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アリス 前編

梅子のアメリカ行き騒動もひと段落し、彼女への明確な好意に気付いたハル。

そのせいか、何だかソワソワしてしまう。

そんなとき、ななし荘に思わぬ人が現れて…。


ハル…ハル…。

梅子が呼んでいる。

うっすらと目を開けると、彼の胸の上に梅子の顔があった。

何も着ていないすっきりとした首筋が、すぐ傍にある。

ハル…好き。

好き、好き、好き…。


「うおっ!」

ハルは、自室のベッドで目を覚ました。

はっとして胸の上を見てみたが、当然、そこに梅子はいない。

「あー、またか…」

顔を両手で覆い、ハルはベッドに倒れ込んだ。


実は、ちょっと面倒なことになっている。

梅子へのはっきりした好意を自覚した今、ハルはよく夢を見るようになっていた。

あるときは唇が迫ってきたり、あるときは自分の目の前で服のボタンが外されたり、あるときは…。

まあ、いずれにせよ、そういう夢だった。


原因は、何となく分かっている。

季節は、まもなく冬。

冬季は、オオカミにとって繁殖のシーズンなのだ。

そこに梅子の一件がかち合い、こういう面倒なことになっている。

今までも怪しいときは何度かあったが、そのときは梅子が好きだというはっきりした気持ちがなかったので、何とか乗り越えられていたのだった。

さあ、今年はどうなるか…。


*****


その日の午後、眠そうな顔をしてタローが食堂に顔を出した。

今日は講義もバイトもない休みの日で、ゆっくり寝ていたらしい。

ハルは夕食の下ごしらえをし、ヒューイはお茶を飲みながら雑誌を読んでいる。

「おはよっす…ああ、もう昼か…」

タローはぼんやりとして、インスタントコーヒーを作っている。

「眠そうだね、昨日は遅かったの?」

何とはなしに、ハルは聞いてみた。


ハルの問いかけに、タローは食堂を見回す。

「梅子ちゃんがいないから言うっすけど…」

「うんうん」

「昨日すっげームラムラしちゃってて、ネットでエロ動画漁りまくってたんすよねー」

「ほうほう」

ヒューイは、雑誌から目を離さずに相槌を打つ。

「何か無性にいろいろ見たくなったっていうか…」

「普段は見ないような熟女系までクリックしちゃって」

「出たのがけっこうなオバサンってかバアサンだったんすけど、それはそれでエロく感じちゃったというか…」

コーヒーを飲みながら、タローは他人事のように語った。

「ヒューイさんは、そういうことないっすか」

「ボクなら、ムラムラした夜は外に出る」

ヒューイは、あっさりと言いのけた。

「ヒューイさんはモテるからいいっすよー」

「ハルくんは?そういうときあるんすか?」

予想はしていたが、自分にまで話が回ってきてハルはぎくっとした。

そういうときがあるかっていうか、今がまさにそのときなんですけど…。


タローくんの言うことは、実はすごくよく分かる。

というのも、最近、梅ちゃんのあらゆる仕草が気になって仕方がない。

特に困るのが、彼女が何かを食べているときだ。

先日も、梶原のおばちゃんにもらったブドウを、梅ちゃんはおいしそうに食べていた。

ちょっと尖らせた口でブドウを吸って食べている様子なんかは、もう本当にやばかった…。


その他にも、ハルを刺激するシーンはいろいろあった。

風呂上がりの、少し火照った様子の梅子。

しっとりした肌には、何度触れたいと思ったことだろう。

寝起きの梅子もそうだった。

ちょっと寝癖を付けてぼんやりして起きてくる彼女は、たまらなく愛おしかった。


そんなことを考えていると体がムズムズしてくるようで、ハルはとっさに流しに頭を突っ込んだ。

そのまま蛇口をひねって、水を被る。

その奇行を、ヒューイとタローが何を言うわけでもなく見つめている。


