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アリス 後編

ハルと一緒になりたいと宣言し、アリスはななし荘で暮らし始める。

そんな状況に、梅子はなぜか心が曇る。

自分は、ハルのことをどう思っているのか?

その思いに、改めて向き合う。

「ハルくん、梅子ちゃんと出かけてくるよ」

アパート出る間際、ヒューイはハルの部屋を軽くノックしてそう言った。

ドアには相変わらず隙間があったが、彼は中を覗くようなことはしなかった。

ヒューイはそこに誰と誰がいることも、何が行われようとしているかも承知している様子だった。

その声にハルが何か言いかけていたが、彼はそれを聞かなかった。


「あの、どこに行くんですか?」

もうずいぶん遅い。

2人は連れ立って道を歩いていた。

「そうだね…今の梅子ちゃんを一番助けてくれるところかな」

ヒューイはそれしか教えてくれず、歩き続けている。

2人は駅の方向に向かって歩き、普段はほとんど用のない、駅の向こう側に出た。

そこには寂れた商店街の跡地があり、まばらに飲み屋などが点在している。

その一角で、ヒューイは足を止める。


『もっこの店』と細字で書かれた看板のある店は、どうやら地下にあるようだった。

「ここ、ボクの行きつけなんだよねー」

慣れた様子で、ヒューイは階段を下りていく。

梅子は、おっかなびっくりその後を付いていく。

「ああ、そうそう」

階段下のドアからは、音楽が聞こえてくる。

そこに入る前に、ヒューイは言った。

「ボク、ここでは違う名前で呼ばれてるから」

「梅子ちゃん、合わせてね」

そう言って、ウインクをした。

梅子には、訳が分からなかった。


カランカラン。

スナックによくある、来店を知らせるベルが鳴る。

梅子が一見して、そこは場末感の漂う地方のスナックという感じだった。

「あっらーー!!誰かと思ったら!ちょっと、ママ~!」

いきなり大音量の声で言われ、梅子はびっくりした。

「やっだー、プリちゃんじゃないのーー!ご無沙汰じゃない!!」

カウンターの中にいた、ママと呼ばれた女性が言う。

大柄な体、野太い声…女性?

梅子は混乱した。

しかも、プリちゃんって?


