第一章 異国の神(1)
穏やかな塩原にも時折強い風が吹く。風は、様々なものを余所の土地から運んでくる。
ある日、その風が異国の神の名をヴィユーニに告げた。
塩原沿いの街ボリア。ヴィユーニの本拠地である。大陸の中継点ともいうべき場所で、異国から多くの者達が集う。人口は七千人をわずかに超える程度だが、旅人を含めると十倍近く膨れ上がる時もある。
所狭しと道端に商品を並べる露天商を避けるようにして道を歩いていたヴィユーニの袖を、一人の少年が引っ張る。
「ヴィン!」
振り向くと、真っ白な歯が陽光に煌めいた。ヴィユーニと同じく浅黒く焼けた肌に、彼とは違う黒々とした髪が頭に巻いた巾から漏れている。
「レーヴィか。店の手伝いはしなくて平気か?」
「平気だよ。ヴィンと話してたって言えば、じじいだって怒りゃしないさ!」
元気のよい声だ。よく通るためか、向かいの露天商が少年とは違う黄色い歯を見せて笑った。
「こりゃいいことを聞いた。ヴィユーニに幸運を分けてもらうと言えば、仕事を放っぽり出してもどやされないらしい」
「姉さんに旅の話を聴かせてあげてよ。勿論、僕にも!」
レーヴィの瞳に映る光が、ボリアにおけるヴィユーニの立場を物語っていた。
「仕事が終わったら酒場に来るといい」
ヴィユーニがレーヴィの頭をくしゃくしゃに撫でると、少年はなんとも言えない顔で雄大な男を見上げた。
レーヴィと別れたヴィユーニは一軒の酒場に入った。他が賑わって席にもつけない限りは一顧だにしないような、小さな店だ。
「いらっしゃい」
薄暗い店の奥から陰気な声が聞こえた。
ヴィユーニは店の中を見渡した。まだ日が高いせいか、奥の席で三人の男が博打に励んでいる他は静かなものだ。彼が目を凝らさなければ、その奥で一人酒をあおっている商人風の男にも気づかなかっただろう。
店主は注文をとろうともせず、まるで心得たように、向こうでテーブルを拭く少女に声をかけた。
「おい、イーリ」
幼さの抜けない顔立ちである。他のボリア人と同じく黒髪に褐色の肌をしているが、そのどちらもが太陽に愛されたかのように艶だっており、少女を妖艶にみせている。黒く大きい瞳は左右ともにわずかに違う方向を向いている。片手には細い杖を持ち、ほとんど効かぬ少女の眼を補っている。
イーリはヴィユーニに向かって軽く会釈すると、カウンターの一番奥の席に酒瓶を置いた。
ヴィユーニがそれに応えるように軽く咳払いしたのは、「そこまで畏まることはない」ということだろうか。奥で博打をしていた連中も彼に気づくと一様に会釈をする。
店内に入って三歩ほど歩いたところで、店の外がにわかに騒がしくなった。
「おい、そこの娘。酒をよこせ。喉が渇いた!」
男が大声でそう言うのと、男の肩がヴィユーニに当たるのはほぼ同時だった。
「おっと、気ぃつけなよ」
連れがヴィユーニを一睨みすると、先の男は「かまうな、かまうな」といった風に手を振った。四人連れである。全員が剣を帯びている上、空気が明らかに堅気ではない。問わずとも傭兵だとわかる。
ヴィユーニと接触した男は小柄ながらも彼らの頭目らしい。ここに来る前にも相当に飲んでいるらしく、足取りのおぼつかない彼を先導して、部下らしき男の一人がカウンター奥の席に誘導する。
「あっ、その席は――」
店主がちらりとヴィユーニを見やる。彼が心得たように頷いた時の、少女の安堵の表情はどうだろう。
「何だこれは! リリカではないか? クーンの酒は無いのか?」
席に着いた頭目らしき男が、指で酒瓶を小突きながら言った。
(ドラクワ人か……)
南国には美酒が多い。リリカと呼ばれる葡萄酒もそのひとつなのだが、それにケチをつけるのはヴィユーニが知る限りではドラクワ人くらいしかいない。なるほどよく見るとドラクワ人に特徴的な黒色の髪とわずかに黄色がかった肌をしている。
「あいにくドラクワ産の酒は切らしておりまして――」
店主がそう言った時、周囲の空気が殺気立った。
「ひっ――!」
イーリが小さく悲鳴を上げた。
一呼吸。いや、店主はその半ばで呼吸を忘れているから、半呼吸である。瞬きするかしないかという間に、カウンターの上に足を乗せた行儀の悪い姿勢のまま、頭目らしき男は抜剣し、その切っ先を店主に向けていた。