「えー、いや…ええと…」

手拭きで顔をガシガシ拭きながら、ハルは答えをはぐらかした。

ヒューイは、いつの間にか雑誌から顔を上げている。

「時にハルくん」

「はい?」

「オオカミは冬に子作りをするらしいけど…きみって発情期はないの?」

この人は、何でこう俺を構いたがるのだ。

しかも、限りなく逃げ道のない的確な言葉を投げかけてくる。

「どうですかね…」

ハルは、はぐらかす。

その様子にヒューイはふっとため息をついて、雑誌を手に立ち上がった。

部屋に帰るらしい。


ハルとすれ違いざまに、ヒューイはそっと囁いた。

「たまーにきみの部屋から、悩まし気な寝言が聞こえてくるときがあるんだけど…」

「ねえ、ハルくん?」

それだけ言うと、颯爽と出て行ってしまった。

ハルは、部屋を防音仕様にするか迷い始めていた。


*****


その日の晩のことだった。

もうじき梅子が帰ってくるだろうかと時計を見ていたとき、外から悲鳴が聞こえた。

「ちょっとハル!どうしたの!?」

声の主は梅子だったが、どうも変だった。

食堂にいたハルは、慌てて外に飛び出した。

「梅ちゃん!どうかした!?」

それを見て、今度は梅子が驚く。

「えっ!?ハル…どうして…」

そして今度は、外に出た一同が驚く番であった。

梅子の足元に、誰か倒れている。

大きな女性のようだったが、よく見ると、それはオオカミであった。

ハルと同じように人の格好をした、一匹のオオカミであった。


「わたし…てっきりハルが倒れたんだと思って…」

梅子は、まだ少し混乱しているらしかった。

ハルは倒れているオオカミに近寄り、様子を探った。

理由は分からないが、気を失っているらしい。

このままここに置いておくわけにもいかないので、ハルはそのオオカミを抱き上げた。

匂いからして、どうもメスらしい。

それに気付いたとき、また面倒ごとが増えそうな気がした。


*****


大きな男性用のコートに身を包んだメスオオカミは、ハルのベッドに寝かされていた。

他に、彼女を横たえる場所がなかったからだった。

「わたしが帰ってきたとき、この人…がアパートのほうを見てたの」

「お客さんかなと思って声をかけたら、急に倒れちゃって」

「見たらオオカミだったから、一瞬ハルだと思ったのよ」

梅子は、ことの成り行きを簡単に説明した。

そんな話をしていると、ベッドに載った手が、ぴくりと動いた。

やがて体がかすかに動き、そのオオカミは目を開けた。

「あ…私…」

視線をベッド脇に移した彼女は、そこにハルと梅子がいたので驚いた。

とっさに起き上がろうとしたのを、ハルが押し留める。

「大丈夫ですよ」

「心配しないで」

そう声をかけ、落ち着かせる。

「あの…ここは…」

「ここは、ななし荘っていうアパートで…」

ハルがそう説明しかけたとき、その顔を見ていたメスオオカミの顔がぱっと輝いた。

「いた!やっぱりいたのね!」

そう言うと、いきなりハルに抱きついた。

横では、梅子がぽかんと口を開けている。

「ちょっと、ちょっと落ち着いて!」

ハルは、抱きついているオオカミをやんわりと引きはがした。


「すみません、急に…私嬉しくてつい…」

ようやく頭がはっきりしてきたオオカミは、申し訳なさそうに言った。

ハルも梅子も、まったく事情が飲み込めていない。

「申し遅れました、私、アリスといいます」

そしてハルをまっすぐに見て言った。

「私、あなたに会うためにやってきたんです!」

「え?俺に?」

ハルはそう言って、思わず梅子と顔を合わせた。

「私は…あなたと…」

アリスが再び何か言おうとしたとき、グーーッと腹の虫が鳴いた。

「まずは…何か食べようか」

ハルは、アリスを食堂へと案内した。