「今日は久々にママたちに会いたくなってね」

ヒューイがいつものように爽やかに言うと、歓声が上がる。

「今日はね、ボクの友達も連れてきたんだよ」

そう言って、後ろに隠れるようにいた梅子を押し出す。

「まっ!何この子!」

「プリちゃんのカノカノなの!?」

数人に周りを囲まれ、梅子は目が回った。

「違うよ、お友達」

「いやーん、でもすごくカワイイわよー!」

「何か野ウサギって感じよね~~!」

「ママー、この子、うさぴーって呼びましょうよ~」

来店から2分。

勝手にあだ名まで付けられてしまった。


「ここはね、このもっこママのお店なんだ」

「いわゆる、ゲイバーってやつ」

カウンターの中では、もっこと呼ばれた女性?がバチッとウインクしてきた。

「オカマさんたちばっかりなんだけど、こういう夜に飲むにはいい場所だよ」

「プリちゃん、何する?」

もっこママが聞く。

店内はそんなに暑くはないが、ぴったりしたノンスリーブのワンピースを着ている。

「んー、ボクはいつもの」

「うさぴーには、何かノンアルコールで」

ハルくんに怒られるからね…と、ヒューイが耳打ちした。


飲み物を前にしても、梅子はまだ少し緊張していた。

そもそも、ヒューイと2人きりというのも、何だか落ち着かなかった。

しかし、さっきは本当に助かったと思う。

「あの…ヒュ…プリさん…」

「さっきは、ありがとうございました」

「どういたしまして」

梅子のほうを見ずに、ヒューイはグラスを揺らしている。

「ショックだった?」

「…はい」

「そうだよねえ」

「ちょっとー、何のお話?」

カウンターから、もっこママが割って入る。


「実はね、彼女の幼なじみが部屋に女性を連れ込んでね」

「その現場を垣間見て、ショックを受けてるんだ」

連れ込んだのかは不明だが、ヒューイはさらりと説明する。

梅子は何だか恥ずかしくなって、うつ向いてしまう。

「うさぴー、それは修羅場だったわねー」

「オカマばっかじゃないのね、修羅場味わうのは」

別の店員も、うんうんと頷いている。

「でもさー、ショックだったっていうのは、うさぴーはその男が好きだってことよね?」

「え?」

梅子は顔を上げる。

「どうだろう?」

ヒューイはちょっと意地悪そうな顔をして、梅子のほうを見ている。

「幼なじみだから、単純にショックだったんじゃないの?」

店員の言葉に、もっこママは反論する。

「バカねー、好きだからショックに決まってんじゃないのよー」

「ねー、うさぴー?」

同意を求められたが、梅子は返事に困っていた。

「あの…どうかな…」

「実は、自分でも分からなくて…」

そう言葉を続けると、不意に涙があふれてきた。

もっこママやオカマの店員の前で、梅子は涙が止められなかった。

分からない。

何でこんなに苦しいのか、自分でも分からない。

でも、あのときの部屋の様子は、忘れたくても鮮明に残っている。


「いいのよ、泣きなさい…」

もっこママはそう言って、おしぼりを手渡してくれた。

「あっ、ママ!」

「それ、アンタがさっき腋の下拭いたやつじゃない!?」

涙を拭おうとした手が、すんでのことろで止まる。

「ママ、気を付けて」

横からヒューイが困ったように言って、場が和んだ。


「すみません、何か急に泣いちゃって」

「いいのよ、いいのよ」

ママは優しく言う。

「ねえ、ママ」

「どう思う?」

ヒューイが切り出した。

「彼女は、その幼なじみに恋をしているだろうか?」

「アタシの見立てでは、してるわよねー」

そう断言されて、梅子はドキッとした。

わたしが、ハルに恋をしている?


