第四章 狂剣乱舞(5)
荘厳な景観で王都の人々から愛される伏竜殿の本領は秋にある。夏の終わりが近づいたこの季節に訪れる人はあまりおらず、生い茂る草の合間に焼け落ちた豪邸の石造りのみが顔を出している。この時期、景色を楽しむなら王都近くの名山を登った方が遥かに有意義である。
クーン剣士団団長ルーンは、季節を問わず、度々この丘に訪れる。王都の人々は彼女に特別な敬意を払っており、しばしば伏竜殿を独占することを許している。
ルーンが供も連れずに石造りの上に独り座って茶菓子を楽しんでいるのは、警戒心に欠けると非難されても仕方がないだろう。事実、彼女は団長職の激務を嫌ってよく剣士団を抜け出しては丘に登る。この日も例外ではない。
規律に煩いカルカラなどは目くじらを立てて怒るのだが、齢十八の女は一応の大人であっても、組織の頂点に立つにはまだまだ幼い。ルーンは書類に判を押すだけの単調な作業や、優秀な補佐であっても常に自分に対して支配的なカルカラに辟易すると、心の平静のために逃走を試みるのだ。エリリスがこれを行えば剣士達は激昂しただろうが、この点で剣士達の三代団長ルーンに対する愛情は、英雄ではあっても平時は放蕩の限りを尽くした初代団長ラァムに対するそれと似通ったものがあった。
(いい風だ……)
体の汗を拭い去るような、心地よい風である。舞いあがった草の香りがまだ夏が健在であることを仄かに主張している。
ルーンはここから王都を見下ろすのが好きだ。特に夕暮れの景色は最高で、真っ赤に染まった王都を見ると意味もなく涙が溢れてくる。
ルーンは味の薄い菓子を柑橘茶に付けて食べながら優雅なひと時を過ごしていたが、心地よい風に鉄と錆の臭いが混ざるのを感じた時、小さな驚きと共にその方を見やった。
長身の男がそこに立っていた。一目でわかる旅装に、腰にはクーンでは見慣れぬ長剣を差している。
女が最初警戒したのは当然だろう。周囲に人の気配は無く、自分の立場を考えれば男が刺客である可能性に重きを置かない方がおかしい。だが、彼は驚くほど無防備に、ルーンに向かって近づいて来た。足取りには距離を測るような仕草は見えず、かといって眼光には一切の殺気がこめられていない。これで暗殺者であるとすれば、人外と評してよいほどの手練れである。
「ボリアにあったのは塩と水だけだった。あそこには空を映す白さ以外に何もない。この都の空はボリアほどには広くないが、代わりに全ての色がある」
王都の方を見やったまま、唐突に男がそう言い出したので、ルーンは一瞬あっけに取られてしまった。そしてすぐに笑いが込み上げてきた。
ルーンは足元の鞄から杯を一つ出すと、水筒から柑橘茶を注いで石造りの上に置いた。
「クーンの茶だ。よかったらどうだ?」
男は何を思ったのか、ルーンの顔を見つめていた。ルーンもまた男の顔を見たが、戸惑っているようには見えなかった。
(美しい娘だ)
男の感想は、ルーンと出会った者が必ず抱く類のものであった。男にとって確かにルーンの美貌はクーン女の好さをうるさいくらいに主張していた。だが、それ以上に、男はルーンのまとう空気が静かに沈んでいることを好んだ。
男は杯を手に取ると、ルーンと一人分の席を空けるようにして、石造りの上に座った。
「話によれば、カエーナと決闘をしたとか?」
ルーンがそう言ったということは、彼女が男の事を塩原の死神――ヴィユーニであると気付いたということだろう。知っていてこの女は傭兵の神とすら言われる男に茶を勧めたのだ。
「俺も最初はそのつもりだったのだが、あれは決闘ではなく、ただの喧嘩なのだそうだ」
ヴィユーニはルーンから手渡された菓子を口に放り込んだ。餅のような触感と共に微かな甘みが口の中に広がった。
「喧嘩なら仕方がない――とはいかない。謹慎くらいは言いつけないと下に示しがつかないな」
とても剣士団の最高責任者であるとは思えないような微笑である。
「あれが自宅で縮こまって反省するタマか?」
カエーナは重傷を負ったはずだから、今頃は病床で呻いている頃だろう。