「すみません…2日ばかり何も食べていなくて」

野生のオオカミは、いったん食事にありつけば数日間は食べなくても持ちこたえられるらしい。

彼女が庭で倒れたのは、空腹による電池切れだったようだ。

アリスは、ハルの用意したスープを食べている。

「えーと、さっきの話なんだけど」

アリスがスープを食べているのを見ながら、ハルは切り出した。

「俺に会うためっていうのは、どういうこと?」

ボウルいっぱいのスープを飲み干して、アリスはほっと一息ついた。

そして、答える。

「はい…私はあなたに会うためにここまでやってきたんです」

「私をあなたのお嫁さんにしてもらうつもりで…」

「えー!」

横で黙って聞いていた梅子は、さすがにびっくりしたようだった。

それはハルも同じだった。

いきなり現れた自分と同じようなオオカミが、自分と結婚する気でいるのだから無理もない。

「えっと、アリスさんだっけ?」

「ごめん…話が全然見えないんだよ」

「よければ、もっと詳しく話してくれる?」

ハルにそう言われ、アリスは身の上話を始めた。


彼女の話はこうだった。

自分も、ハルと同じように人間に育てられたオオカミであること。

今まで住んでいた町では、ずいぶん辛い目に遭ってきたこと。

風の噂で、自分と同じようなオオカミがいるらしいと知ったこと。

そしてそのオオカミは、オスらしいということ。


彼女は思ったそうだ。

自分が幸せになるには、そのオオカミと一緒になるのが一番だと。

そのオオカミも人間の世界で辛い思いをしているだろうから、きっと通じ合えるに違いないと。


その話を、ハルと梅子は黙って聞いていた。

今度は、梅子がハルの顔を見ている。

どうするの?とでも言いたそうだった。

「うーん」

ハルは、腕組みをして唸った。

「ハルさん…とお呼びしてもいいですか?」

「え?あー、どうぞ」

「ハルさん、私をここに置いてくださいませんか?」

「え?」

「いきなりお嫁にしてくださいっていうのも、不躾ですし…」

「しばらく一緒に生活させていただいて、徐々に私のことを知っていただけたら」

彼女の中で、話はとんとん拍子に進んでいるらしい。

「あの、ごめん」

「ちょっと待って…まだ整理できてなくて」

「きみは本気で、俺と…結婚したいって考えてるわけなの?」

「はい!」

アリスは満面の笑みで答えた。

「俺がどんなやつかも分からないのに?」

「昔は、みんなそうだったといいますよね」

「昔はね…そりゃ…」

ニコニコして話すアリスに、ハルはどうにも大きく出られない。

どうしたものか…。


「えっと、ごめん、わたしもう寝るね」

急に、梅子が立ち上がった。

「え?」

「ごめん、明日も早いんだ」

そう言う梅子は、怒ってこそいないが無表情だった。

「うん…分かった」

梅子が出て行った食堂で、ハルとアリスは2匹きりになった。


正直なところ、彼女に対して悪い印象を持っているわけではなかった。

自分のようなオオカミがいるなんて思いもよらなかったし、同胞というのか、妙な親近感は感じていた。

しかし…。

「ええと、ハルさん」

「私は何をすればいいでしょうか?」

「明日の食事の支度でもしておきましょうか?」

「いやいや、いいよ、そんなの…」

ハルは慌てて手を振る。

しかし、この一方的な感じはどうしたものだろう。

梅子も行ってしまったし、彼女をどうするかはハルの手に委ねられている。


「えっと、アリスさん…」

「はい」

「今日はもう遅いし、とりあえず泊まってくれていいから」

「はい、ありがとうございます!」

「明日また、これからどうするのか考えよう?」

「分かりました!」

アリスは嬉しそうだった。


*****


寝る前に、ハルは梅子の部屋をノックした。

「…梅ちゃん、起きてる?」