ママはおかまいなしに続ける。

「幼なじみでよくありがちなのが、相手への気持ちが友情なのか愛情なのかってとこよね」

「長く一緒にいればいるほど、相手への気持ちが分かんなくなっちゃう…」

その通りだった。

「あの…じゃあどうすれば…」

「どうすれば、その区別が付くかって?」

「はい」

「プリちゃん、言っちゃっていいの?」

ママは、なぜかヒューイに耳打ちする。

ヒューイは、どうぞという仕草をする。


「つまるところ、その相手と寝たいかと思えるかどうかってことじゃない?」

「寝る…」

「仲良しこよしのお昼寝っていうんじゃないわよ?」

「もちろん、男と女としてってこと」

「男と、女…」

梅子は、その言葉を噛みしめた。

経験のない梅子といえど、もっこママが何を言っているのかは分かっている。


「そうよ、ねえ、想像してみて?」

もっこママは続ける。

「あー、えーと…その彼ってどんな感じ?」

ハルの様子を聞かれて、梅子はしばし固まる。

まさか、オオカミだとは言えない。

「彼女の幼なじみの()()()()はね…」

ヒューイが助け船を出す。

「アメフト選手みたいにガタイがいいんだけど、ちょっとのんびりしてるっていうか…」

「女性に関しては、けっこう硬派なところがあるね」

「少なくとも、ボクよりは」

もっこママはカウンターに肘をつき、ふんふんと聞き入っている。


「そうね…じゃあ、想像してみて?」

さっきと同じように始める。

「そのヒロくんと、あなたが…」

想像してみてと言われても、何をどう想像したらいいのか梅子には分からない。

「逞しい体の彼が…まるで獣のような目つきであなたを見ているの」

獣のようなというか、ハルは獣だし…。

「あなたに覆いかぶさって、熱いキスをするの」

「長いキスで息が切れてあなたが横を向くと、その口に指をねじ込んでくるのよ…」

「耳も、甘噛みされちゃうの」

ヒューイも黙って話を聞いている。

「動作は決して乱暴ではないんだけど、とっても荒々しい」

「いつもの優しい彼とは違って、一匹のオスオオカミになる…」

一匹のオスオオカミというのは、まさにハルのことだった。

もっこママの言うままにイメージをしてみた梅子は、次第に顔が熱くなる。

彼からそんな風にされたら、わたしはどう感じるだろうか…。


梅子の脳裏に、笑顔のハルが浮かぶ。

そのハルが、梅子をベッドに押し倒し、キスをして…荒々しく…。

素直に想像してみると、耳まで真っ赤になってしまう。


「どう?濡れたかしら?」

もっこママは、なぜかドヤ顔で言う。

「ちょっとママー、あんた、自分の願望入れすぎじゃない!?何よ、口に指をねじ込むって」

「何よマリエ!そんなことないわよ!」

マリエという店員に言われ、もっこママは反論した。

「ママみたいなおブスに語られたってね、気持ち悪いだけよー」

「濡れるったって、恐怖の冷や汗で顔が濡れるだけよっ!」

「んまー!!」

「おブスなあんたに言われたくないわよ!このブスブス、おブス!」

ママとマリエが激しい舌戦を繰り広げる中、梅子は顔から火が出そうなくらい赤くなっていた。

「ちょっと、うさぴーが真っ赤っかよ!!」

「うさぴー、大丈夫?」

「は…はい…大丈夫…」

そうは言ってみたが、梅子には刺激の強すぎる話だった。


「ママの話はさておき、うさぴーのその反応は、やっぱ好きってことじゃない?」

マリエに言われて、梅子ははっとする。

「だって、もし相手が嫌な男だったら、そんな反応にはならないでしょ?」

「あたし、もしママが相手だったらって考えただけで、寒気がしてゲロ吐きそうよ」

「うるっさいわねー!」

次第に顔から熱が引いていくのを感じる。

冷静になってきたらしい。

梅子は、前に元同僚の三上に迫られたときのことを思い出した。

あのとき、もしハルが助けに来てくれなかったら…。

そう思うと、今でもぞっとするときがある。

そういうことなのか…と、梅子は不意に気持ちが晴れた。


「ママたちはさ、恋をするときに相手のことを考える?」

しばらく黙っていた、ヒューイが口を開く。

「相手のことを思いやって、自分の気持ちを殺したりする?」

そう言って、ヒューイは梅子のほうを見た。

彼は、何でもお見通しらしい。


「そうねえー、難しい問題よね」

「昔ね、ある人と付き合ったとき…」

ママは、グラスをあおった。

中で、氷がカランと音を立てる。

「あたし、彼のことすごく好きだったんだけど、彼ってノンケだったのよね」

「のんけ?」

梅子には分からない。

「異性にしか興味のない人のこと」

ヒューイが付け加える。

「あたしたち、それなりに仲良くやってたんだけどね…彼にね、結婚話が持ち上がったの」

「彼、そのころにはあたしならOKって感じだったんだけど…」

