第一章 異国の神(2)
「危うい旅だったとか……」
ヴィユーニの前に酒瓶を置きながら、イーリが言う。
笑顔の眩しい娘だ。このような薄暗い酒場で花を飾るにはいかにも惜しい。だが、ヴィユーニはだからこそ花は愛おしいのだとでも言わんばかりに、優しげに微笑み返す。
「何、久々に命知らずどもと出くわしただけだ」
数日前にヴィユーニの護衛するキャラバンが盗賊団に襲われたという情報がボリアで飛び交っていた。イーリはその中で英雄に恋をする少女のようにヴィユーニの無事を案じていたのだろうか。
否、塩原の神の名を冠する男は、少女の小さな胸を締め付けるには、あまりにも多くの伝説を背負っていた。イーリはまた新たな武勇伝をヴィユーニから聞けると思い、胸を躍らせていたのだ。
――この街の女達は皆、ヴィユーニに恋をしている。娼婦でさえもそうだ。
ボリアを訪れた異国の詩人が、酒場でこう漏らしたこともある。とはいえヴィユーニが恋多き男というわけでもない。むしろ逆だからこそ、乙女たちは彼に恋をするのだ。
イーリもまた、そのような乙女の一人だろう。だが彼女は他の女たちと同じように、人と神とが添い遂げられない定めにあることを知っている。
こういった思いが、少女の瞳を淡く潤していた。それはこの世の何よりも艶やかな宝石であった。ヴィユーニは神話に登場する神のように、乙女の望みの微かな部分に触れた。
限りなく血生臭いヴィユーニの話を聴きながら、イーリの顔は幸福で満たされていた。
「さっきのドラクワ人、命拾いをしたものね。ヴィンもどうせならぶちのめしてくれたらよかったのに!」
イーリが胸をそらして言うと、奥で博打を打っていた男たちが囃し立てた。
「酔っ払いを斬るような趣味はない」
ヴィユーニが首を振ると、イーリは白い歯を見せた。
「……斬らなくてよかった。剣を抜けばお前さんが死んでいたよ」
突然、奥の席から声が飛んできた。奥を見やると、博打打ちの向こうで独り酒を呷る商人が空の酒瓶で軽く卓上を叩いた。ヴィユーニが軽んじられたと思ったのか、イーリは不満そうに彼に酒を足しに行った。
店の中が暗いためか、ヴィユーニは目を凝らしてその男を見た。
「ドラクワの商人か?」
クーン人は衣服からしてボリア人と違うから一目でそれとわかる。騎竜民族である彼らは南方の民族と違って胡服を穿いており――といってもこれに関しては北方文明の影響なのか、ボリア人もそうなのだが――他には深い赤色の服を好むためか、商人の姿は薄暗い店の中でも浮いている。ボリア人の好む色は白と黒である。普段の彼らは太陽の色である白い衣服を着、塩原を越える商人や戦士は黒衣で身を包む。
「そうだ。血筋はこっち寄りだがね」
声からして、商人はヴィユーニの目測より少し老いているようだ。あと何年かすれば塩原を越えるのが難しくなる程度の歳だろう。
「ドラクワと呼ばれて怒らないドラクワ人がいたとは知らなかったよ」
ヴィユーニではなく、博打打ちの言を聞いた商人は苦笑しつつ答えた。
「そんなのにいちいち目くじらを立てては商売にならん。金になるなら我慢もするさ」
「ココと言ったか。あの男はそんなに強いのか?」
すかさず、ヴィユーニ。
「強いさ。タータ・ロセだからな」
「タータ・ロセ? 何だ、それは?」
交易都市ボリアに生きるヴィユーニは、他のボリア人と同様にいくつかの言語に堪能である。人によっては七言語に通じている者もいるが、ヴィユーニは大陸で最も普及している南方のナバラ語、東海岸のペイルローン語、北方のクーン語を理解している。
「ター」とはクーン人の言葉で「孫」という意味だ。クーン人は複数形を反復で表現するから、「タータ」で「孫達」となる。だから「タータ・ロセ」というのは「ロセの孫達」と理解していいだろう。
「ココは剣翁の弟子だ。まさか剣翁ロセを知らないのか?」
「知らん」
