第四章 狂剣乱舞(2)
(あれはエトじゃないか?)
自宅に戻る路上、ロマヌゥは水路脇の樹上で縮こまる黒猫をみとめた。
「また降りれなくなったのか?」
全く猫という生き物は、何故自分の力量を越えた高みに上りたがるのか、ロマヌゥは常々不思議だった。
木によじ登り、手を差し伸べる。枝先は細く、これ以上先に登れば折れて猫もろとも水路に落ちてしまうから、中々に慎重を要する。
「ほら、やーん……やぁーん」
鳴き声を真似ながら手を差し出すと、猫は少しだけ興味深げに鼻をこちらに向けたが、すぐにまた縮こまってしまった。
「世話がかかるなぁ」
背なの肉をつかんでしまおうと思って身を寄せた途端、驚いて取り乱した猫が足を踏み外した。空中で何かをかきむしるような仕草をしながら、それは眼下に落ちて行った。
「わっ!」
思わず声を上げた先の空中で、猫は停止していた。ロマヌゥが驚いて真下を見やると、一人の男が剣の柄を差し出して猫を受け止めていた。
「ありがとう。助かったよ」
猫を胸に抱きかかえながら、ロマヌゥは男に向かって謝した。
「汚い川だったのでな。そんなところに落ちたら憐れだろう?」
浅黒い肌と銀色に光る髪が印象的な長身の男で、一目でナバラ系とわかる。長身のナバラ人は珍しいから、クーン系との混血かもしれない。
「王都には旅行に?」
見た目から旅装であるから、ロマヌゥがそう言ったのも無理はない。
「まあ、そんなところだ」
南人は王都で珍しい存在ではないのだが、ロマヌゥはこの男から王都には無い匂いを嗅ぎ取った。
(傭兵かな?)
天下泰平の王都クーンで傭兵といえば、今は旅商の護衛くらいしか仕事がない。だからロマヌゥが感じ取った違和感は、この男のまとう空気が尋常ではないということだった。
「ところで少年、このあたりに宿はあるか?」
「宿なら南区に行けば沢山あるけど――」
「あー、あのあたりの宿は全部断られてしまってな……」
「断られた?」
ロマヌゥが首を傾げる。
「いや何、実は先刻派手に喧嘩してな」
「警吏に追われてるのか?」
「そういうことでもないらしい」
ロマヌゥが更に首を捻る。田舎の荒くれ者が王都で乱暴を働くことはままあるが、南区全域で宿泊拒否されるほどだから、都の任侠にでも目をつけられたのだろうか。
と、その時――
「おい、こりゃ母親思いのロマヌゥ先輩じゃないか」
ロマヌゥが肩をびくつかせて振り向くと、剣を腰に差した数人の男たちがこちらに近づいて来た。数は五人、全員がロマヌゥと同じくミトラの部下である。
「そういえば、先輩は明日お休みでしたね。南人にはママっ子が多いという話は本当なんですかい?」
意地悪げに微笑を浮かべる後輩の態度は、ロマヌゥでなくとも頬を打ってやりたいものがあった。
「行こう」
ロマヌゥは傍観する男に声をかけたが、去ろうとした彼の袖を後輩が引っ張った。
「いやぁ、ロマヌゥ先輩。俺たち、これから一杯引っかけようと思ってるんですが、先輩もどうですか?」
「今日はいいよ」
にべもなく断るも後輩は袖を放さない。
「こういう時は後輩に奢るのが先輩の器ってもんでしょう?」
同じような文句で何度酒代を払わされたか数えきれない。とはいえ、ロマヌゥは後輩である彼らにすら抗う力を持たない。
「何だ。ドラクワ人の若造は小遣いをねだる脛っかじりばかりなのか?」
事情を知らぬナバラ系の男がそう言ったのだから、ロマヌゥの表情から一気に血の気が引いたのも無理はない。
「何だ、手前ぇ?」
後輩の一人が男の前に立つ――が、そのまま痺れたように動かなくなった。
「ほう、俺の前に立つか。見た目より度胸があるな」
男がそう言ったところで、他の者達が一気に殺気立った。
(まずい……)
ロマヌゥは慌てて懐から財布を取り出すと、直立したまま動かなくなった後輩の手に銅貨を握らせた。
「これでいいか?」
後輩はまるで我を忘れていたように、手にした銅貨をしばし見つめていた。
「い、いいでしょう。次も頼みますよ、ロマヌゥ先輩」
ロマヌゥの肩にぽんと手を置くと、後輩たちはナバラ系の男を睨みつつ、去って行った。
「何だ、お前。あいつらに上納しているのか?」
男は歯に衣を着せないが、彼を救ったつもりのロマヌゥは不機嫌そのものだ。
「左腕に青い布を巻いていただろう? あれはクーン剣士団の腕章だよ。剣士団に喧嘩を売る命知らずは初めて見たぞ!」
「ああ、剣士団だったのか……」
ロマヌゥが不思議だったのは、男がいささかも取り乱していないことだった。この男はクーン剣士団が何かわかっていないのではないのか。
「言っちゃあなんだが、剣士団はそこいらの任侠よりずっと性質が悪い。警吏だって手を出せない。愚かにも喧嘩を吹っかけたら明日の朝には水路に浮かんでるところだったぞ。あとなぁ、この街で『ドラクワ人』なんて二度と口にするなよ。そう呼ばれて不愉快に思わない人間はいないからな」
話を聞いていたのかどうか、男は興味深げにロマヌゥを覗き込んだ。
「お前も剣士団だろうに――」
「あんな連中と一緒にするな!」
「連中が不愉快なのだろう? なら、わからせてやればいい」
「出来たらとっくにそうしている!」
もう話したくない――とばかりにロマヌゥはそっぽを向いた。こんな命知らずを相手にするのは愚かとしか言いようがない。
「……待てよ。あんた、もしかして剣士団と一悶着やらかしたのか?」
「まあ、そんなところだ」
どうやら心底呆れると声も出なくなるものらしい。ロマヌゥは彼が南区の全ての宿から追放された理由をようやく理解した。
――命が惜しいなら、今すぐ王都から出ていけ!
せめてそう忠告してやろうと思ったが、既に日が暮れている。
「やぁぁおん」
胸に抱いたトローンの飼い猫――エトが鳴いた。この男がいなければ、今頃は水路で汚水まみれになっていただろう。
ふぅ――と溜め息が漏れ出たロマヌゥの表情は、彼が自覚しているほど不機嫌でもなかった。
「僕の家に泊まっていけ。ただし今夜だけだ。悪いことは言わないから、明日には王都から出て行くんだ。外套は持ってるか? 顔を隠さないと襲撃されるぞ」




