前は直情的なのが玉に瑕だ。あれはお前の息子ではないし、あの男もナバラ兵ではない」
一瞬で我に返るのがカルカラという男である。彼は己が未熟を恥じるように歯噛みした。
「……我々だけでは勝てぬ」
ひとまずカルカラを抑えたテーベは胸をなでおろしたが、ふと、彼の言葉に違和感を覚え、巨漢の顔を覗きこんだ。
カルカラは無言で頷くと、ロマヌゥの方へと竜首を向けた。
(もはや、止まらぬか……)
誰にも聞こえぬほど小さな嘆息は、竜が地面を踏みしだいて走る音に掻き消えた。




