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塩の剣  作者: 風雷
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序章 双天讃歌

 その男が手にする剣を舐めたなら、きっと塩の味がするだろう。


――ヴィユーニ。


 大陸中央の高原地帯、そこに広がる塩原の名だ。塩砂茫々(ぼうぼう)、雨季には広大な塩湖を形成し、その水面は鏡のように空を映す。上に天あり、下にもまた天がある。そこに立った人は神の領域に踏み込んだかのように錯覚し、あまりの美しさに全てを忘れ立ち尽くす。

 その勝絶に、まるで当然のように溶け込む異様があった。

 死骸。白骨化してながい。それもひとつやふたつではない。人に自ら生きることを強要する大地ですら戦慄するほどに、おびただしい亡骸が聖域をけがす。


「いつになったら、俺はお前たちのように天を拝めるのか?」


 男が溜息をつくたびに、新たなむくろが増えた。

 上の天にも、下の天にも名はない。ただその間にある透明な大地だけが、ヴィユーニという古い軍神の名を冠している。

 三十三年前、塩原を旅する集団があった。祖国を失い、塩原の向こうにある国を目指して旅をしていた。

 全滅した。塩原は人を殺す。だが、彼らは自然の摂理によってじわじわとなぶり殺されたわけではなかった。この地にある骸の多さが、同時に人にとっての最大の敵は人であるという警鐘でもあった。

 盗賊――一体誰が、このような穏やかな名を彼らに与えたのだろう。盗賊は盗まない。ただ暴力で奪い取る。あるいは殺し、あるいは犯し、あるいは持ち主ごとさらうのだ。

 男は憶えている。まだ名も冠していない頃、まだ呼吸すらしていない頃、母の胎内で聞いたのだ。圧倒的な数はそれだけで暴力であるという悲鳴と、それを為す術もなく目を逸らして耐えている者たちのすすり泣く声を――


(お願い、死なないで……)


 女は、ただ祈り続けた。何人もの男が自分に覆いかぶさった。腹をさすれば男たちを刺激してしまうかもしれない。賊どもは命乞いする者を喜んで殺していった。女が我が子をいたわれば、人の道を外した彼らは嬉々としてそれを叩き潰すだろう。他の女と少年達は、やはり女と同じ目に遭った。老婆でさえも犯された。夫や父や兄達も、ただ泣きながら家族が蹂躙される様を見続けるしかなかった。冷たい塩原は、最も残酷な選択肢を、まるでそれが慈悲でもあるかのように彼らに投げ与えた。

 夜、女は隠し持った短剣で自らの腹を割き、召使の少女に血まみれの我が子を託した。産声はなかった。


「男の子? 女の子……?」

「男の子です。ひぃ様、立派な男の子です。賢い子です。もう目が開いています」


 自らもまた女とさして変わらぬ境遇にあった召使は、泣きじゃくりながら言った。それに応える声はなかった。

 赤子は全て知っていた。自らが塩の水で母の血を洗い落とされたことも。母の召使が盗賊内の派閥闘争を利用して首領の関心を買い、生き延びたことも。彼女がその他の全てを犠牲にしたことも。

 赤子は生き延びた。奇蹟であると誰もが言う。だが、今にして考えれば、全ては自分が生き延びるために仕組まれたものに過ぎなかった。この塩原が全てを仕組んだのだ。

 赤子が少年となった頃、盗賊団は国境守備兵によって壊滅した。今や首領の妻でもあった母代わりの召使は、少年をかばって死んだ。


「なあ、お袋。あんたが逝くのは上の天か? それとも水面みなもの下の天か?」


 母同然の女の死に際し、少年が呟いた。

 またもやひとり、生き残った。自らが強運であるとは、少年は思わなかった。


「俺は死ねないんだ」


 上の天、下の天、二つの天が自らを生かしている。自らが生き延びることが、全て仕組まれているのだと少年は思った。少年は天の高さを知りたくなった。何処へ行けば自分はこの仕組みから外れるのだろう。この、暴力からの生還という仕組みから。


――ヴィユーニ。


 男はこの地で生まれた。同時にその名をけた。上の天と下の天をつなぐ何処までも透明な水面、それが血で染まるということを、ヴィユーニは生まれた時から知っていた。

 生きてゆく上でヴィユーニが手に取ったものは、彼の生まれそのものだった。

 即ち――つるぎ。ヴィユーニにとっての剣とは、生きとし生ける物全てへの問いでもあった。


「お前は、どちらの天へ逝く?」


 かつて、邪を討ち魔を払うために生まれた神聖な武具は、ヴィユーニの手に触れた途端にその機能を失った。弱を討ち生を払う。これが、ヴィユーニが職として選んだ生き方だった。それはこの世で最も醜悪で、なおかつ永遠に必要とされる生業なりわいでもあった。竜の鞍を枕に塩原を駆け、血飛沫で水面を濁して金を得る。そんな日が二十年続いた。

 浅黒い肌に灰色の髪は勿論のこと、雄大な体躯に似つかわしくない細い顎、大きな瞳にすらりと伸びた鼻なども、全てが人々の思い描く神の姿と酷似していた。


――死神ヴィユーニ

――軍神ヴィユーニ

――塩原の神(ヴィユーニ)