「おい、老いぼれ。ドラクワではない。クーンだ。次は首を刎ねる」
男の目が据わっている。彼に比べてあまり酒が入っていないように見える取り巻きも尋常な雰囲気ではない。
(なるほど、ドラクワ人だ)
ドラクワとは、ボリアより遥か北方の地に生きるクーン民族らを指す蔑称である。彼らはほんの数十年前まで山岳地帯で覇を唱えていた地方の一王国に過ぎなかったが、最近は南に伸張し、南方の海洋国家であるナバラ王国と激突した。
クーンではなくドラクワと彼らを呼ぶヴィユーニはどちらかと言えばナバラ系に属す。ボリアは両文明の境界ともいえる位置にあり、両者を行き来して財を成す商人が開拓した交易路のひとつでもある。ボリアそのものは政治的には長年クーン王国の影響下にあったが、文化や習俗は南のナバラ寄りである。だが偉大な文明を自負するクーン人から見ればボリアなどは大陸の大田舎に住む蛮族同然である。
さて、ヴィユーニは横暴な客を嫌って店を出ても良いのだが、彼はそうしない。
店主の視線が自分に釘付けになっているからだ。彼だけではない。他の客も次の動向をうかがうように――まるで何かに期待するように――ヴィユーニを見ている。
彼らの期待に応えるように、ヴィユーニは口を開いた。
「やめよ、旅の人。お前たちはこの街で水や食料を得ているのだろう? 旅の過酷さを知るなら、その者に剣を向けるのをやめよ。塩原は容易く人を殺す。この街はそのような険しい地にあるのだ。竜を駆り、竜と共に生きるお前たちは決して竜を蔑ろにはしないだろう? 塩原は人を蔑ろにする者を最初に殺すのだ。だから、やめておけ」
頭目らしき男は、店主に剣を向けたまま、首だけをヴィユーニに向けた。
「ほう……傭兵か」
男はヴィユーニを見たまま杯に酒を注いだ。視線がヴィユーニの腰元に堕ちた時、男の目が光った。ヴィユーニが腰に帯びた剣は普通の剣士が持つ物よりやや大きい。
「なるほど、お前がヴィユーニか」
男と目が合った。酔いから醒めたのだろうか。茶色い瞳から発せられる光はひたすらに正気である。だがヴィユーニは、男の正気の中にわずかな狂気を感じた。
「そうだ」
「俺はクーン剣士団のココだ。もっとも、お前のような田舎者は知らんだろうが」
「クーン剣士団……?」
何かを思い出そうとしたヴィユーニの視線が微かに上向いた瞬間、ココと名乗った剣士は飛び出していた。
ぴくりとも動かない。いや、動けないのだろうか。瞬きすら許されぬ須臾の間に、鋭い剣がヴィユーニの頸動脈に突きつけられていた。そしてココは余裕を含んだ声で言った。
「間抜け奴! 人を殺める生業の者が、人を殺すなとほざくか?」
「お前たちは家の中で竜に乗ったりはしないだろう?」
ヴィユーニの表情に変化はない。ココはそれが面白かったらしく、ぷっと吹き出し、笑った。
「乗るのだ。これが――」
取り巻きの男たちがにやにやと笑みを浮かべている。ココの言っていることが本当なのかどうかは、ヴィユーニにはわからない。男たちが笑っているのはもっと別のことだ。ココの剣技に圧倒されて身動きできぬヴィユーニを笑っているのだ。
「クーンにもお前のような口だけの傭兵が沢山いたが、命乞いをしないのだけは褒めてやる。だが、その程度の腕で戦場に出るのは命知らずとしか言いようがない。ヴィユーニが塩原に愛されているというのは、あるいは本当かも知れん。この田舎者は生まれてこのかたずっと幸運の中にあったのだ」
部下たちが大いに笑うと、ココはヴィユーニに剣を突きつけたまま、左手で持った杯に口をつけた。あれほどに俊敏な動きを見せたというのに、床には一滴の酒も落ちておらず、自らの力量を自負するだけのことはあるだろう。
ココは飲み干した杯を床に放ると、緩慢な仕草で剣をしまった。
「あっ!」
杯が割れる音に驚いたのか、それとも商売道具を壊されたのが不満だったのか、先ほどから押し黙って事態を見守っていたイーリが声を上げた。
ココはイーリの方に目を向けると、品を値踏みする商人のように凝視した。
「ここの酒は少し鹹い。女も鹹いのだろうか?」
言いながらヴィユーニの肩をぽんと叩くと、もうこの酒場には用が無いとでも言うように足を店の外に向けた。
哄笑とともにクーン人達は去った。