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塩の剣  作者: 風雷
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第六章 臆病者のロマヌゥシア(6)

 ロマヌゥは渾身の力をこめて、ミトラに向かって剣を斬り下ろした。この際、真剣を手にしているなどという意識は彼にはない。ミトラが死ねばいい。いや、死ねとさえ思った。

 だが、ロマヌゥは己の不運を忘れていた。今自分が相手にしているのはただの剣士ではない。「剣翁の孫達(タータ・ロセ)」に次ぐとすら言われるカエーナ隊の副隊長である。

 ロマヌゥの顔が一瞬で驚愕の色に染まる。

 ミトラは、それこそ当てつけとでも言わんばかりに、先ほどのロマヌゥと全く同じ動きで後方に跳んだ。そしてロマヌゥの斬り下ろしを紙一重でやり過ごすと、一撃で剣を叩き落とし、丸腰となったロマヌゥの腹を蹴り飛ばした。


「もしかして今の、本気だったのか?」


 敗北。そこにはただ結果だけがあった。


「あうっ!」


 地面に倒れたロマヌゥの右手を、大きな軍靴が踏んだ。


「お前にしてはよくやった方だがな、ロマヌゥ。不意打ちをしておいてこのざまは無いぞ」


 ミトラは狙いを定めるように、剣先をロマヌゥの手首に合わせた。


「これから右手の腱を切る。嫌なら泣き叫んで非礼を詫びよ。許してやらんでもないぞ」


 ロマヌゥが剣先に唾を吐いた時、ミトラは眉間に血管を浮かせたまま、剣を突き下ろした。

 と、その時――


「やめよ!」


 天の声――とロマヌゥは思ったのだろうか。ミトラが声のした方でなく、この時のロマヌゥの顔を見ていれば、残った左手で腰の短剣を抜こうとしていたロマヌゥに気づいただろう。だが、ロマヌゥ以外のこの場の全ての者が乱入者の方を見ていた。三代団長ルーンの方を――


「これは、団長……」


 ミトラが焦ったように剣を納めると、サシャに肩を借りたルーンと、彼女と連れ立って歩いていたカルカラがこちらに向かってきた。


「一体何の騒ぎだ、ミトラ?」


 と、カルカラ。


「いえ、ただの試合です」

「試合で相手の腱を切るのか?」

「まさか、勝負をけがした者に説教をしていたところです」

「穢した?」


 ミトラはカルカラばかりではなく、ルーンにも聞こえるように、わざと大きな声でトローンとの婚約にケチをつけられたことを説明した。


「この者が私の婚約を不服として勝負を挑んで来たのです。私としては愛する人を奪われるわけにもいかず、かといって後腐れはないように勝負を受けて立ちました。ですが、卑怯にもこの者は不意打ちを行いました。恋敵としてより、隊長として、勝負を愚弄することは看過できず、何か罰を与えようかと思っていたところです」


 その間、ロマヌゥは何も言わなかった。


「おい、お前。ミトラの言っていることに偽りはあるか?」


 カルカラの問いは、ロマヌゥの立場にしてみれば実に不利であった。何しろ、ミトラは何一つ嘘を言わずにロマヌゥを悪役に仕立て上げていたからだ。


「ありません」


 この時のミトラは無表情だったが、辛うじてそれを保っているに過ぎなかっただろう。


「ならば、お前はこの上なくクーン剣士団の名誉を穢したことになる。よって破門とする」


 まるで裁判である。だが、カルカラのこの決定に、カエーナ隊の面々は――半分は拍手で迎え、もう半分は不服そうな声を上げた。後者にはロマヌゥから金をせしめて酒場に通っていた後輩たちが含まれていた。

 カルカラの決定によって、ロマヌゥは破門され、一件落着のはずであった。だが、一つの言葉が沈黙とざわめきを呼んだ。


「団長でもない。僕の名前を知りもしない。ただ強い者におもねるだけの男の一体何処にそんな権限があるのか? カエーナでもルーンでも無いあなたの一体何処に!」

「小僧、貴様!」


 ロマヌゥの叫びにさすがのカルカラも叱声を落とそうとしたところ、傍らのルーンが制した。ルーンはおぼつかない足取りでロマヌゥの傍に歩み寄ると、少年に手を差し出して言った。


「何も破門にすることはあるまい。腱を切るなどもっての他だ。きっと愛する人のためにがむしゃらになってしまったのだろう。さあ、立てるか?」


 ロマヌゥはルーンの顔を仰ぎ見た。恐らくヴィユーニとの戦いでついた生傷がいくつも見えた。


(ああ、この人は――)


 何故だろう。悲しい。ルーンという女そのものが、既に悲しい。


(トローン……)


 何故、その少女の姿が思い浮かんだのか、ロマヌゥにはわからなかった。だが、ルーンの目を見ていると、ただひたすらにトローンのことが思い浮かぶ。

 ロマヌゥはルーンの手は取らず、独りで起き上がる。


「いえ、それには及びません。今日は元より剣士団を辞めるつもりで来たのです。団長に直接、印をお返しできれば、それに優るものはありません」


 跪き、左腕につけた青布を解き、ルーンに向けて差し出した。


「先程のは見事な技だった。辞めさせるには惜しい」


 思わぬ褒詞に、ロマヌゥは溢れ出そうになる涙を懸命に堪えた。


「もう、お見せする機会はないでしょう」

「そうか……」


 ルーンが青布を受け取った時、ロマヌゥはクーン剣士団の剣士ではなくなった。




 トローンは泣いていた。声には出さず、ひたすらすすり泣いた。部屋の片隅で膝を抱き、自分が何故泣いているのかわからなくなるほどに、泣いた。

 少女は知らなかった。クーン剣士団の二代団長でもあった少女の父親は、店先に土で服を汚した少年が現れたことを、少女に告げなかった。


「末永くお幸せに――」


 少年がそう、少女に言伝ことづてたことを、少女は知らなかった。知っても、恐らく涙は止まらなかっただろう。少年のまとう空気の異様さを訝った父エリリスが、少年に向かって「何処へ行くのか?」と問うた時、少年が何と答えたのか、少女は知らなかった。

 涙も枯れ果て、ふらりと店先に顔を出した時、使用人の一人が少女に耳打ちしなければ、少女は部屋の隅で石のように冷たく死んでいたのかもしれない。

 トローンは靴を履くのも忘れたまま、走った。


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