ママは、カウンターの中で遠い目をしている。

「でも、今後の彼のことを思うと、あたしを選んでとは言えなかったわ」

「ゲイって、やっぱ風当たりきついものね」

うんうんとマリエも頷いている。

「彼はあたしを選んでくれようとしたけど、あたしが彼から離れたの…」

「そういうことかしらね、プリちゃん」

「そうだね…」


「あの…」

梅子は思わず切り出した。

「その人から身を引いて、もっこママさんはどうなったんですか?」

「後悔はありましたか?」

「そりゃあ、あったわよー」

「彼はそれから結婚して幸せになったみたいだけど」

「今でもときどき思うの」

「もし、彼から逃げなかったら、その幸せを一緒につかんだのは自分だったんじゃないかって」

ママは、再び水割りを作っている。

「やらない後悔より、やった後悔って言うじゃない?」

「人生って意外と長いもんだし、ノンケの彼と一緒になってみてもよかったかなって今では思うの」

「ダメになったら、それはそれ」

「また新しい恋を探せばいいじゃない」

ママの言葉に、梅子は胸がいっぱいになった。


日付が変わって深夜の2時前、梅子とヒューイは店を出た。

梅子は駅向こうにあんな世界があるのは知らなかったが、また行ってみたいと素直にそう思った。

「どう?」

「少しは気分が晴れた?」

「はい!」

梅子は笑って答える。

「よかった、いつもの梅子ちゃんだね」

ヒューイも安心したようだった。

「あそこの人たちはさ、底抜けに明るいよね」

「実際、大変なことはいろいろあると思うんだけどさ」

「はい…」

「だからボクも、元気がないときは顔を出すようにしてるんだよ」

「彼女たちから、元気をもらいにね」

「分かるような気がします」

梅子とヒューイは連れ立って、深夜の街を歩いていた。


アパートの玄関をそっと開けると、ハルが階段に座っていた。

「遅かったね」

そう言ったが、別に怒ってはいないらしい。

「やあハルくん」

「きみこそ、まだ起きてたの?」

「大丈夫、梅子ちゃんにお酒は飲ませてないよ」

そう言うと、ヒューイはさっさと階段を上がって行ってしまった。


「梅ちゃん、おかえり」

ハルにそう言われて、梅子はその顔を見た。

少し眠そうではあるけれど、いつも通りのハルだった。

さっき、もっこママに店で言われたことを思い出す。

そして、さっきのアリスとハルのことも。

あの後、2匹がどうなったのかは知らない。

でも、今の梅子はやけに晴れ晴れした気持ちだった。

「うん、夜更かししちゃった」

ハルと梅子は、そのまま2階に上がっていく。

1階のハルの部屋では、きっとアリスが寝ているだろう。

「空き部屋で寝るの?」

「うん、そう…」

そう言うと、ハルは大きなあくびをした。

きっと、何だかんだで2人のことを気にして寝付けなかったのだろう。

部屋の前でおやすみを言って、梅子はハルと別れた。


ベッドに潜り込むと、ほどよい疲れが体を包む。

今は、もやもやが吹き飛んで清々しい気持ちだった。

ほんの数時間前、あんなに絶望的な気分になっていたのが嘘のようだった。

それはきっと…。

梅子は、やがてうつうつとし出す。

それはきっと、わたしの本当の気持ちが分かったからだ。


*****


一方、空き部屋のハルは、未だに寝付けずにいた。

彼は、ちょうどヒューイと梅子が出かけた数時間前のことを思い出していた。


ハルの上に馬乗りになり、関係を迫ってくるアリス。

唇が触れるかどうかというとき、ドアが軽くノックされて驚いた。

ヒューイが、これから梅子と出かけるという。

梅ちゃん…。

ハルは、我に返った。


体を起こして、アリスの肩を持つ。

そのまま、彼女を自分の上から押しやった。

アリスは、黙って従っている。

「やっぱり…私じゃだめなんですか?」

ハルは、答えない。

アリスが泣きそうになっているのは感じたが、何も言えずにいた。

「何で梅子さんなんですか?」

「何で、人間の…私たちにひどいことをする人間の…」

アリスは声を詰まらせて言う。

「アリス」

「梅ちゃんは、俺に何もひどいことはしなかったよ」

「彼女は、ずっと俺の味方だった」

「そうだとしても、です!」

「考えてみてください…彼女はいつか、あなたの元から離れていくと思います」

「そうだね」

「そうなったら、あなたはどうするんですか?」

「梅子さんは人間だし、ハルさんじゃなくても、選ぶ相手はたくさんいるでしょ?」

「私には、あなたしかいないのに…」

アリスは泣いている。

「私はただ、あなたと幸せになりたいだけなのに…やっと見つけた、同じオオカミのあなたと…」

彼女のその主張には、ハルは最初から引っかかるものがあった。


「アリス…きみの言う幸せって何?」

「え?」

