第六章 臆病者のロマヌゥシア(2)
王都の北部は比較的裕福な層が住居を構えている。平民出身で豪商でもないルーンがここで小奇麗な家を構えて暮らしていられるのは、ひとえに養父ロセの七光りというべきであろう。
剣翁ロセの病が篤い。
ルーンは、自分の身に起こった悲劇が養父の耳に入らないよう、屋敷の者に厳命した。昨晩から意識が朦朧としており、医者が何も言わずとも養父の死期が近いことを誰もが感じ取った。
寝台で半身を起こしながら、ルーンは窓の外を見ていた。
ヴィユーニはクーンの空をボリアより狭いと評した。確かに窓から眺める空は狭く、ルーンは不思議な感覚に支配されそうになる。
「はぁ、負けたか」
ココとカエーナは|剣士団でも屈指の実力者である。ヴィユーニはその二人を無傷で仕留めた豪傑であるから、二人より確実に技量の劣る自分が敵うはずもないが、これまでも絶望的な状況において、ルーンは常に勝ち続けて来たのだ。だがヴィユーニという死神の名を持つ怪物は、一滴の血も流すことなく凶剣のルーンを倒して見せた。
(悔しいか?)
不思議と、それは感じない。いや、何故そう思うのか、自分でもわかっているはずだ。
あの時、躊躇ってしまった。ヴィユーニが死ねば全てが丸く収まる。だが、ルーンの矜持――いや、生き様がそれを許さなかった。刹那の気の迷い。それが極限の戦いにおける趨勢を決した。それは仕方のないことだ――とも思った。自らの技量では、殺す以外の方法で勝負を終えることができないのだから。
瞼が重くなる。三角巾で吊るした右腕がきしみ、内臓が裏返ったように痛いが、それを圧殺するかのように甘い眠気が全身を包み始めた。
不意にヴィユーニが一度も触れていない傷が痛むと、ルーンの中でやり場のない怒りが込み上げ、眠気を吹き飛ばす。
(いくら殺しても飽き足りない輩がいる)
ココがボリアで横死したという報を受け取った時、ルーンはカルカラではなく前団長のエリリスに正確な調査を依頼した。何分、クーン剣士団の体面に関わる問題である。剣士団内部で調査すれば自分に情報が届く前に粉飾される恐れがあった。結果、ココが働いた無法の全てが明らかになった。ココは確かにクーン剣士団の重鎮ではあったが、ルーンが彼の死に対して抱いた感情は嫌悪一色だった。殺されても仕方がないと思い、あるいはヴィユーニがココを斬ったことに感謝すらした。
ルーンはクーン剣士団の権威を笠に着て悪事を働く者が最も許せない。だが、剣士団の面々は違う。彼らはクーン剣士団の権威に挑む者を最も憎む。彼らの怒りは正義を行ったはずのヴィユーニに向かった。
今のルーンの怒りは自分を穢した男どもに向いている。そしてそれと同程度の嫌悪と、どうしようもない諦念が、自分の属するクーン剣士団にも向けられているのだ。
「団長、辞めるかぁ」
などと、妄言を吐きたくもなる。どう考えても自分よりカルカラの方が遥かに団長職に向いている。だがカルカラが立てば、彼と対立はしていても共存を望んでいるように見えるテーベはともかく、アヴィスや他の団員達がそれを許さないだろう。あるいは権力闘争に一切無関心を貫いているように見えるカエーナも牙を剥くかも知れない。そうなれば剣士団は確実に瓦解する。
「辞めてしまえばいいのです」
急に声をかけられたルーンの肩が震えた。気づけば扉の前に金色の髪が揺らめいていた。
「何だ。サシャ、どこに行ってたの?」
ルーンにそう問われるや否や、サシャは卓上の茶器を端に寄せて大きな包みをどっかと置いた。
「それは?」
問うた矢先にルーンの表情が一変した。包みの端が微かに赤く濡れている。部屋の中に血の臭いが充満し始めたことから、中にあるものの想像は容易かった。
(誰か、早まったか……)
凶兆を感じる主人こそ早まっているとでも言わんばかりに、サシャは包みを広げて見せた。
ルーンが剣士団団長などという肩書を持たない一介の女子であったのなら、ここで悲鳴をあげるところだっただろう。包みの中から出てきたのは、二つの生首だった。二つとも黒髪の男だが、一つは肌の色からナバラ系に見える。
「憶えておられますか?」
と、サシャ。
「ええ、確かにこの二人で違いない」
ルーンは壁に掛けてあった杖を手に取ると、脇腹の痛みを気にするように立ち上がり、二つの生首に近づき、触れた。触れた――どころではない。細く白い指先が、少し前までヴェムという名だった男の髪をわしづかみにし、持ち上げたのだ。黒くねっとりと変色した血が、少女の指先についた。
「本来ならば私の首をこうして差し上げるところでした」
サシャはルーンの前で跪いた。
「きゃはっ」
唐突に、ルーンがきゃっきゃっと笑い出した。女は踊るような仕草で一つの生首を卓上に落とし、もう一つの髪をつかんで掲げて見せた。
「死体は?」
「胴体は川に捨てました」
「そう。なるべく苦しむようにしてあげた?」
「一人はすぐに息絶えてしまいましたが、ナバラ系の男は可能な限り責めてから始末しました」
「ああ、よくやったわ、サシャ。首は臭うから庭にでも飾っておいて。ああ、そうだ。庭でお茶会にしましょう。とっておきの柑橘茶を淹れて頂戴! 勿論、お菓子も――」
父親の危篤をすっかり忘れ去ったルーンが童女のようにはしゃぎ回る度に、固まりかけた血がぼとりと床に落ちた。