ヴィユーニはルーンの笑いを誘ったつもりだったが、女はすっくと立ち上がると、ヴィユーニの前に向き直り、膝をついた。
「私の部下がボリアで無礼を働いたこと、心からお詫び申し上げる」
「俺に謝る必要はないが、ココ達によって一人が犯され、一人が斬られた。その償いはしろ」
もしこの場に剣士団の者達がいれば、ルーンのこの謝罪は過度のものであるとして激昂するだろう。剣士団についてそれなりの情報を得たヴィユーニには容易に予想できる。
「勿論」
「それなら特に言うことはない。俺も何人か斬った。おあいこだ」
ルーンは不思議そうにヴィユーニの顔を見た。
「では、何故王都へ?」
「傭兵でも観光くらいはするだろう」
まるで予想外の答えを返されたように、ルーンは首を傾げながら石造りに座りなおし、菓子を口に頬張った。実際、ヴィユーニも自分が何故王都までやってきたのかよくわからないのである。
以前、ロローイに言われたことを思い出した。
「ルーンとは良い響きの名だ。よくわからんが、俺はそれに呼び寄せられたらしい」
自分でも意味不明なことを言ったと思ったヴィユーニがルーンの顔を見ると、案の定理解できないようだった。
「えっ……と、ルーンという名は、実はあまりいい意味ではないのだが――」
「神の名なのに?」
「ヴィユーニがどういう意味かは知らないが、神竜は創造と破壊の神。クーンでは天災のあった年に生まれた子に聖なる名を与えることがある。私が生まれた年は大雨が続いて大凶作だったとか。同い年の知り合いにも同じ名前が三人はいる。私と違って皆男だが――」
ルーンが凶兆を含む名だと知って、ヴィユーニは最初驚いたが、思えば自分の名もまた塩原の死神であり、大した違いはないだろう。
「そうか」
相槌を打ったものの、ヴィユーニはルーンが自分を招いた理由がいまいち理解できなかった。もうしばしの間、雑談を楽しもうと思ったのは彼の遊び心である。
「しかし、まさかあのカエーナが負けるとは――」
「そのカエーナの上に立つ三代団長は、七本鞘と謳われるに足る剣士か?」
「考えたこともない」
ルーンは質問の内容そのものに驚いたようだった。考えてみれば、先代の団長エリリスは剣の心得の無い商人上がりの男である。いくら剣士団を名乗ってはいても、組織の長たる者が最強である必要など全くないだろう。
「一体誰がそんなことを言ったのだ?」
ヴィユーニが知るルーンの力量を示す情報は、二年前の内乱時にルーンが五十の兵を率いて二千もの敵兵を屠ったというものである。それを聞いたルーンは大いに溜め息をついた。
「味方の数には間違いはないが、敵の数は一万と言う輩もいる。あるいは百とか、千とか、人によってばらばらだ」
虚報であるということをルーンは言いたいのかとヴィユーニは思ったが、どうやら違う。
「何故、そんなにも敵の数がばらつく?」
武勇伝が水増しされるのはルーンに限ったことでは無いだろうが、敵の数に百倍もの開きがあるのは大袈裟に過ぎる。
「それは仕方がない。誰も知らないのだから」
ルーンは奇妙なことを言った。
二年前、エリリスを追放してクーン剣士団を掌握したルーンは、彼女自身剣士達を率いて内戦に参加した。事件の日、別行動を取っていたテーベやカルカラと合流するために、ルーンは王都から出て南西の街に赴いていた。
「二年前にクーンで日食が起こったのを知っているか?」
「まさか凶事に怯えた敵を討ったというわけではないだろうな?」
「クーンでそんな古臭い占いを信じる輩は希少だよ。その日は皆既日食だったようだが、あいにく分厚い雲に覆われて豪雨に見舞われていた。辺りは暗く、炬火無しでは新月の夜と変わらない暗さだった。我々は王都から逃げる民を保護し、南へと逃がす途上だった」
ルーンの話すところ、調度その時に敵と出くわしたということらしい。
「暗闘か?」
ヴィユーニの問いに、ルーンは静かに頷いた。