アリスは、顔を上げた。

「それは…家族を持つこと…自分を受け入れてくれる誰かと、家族になることです」

「じゃあ、それこそ俺じゃいけないと思う」

「どうして!?ハルさんは、私を受け入れてくれないんですか?同じ痛みを、分かち合ってくれないんですか?」

「痛みを分かち合うことはできるよ」

「でも…きみに愛情を感じることはないと思う」

「…」

今や2匹はベッドに腰かけ、ハルは両手を組んで話している。

「それは、きみに魅力がないからってわけじゃないんだよ」

「事実…さっきはちょっとやばかった」

「ノックがなかったら…その、最後まで…」

ハルは、言いにくそうにもごもごとごまかした。


「俺がきみを好きになれないのは、きみの責任じゃない」

「きみの言うように、俺も辛いことはたくさんあった」

「でも、それを乗り越えてこれまでやってこられたのは、梅ちゃんのおかげなんだよ」

「ただ彼女がそこにいて俺を受け入れてくれていることが、俺にとっての救いだった」

「表立って、かばってくれたりはしなかった」

「ただ傍らに腰を下ろして、一緒に痛みを分かち合ってくれただけ…」

「でも、それだけでよかったんだ」

一気に喋ると、ハルはほっと息をついた。

しばらくの沈黙。

しかし、アリスは諦めていない。


「それでもいいんです!」

「え?」

「あなたが私を見てくれなくても、私はあなたの傍にいたいんです!」

そう言って、強くハルに抱きついた。

ハルは、アリスを気の毒に思った。

彼女をこんな風にしてしまった、辛い経験が悲しかった。

人の群れで暮らすオオカミの実情は、ハルが一番よく知っていた。

でも、だからってどうすることもできないんだ。

ハルは意を決した。


「じゃあ、いいんだね?」

ハルは、抱きついているアリスの肩を抱く。

「きみと結婚したとしても、俺の心にはずっと梅ちゃんがいると思う」

「きみは、それでもいいんだね?」

彼女が何か言おうとしたが、ハルは続けた。

「俺がきみを抱いたとしても、それはきみへの愛情からじゃない」

「え…」

「心の中に梅ちゃんを描いて、彼女と愛し合うと思う」

「俺がきみを見なくても、きみはそれで満たされるのか?」

「きみがどんなに愛されていると感じても、それは俺の、梅ちゃんに対しての愛情なんだよ」

「俺は、きみの体を使って、彼女と愛し合うと思う」

「ひどい…そんなの」

アリスは顔を引きつらせたが、ハルはなおも続ける。

「子どもが生まれたら変わると思う?俺は、きみに似た子どもを愛せるかな」

「そのどこかに、きみじゃなく、梅ちゃんの面影を探してしまうかもしれない」

「もうやめて!」

アリスは、ハルから離れた。

荒く、肩で息をしている。


「ひどいこと言ってると思う」

「でも、結局そういうことなんだよ」

「俺と一緒になっても、それはきみの幸せじゃない」

「きみのことは、嫌いじゃない」

「同じオオカミとして、親近感も感じているし苦労も分かる」

「だけど、それとそういうこととは違うんだよ、アリス」

「同じ境遇の者同士が、必ずしもうまくやっていけるわけじゃないと思う」

「俺が好きなのは、きみじゃないんだ」

「梅ちゃんなんだよ」

「彼女が俺を好きでなくても、俺は彼女が好きなんだ」

「彼女がダメだったから別の誰かということでもなくて、俺はただ、梅ちゃんが好きなんだ」

梅子への思いを誰かに明確に告白できたのは、ハル自身にとっても驚きだった。

ずっと温めてきた気持ちは、もうこんなにもはっきりとした輪郭を持っていた…。


空き部屋の天井が、月の明かりでうっすらと見える。

ハルは、ようやく眠りに落ちていった。


*****


翌日、午後をずいぶん過ぎて、梅子はようやく目を覚ました。

昨日は、気持ちの変化がまるでジェットコースターのようだった。

遅くに寝たのもあるが、そういう精神的な疲れもあり、ずいぶん寝坊してしまったらしい。


カーディガンを羽織り、下に降りていく。

階段の上り口の向かいには、ハルの部屋がある。

ドアは、完全に開け放たれていた。

トイレに行った後、梅子は通りがけに部屋を横目で見た。


ハルの部屋は、驚くほどすっきりと片付いていた。

梅子は、嫌な予感に襲われる。


梅ちゃん、おはよう。

ってか、もう昼過ぎじゃん。

昨日、ヒューさんと夜更かしなんかするからだよ…。

いつもならそう言ってくれるハルは、食堂にもいなかった。

梅子は、再び階段を駆け上がり、ハルの寝ている空き部屋に急いだ。


空き部屋も、きれいに片付けられていた。

誰かがここにいたなんて、信じられないくらいに。

梅子は、言葉を失った。

ハルが、どこにもいない。

ハルは、アリスと行ってしまったのではないか。

そんな思いが、体中を駆け巡る。


ハルは、もうどこにもいない。