 恐れとともにあるべきあらゆる名が、この男とともにあった。

「塩原で誰何すいかされたら逃げろ。死にたくなければヴィユーニと共に行け」

 傭兵の中の生ける伝説。それが今のヴィユーニだった。



 塩原が戦場となる時、必ずこの男の姿があった。


「ああ……」


 悲鳴、あるいは傭兵故の嘆声。小さなキャラバンを守るたった二十人の戦士たちが、百を越える野盗の群れと鉢合わせたのだ。

 鞍上で嘆息した男は、幸運というべきだろうが、哨戒に出ていて難を逃れた。連なって一人と一騎、塩の岩陰に身を潜める。

 掠奪。ただそれだけが、晴天の下で炸裂していた。戦士は剣と命を、商人は荷と金と命を、ただ奪われた。高貴な服を着る者の姿もあった。自前で兵を調達できない弱小貴族だろう。女の姿もある。それらも他と変わらない。命ばかりが身代金のために除き置かれ、まずは金と衣服を、女はその上で誇りを奪われた。


「もう、終わりだ」


 傭兵の一人が言った。彼の言葉は概ね正しい。命を生業にする者は、不可解な化物を勘定に入れるような生き方を忌まなければならない。あるいは、懐から神像を取り出して祈るもう一人の傭兵もまた正しい。塩原の戦士は己が力量と神以外に信仰を持ってはならない。

 あの連中は、轢死れきしがよいところだろう。運命という極限に太い車輪にかれたのだ。生き延びればそれだけで奇蹟と呼ぶべきものだった。ただ一人の男さえいなければ――

 傭兵の一人が竜を駆る男を見やる。彼に続くように、もう一人が男を見上げた。

 竜が大きく震えた。騎竜の顔は分厚い深緑色の皮膚で覆われており、柔らかく見える白い腹は鉄の胸当てがかけられている。前足は退化しているため、竜は長い尻尾で平衡をとりながら、二足で快速に駆ける。

 鞍上には聖域に相応しい堂々たる偉躯があった。


「追っ払ってくる」


 断言。未来へ何一つ託すことのない、約束や誓いとは一線を画した絶対の自信。それが、男の口から放たれた。


「出来るわけがない……。あんたも人間だ。俺達はあんたの名前だけあれば十分だったんだ。あんたが魔除けをやってくれなかった時点で全てが終わったんだ。彼らはもう、天が裂けても助からない」


 絶望を口にすることの難しさを噛みしめるように、傭兵の一人が言った。

 陽光にさらされると、男の銀髪は熱した鉄にも似た色になる。目元はより暗く沈み、彼を見上げる者はそこに神性を見出す。


「よく見ろ。ここは大塩原ヴィユーニ。天は最初から、上と下とに裂けている。この世のいかなることわりも、双天のもとでは通じない」


 言うなり駆けた。単騎。無謀とは外の世界の言葉だ。この塩原では――いや、あの名を持つ男の行く先では、全ての道理が捻じ曲がる。

 賊との距離など考えない。

 飛矢。当たるわけがない。投槍。届かない。敵陣に乗り込んで首級を三つ上げるや否や、男はまるで手品の種明かしをするかのように言い放った。


「残念だったな。俺が来たぜ」


 つよい。戦場の理などこの男の前では戯言と化す。いや、まるで男の勝利こそが世の摂理であるが如く全てが展開した。

 剣の一振りとともに、足元の水が跳ねた。いや、刎ねたのは首――水面に落ちて、ぱしゃりと水と塩が舞い上がる。

 正面から襲い掛かる者――問答無用に突き殺した。

 横から回り込む者――竜が走るに任せ、剣先で喉を引っ掻いた。

 矢を射る者――感知せず。男は矢に当たらない。如何なる距離でも。

 掠奪に熱心な者――今が修羅にあることを教えてやった。つるぎで。

 女に覆いかぶさる者――尻にも鎧をつけるように訓戒してやった。剣で。

 愚かな命を刈り取る刹那、決まってひとつの光景がヴィユーニの脳裏に炸裂する。


(剣だ。真っ白な剣が見える……)


 実際には、それは塩湖の水面に映った塩の小山であろう。だがその光景が目に浮かぶ度に、ヴィユーニはわだかまりにも似た何かの混ざりあった感情に支配される。


「つまらんな。剣神ウラハールが如き強者はどこにもいないのか」


 あるいは塩湖に浸しても透き通りそうな肌をした貴族の女が、濁りと澄みの同居した眼差しで見上げた男は、自らが助けた者のことなど全く顧みず、ただ眼前の敵に不満をぶつけていた。

 一糸まとわぬ姿のまま、女は軍神の如き男をじっと見ていた。


「ヴィユーニ様……」


 そう。これがヴィユーニ。彼の全ては戦場にこそある。不死身の神々の遊びにも似た命の奪い合い、その中で常に勝利を約束された男が、鶏肉を食い散らかすように敵を屠った。

 長く太い剣が、何度も空中に血の絵を描き連ねた。

 塩原は広い。空を見上げても、塩湖の水面に映る天が視界の片隅で蒼さを残している。上の天だけを見つめる時、自分はここで生まれたのだから、ここで死ぬのだろうと、ヴィユーニは漠然と思った。



序章「双天讃歌」了

第一章「異国の神」へ続く

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