「敵の方が先にこちらを発見したらしく、最初に騎兵による突撃を受けた。これで分断された直後に暗闘となった。日食というものはもっとゆっくり訪れるものだと思っていたが、雨雲のせいなのか、ものの五分で周囲は闇に閉ざされた」
それまで淡々と話していたルーンの声色が、徐々に深く沈み始めた。
「敵の指揮官は無能か? 光の射さぬ中で敵に突撃を仕掛けるなど、正気の沙汰ではない」
「最初は私も同じことを思ったが、敵の気迫が異常だった。まるで決死隊を相手にしているようだった。陣形を立て直そうにも、暗さで指揮系統が乱れた。炬火を付ければ瞬く間にそこが襲われた」
「保護していた民の数は?」
「約一千。退こうにも、後方の彼らが真っ先に大混乱に陥っていて、我々は民と敵に挟まれたままあがく他なかった」
(地獄だ)
全く光の無い中での戦いである。ヴィユーニが想像するまでもなく、敵も味方もわからぬ乱戦となった。
「気付けば敵味方の死体の散乱する中、私一人が立っていた」
これが凶剣伝説の真相である――とでも言わんばかりに、ルーンは渇いた笑みを見せた。
ヴィユーニは彼女が言外に置いた言葉を想像で補った。ルーンは勇敢にも味方の混乱を鎮めようとしただろう。あるいはしなかったとしても、彼女は剣を抜いて闇と共に襲い掛かる敵から身を護った。己を嘲るような表情をしているのは、自責の念だろう。
(味方も斬ったか……)
訊いてもルーンは答えないだろう。
「王軍の一隊を率いたシャモレイオが駆けつけて戦場の死体を弔ったが、すぐに次の戦いが始まったから正確な数はわからない。まあ、武勇伝など蓋を開ければこんなものだ」
ルーンが自嘲気味にそういうのを見て、ヴィユーニは少なからず落胆した。
「ところでルーンよ。本題は何だ? 何故俺をここに呼んだ?」
「私から招いた覚えはないのだが――」
両者ともに首を傾げる。ルーンにとってヴィユーニの訪問は予期せぬことだったらしい。だが、名乗る前から相手の正体を見抜いていた都合、最大限の情報は得ていたはずである。
「心当たりがありそうだな」
「このような小細工を弄する者は一人しかいない。まあ、私にとっては好都合だ」
(カルカラかな?)
三代団長ルーンを影から操る剣士団の実力者の名が、ヴィユーニの頭に浮かんだ。だとしたら尚更、剣士団の敵である男を単身でルーンに近づける意図がわからない。
「好都合とはどういうことだ?」
剣士団はボリアに対しての報復を放棄している。カエーナはヴィユーニを見つけるなり挑戦してきたが、それがルーンの意志に反するのは明らかである。
「南方の勇者ヴィユーニよ。どうか、この私に負けてはもらえないだろうか?」
「俺に凶剣の餌食になれと?」
「馬鹿な噂に尾ひれがつくことになるが、すぐに風化するだろう。今の剣士団にとって、貴方と争うことで得る利益は全く無い」
ルーンが言いたいのは、ヴィユーニがルーンに敗北したことにして、王都を去って欲しいということらしい。
「虫のいい話だ」
「相応の対価は用意しよう。本来ならそのまま王都を去ってくれれば良かったのだが、カエーナがあんなに喧嘩っ早いとは私も思わなかったのだ。許してくれ」
ヴィユーニは嘆息した。剣士団最強と思しきカエーナの剣技が驚嘆に値したのは確かだったが、ヴィユーニは自分の望みがそれよりも高みにあることに少なからず落胆していた。
三代団長ルーンはカルカラの傀儡だと思っていたが、話してみると良くできた人物である。ココやカエーナの一件でボリアが危険に晒されることは万に一つもあるまい。
――貴様の技、わずかだがルーンに似ている。
ふと、カエーナが苦し紛れに吐いた台詞を思い出した。剣を合わせた者は死を免れないとまで語られる凶剣。それが他ならぬヴィユーニの技に似ているという。
目を閉じたヴィユーニの網膜に、遥かな塩原が広がる。塩湖の水面に映った自分の顔を見た時、いつか感じたような甘みが頭の中に広がった。
「いいだろう。ただし条件がある」
立ち上がったヴィユーニは数歩進むと、剣を抜き放ち、生い茂る野草を払った。