ヴィユーニが放り投げるように言うと、クーンの商人は呆れたように溜め息をついた。それを聞いたイーリがくすりと笑った。
「おい、イーリ! 暇ならレーヴィを探してきてくれ! あいつ一体どこをほっつき歩いてるんだか……」
店主にそう言われたイーリは明らかに残念といった表情でヴィユーニに別れを告げた。
「レーヴィが来たら、さっきの話の続きね!」
そう言って、イーリは杖を片手に店の外に出て行った。間際に商人に向かって舌を出していたのは、ヴィユーニの笑いを誘った。
「まさか塩原の軍神が、ボリアから出たことがないということはあるまい」
と、商人。
「南へはよく行くがな。あいにくドラクワには行ったことがない。ドラクワの武人なら剣神ウラハールか。最近では二十人斬りのエルシャという名は聞いたことがある」
「ああ、エルシャか。そう言えば南方に武者修行に出ていたとか。確かにこちらではエルシャの名をよく聞く」
「会ったことはないがな」
「ふむ……。エルシャも腕は立つが、奴は一匹狼だ。クーン剣士団とは違う」
「どう違うのか?」
ヴィユーニは商人を侮辱するつもりなど全くなかったが、どうやらこのいい様は彼の癇に障ったようである。
「剣翁ロセは、今は病んで立てぬがクーンにおいては触れずに斬るとさえ云われる生ける伝説だ。千戦無敗の剣豪と言ってもいい。その剣翁の手ほどきを受けた連中を『剣翁の孫達』という。彼らは名門クーン剣士団の中でも選りすぐりの猛者達だ。ヴィユーニさん。お前さんもここでは神とまで崇められているがね。世界は広い。向こうにはそういった連中がごまんといる」
心なしか何かを誇っているように見える。
「ほう……」
ヴィユーニはさも興味あるような素振りで言ったが、どこか老人の戯言に耳を貸すような雰囲気がある。
――七本鞘のシャモレイオ。
――鉄槌のカエーナ。
――神弓のテーベ。
――冷厳なるアヴィス。
――暴君ココ。
――天槍のカルカラ。
言い終わった後、商人は杯の酒を飲み干してから続けた。
「これらが『剣翁の孫達』だ。クーン人は執念深い。お前さんがココを殺せたとしても、クーン剣士団全てを敵に回して生きていられる道理はない」
「……待て。今、カエーナと言ったか?」
ヴィユーニは話を続けようとする商人を遮るように声を上げた。
「思い出したぞ。確かにあの男もクーン剣士団と名乗っていたな」
「鉄槌のカエーナを知っているのか?」
「ああ……」
五年ほど前のことである。ヴィユーニはクーン商人の護衛をしていたが、キャラバンの中に彼らが雇った別の傭兵が混ざっていた。長身である自分が見上げるような巨漢であったから、ヴィユーニもよく憶えていた。
筋肉の塊ともいうべき雄大な体躯をしており、大剣というよりはまさに鉄槌と呼びたくなるような巨大で幅広な両手剣を背負っていた。ヴィユーニはついぞ彼の剣技を拝むことはなかったが、男の一挙手一投足が一流の剣士のそれであった。
「『剣翁の孫達』最強は誰か?」
ヴィユーニが商人に向けて発した問いは、単純明快である。
「シャモレイオ、カエーナ、アヴィスのいずれか」
商人の答えに、ヴィユーニは微妙な笑みを浮かべた。
「シャモレイオはしばらく前に剣を捨てたと聞く。だとするとカエーナかアヴィスだ。アヴィスは若い。この二人ならば恐らく知恵で勝るカエーナだろう」
さもあろう――などと、知らぬアヴィスやシャモレイオと比べてヴィユーニが頷いたということは、それほどカエーナという戦士を気に入っていた証拠でもある。
「だが、剣士団最強の座は彼らにはない」
今度はそう言った商人が理解しづらい笑みを浮かべる番だった。ヴィユーニは剣翁ロセが最強なのかと思ったが、彼は病で立てぬという。
「今の剣士団団長をルーンという。彼女は剣翁の養女だが、養父の手ほどきは受けていない」
「それが剣士団最強なのか? 女が最強?」
「そう云われている」
ヴィユーニには、商人の歯切れの悪さが理解できない。
「こういうことだ」