わたしを置いて行ってしまった。

ようやく、わたしは自分の気持ちに気付けたのに。


昨日の、もっこママの言葉を思い出す。

やらない後悔より、やる後悔。

わたし、失敗して後悔することすらもできなくなったんだ。

迷子になった子どものような気分になって、梅子は玄関の上り口に座り込んだ。


「どうしたの?こんなとこで座り込んで…」

不意に、頭の上から声が降ってくる。

いつもずっと傍にあった、あの優しい声。

「ハル…」

呆然として、梅子はハルを見上げた。

「おはよう、梅ちゃん」

「いやいや、もう昼過ぎてるしね」

「昨日ヒューさんと夜更かしなんかするから、寝坊しちゃうんだよ」

考えていたようなのと同じようなことを、ハルは笑って言う。

「さっきね、アリスを見送ってきたんだ」

「着替えておいでよ」

「何か食べる?」

「うん…」


着替えて食堂に行くと、トーストと焼きウィンナー、目玉焼きにプチトマトの載ったプレートを用意してくれた。

梅子が食べている間、ハルは向かいに座ってコーヒーを飲んでいた。

どちらも、何も言わなかった。


食べ終わった梅子に、ハルは言った。

「今日はさー」

「久々に自分のとこと空き部屋の大掃除をしたんだよ」

「ああ、くたびれた」

「夕食は手抜きでカレー作るから、梅ちゃん、手伝ってくれない?」

「うん」

そう言われて、ハルの隣に立つ。

調理台には、じゃがいも、玉ねぎ、にんじんなどが無造作に置かれている。

ハルはじゃがいもの皮をピーラーで剥き始める。

「玉ねぎ、剥いてくれる?」

「うん」

子どもが手伝うように、梅子は玉ねぎの外皮を1枚ずつめくっていく。

ピーラーがじゃがいもにあたるリズムカルな音だけが、食堂に響いている。


梅子は切り出した。

「昨日、実は見ちゃったの」

「ん?」

「ハルの部屋…ハルとアリスさんが一緒にいるところ」

「うん」

ハルは、手を休めない。

「それでヒューさんと出かけたのか…納得」

既に2つ剥き終わり、3つ目のじゃがいもを手に取る。

「それで…わたし…」

次の言葉が、なかなか続かない。

梅子は、まだもたもたと玉ねぎの皮を剥いている。


「結局、俺は彼女の求めるものを与えてあげられなかった」

今度は、ハルが口を開いた。

「いろいろ仕事を手伝ってくれたのは助かったけど」

「何ていうのかな、俺、暇なのも苦手みたい」

喋りながらも、ハルの作業はどんどん進んでいく。

梅子は、未だに一つ目の玉ねぎをもてあそんでいる。

「いきなり出会って、結婚なんてピンとこなかったし…」

「梅ちゃんは、俺とアリスがくっ付いたほうがよかった?」

「何でそんなこと…」

「俺たち、オオカミ同士だったから」

「…ハルは、そのほうがいいのかなとは思った」

「それでハルが幸せになるなら、応援しなきゃって思った…」

「そっか」


再び沈黙が訪れる。

ハルは手早く皮むきを終え、乱切りにしたじゃがいもを水に放している。

「えー、まだ1個目なの」

そう言うと、梅子が手の中でもたつかせていた玉ねぎをそっと取り上げる。

「握りすぎだよ」

「温かくなっちゃってるし」

笑って、代わりに皮を剥き始める。

「ごめん…」

玉ねぎの皮むきも満足にできないなんて…。

梅子は少し恥ずかしかった。


「でも、それが梅ちゃんなんだよな」

「うんうん、そうだ」

ハルは、勝手に納得している。

「料理は下手で、裁縫は上手」

「何でもよく食べるけど、ごはん粒しょっちゅう付けてるし」

「ニコニコ笑って、けっこう毒吐くときもあるし」

「普通それ言う!?って、天然なところもある」

「ちょっと、何なの?」


「でも、いつも俺の傍にいてくれて、俺のことちゃっかり守ってくれてる」

「傍に腰を下ろして、痛みを分かち合おうとしてくれる…」

ハルは、独り言のように呟く。

「それが、梅ちゃんなんだよな」

梅子は、ハルが何を言いたいのか分からない。

ただ、なぜか、胸がいっぱいになってくる。

「同じオオカミよりも、俺はそんな梅ちゃんがいいよ」

ハルはそう言って、困ったような笑顔で梅子を見た。


その顔は、だんだん滲んでいく。

ぽたぽたと、涙のしずくがまな板に落ちる。

梅子は、ハルの前で涙が流れるに任せていた。

嬉しさと切なさで、涙はどんどんあふれてくる。

ハルは、梅子を慰めるような言葉はかけなかった。

相変わらず夕食の用意に手を動かしながら、静かに言う。

「泣いてるの?梅ちゃん」

「違う…」

梅子は、声を絞り出した。

「玉ねぎが、目に沁みただけ…」

残りの玉ねぎは、まだ皮も剥かれずに転がっている。

「そっか」

ハルはそう言ったきり、もう何も言わなかった。

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