しばらくして、ドアが開く。

「あの子、今日は泊めてあげるんでしょ?」

「うん、そうする…」

「ハルの部屋で寝てもらうの?」

「まあ、それがいいかなって…彼女、大きいし」

「そうだね」

ドアの前で、ハルと梅子は立ち話をしている。

「ハルはどうするの?またここで寝る?」

梅子は、部屋の中に視線を送った。

ハルは、一瞬どうしようか迷った。

ありがたい申し出ではあるが、今はいろいろと自制できる自信がない。

「ありがとう…でも、今日はやめとく」

「あっちの、空き部屋で寝るわ」

「そう、じゃあおやすみ」

そう言って、梅子はドアを閉めた。

何だかもやもやした気分を抱えたまま、ハルは2階奥の空き部屋で眠った。


*****


慣れない場所で眠ったせいか、体の節々が痛かった。

腰をさすりながら食堂に行くと、そこにはもうアリスの姿があった。

「あ、ハルさん」

「早いんですね」

「あ…おはよう」

アリスは自前らしいエプロンを締めて、台所に立っている。

味噌汁のいい匂いが漂っている。

「朝食の準備してくれてたの?」

「昨日はお世話になりっぱなしでしたから…」

「今日は、味噌汁に焼き魚でよかったですか?」

アリスは、冷蔵庫に貼ってあるメニュー表を指さした。

「あー、うん、そう」

ハルは、食堂の椅子に座った。

誰かがここで料理をしているのは、何だか変な気がした。


「ハルさん、よかったら味見してもらえますか?」

アリスは、小さなお椀に味噌汁をよそって、ハルに手渡した。

「ありがとう…」

口にする前から、美味しいのだということが分かるようだった。

もちろん、実際に食べても美味しかった。

「うん、旨いよ」

「本当ですか?よかった!」

アリスは心から喜んでいるようだ。

こうしていると、まるで新婚夫婦みたいだな。

ハルは、寝ぼけた頭でぼんやりと考えていた。


「アリスさん、昨日の話だけど」

「アリスでいいですよ」

「じゃあアリス、昨日のことだけど…本気なの?」

「ええ、本気です」

アリスはさらりと言ってのけた。

「何で、俺がいいわけ?」

「お話ししたように、私は人間の社会でとても辛いことばかり経験してきました」

「うん」

「ハルさんにも、そういうことはあったのではないですか?」

そう言われて、ハルは考えてみた。

そりゃ、ないわけないだろうと思った。


オオカミが人の言葉を話して人間のように振舞うなんて、どう考えてもおかしい。

今までさんざんからかわれたり怖がられたりした。

そのたびに、悲しかったり悔しかったりした。

「うん、それはあるよ」

「私には、その痛みを分かち合える人がいなかったんです」

痛みを、分かち合える人。

俺にとってのその人は、間違いないく梅ちゃんだった。

「でも、同じ境遇のあなたなら、きっと私を分かってくれると思ったんです」

「私の言うこと、何かおかしいですか?」

「いや…おかしくはないよ…」


しばらくの間、静寂が食堂を包む。

ハルは時計を見て、立ち上がる。

フックに掛かったエプロンを一振りして締めて、自分も台所に立つ。

「私がやりますよ?」

「いや、梅ちゃんの弁当作らなきゃ」

「ですから、それも私が…」

「いやー、彼女あれでけっこういろいろうるさいんだよ」

「俺が作るからいいよ」

そう言いながら、ハルは冷蔵庫を覗きにいった。

文句は言いつつも楽しそうなハルを見て、アリスは複雑な心境だった。


*****


会社のランチタイム。

休憩室で弁当を広げていた梅子も、複雑な心境であった。

「あ、弥生さん!」

同僚の女子社員が手を振る。

最近では弁当派も増え、梅子は一人で食べることが少なくなっていた。

ハルの弁当はとても評判がよく、梅子はありがたかった。


「…でさー、彼氏がね…」

梅子の他に3人が集まり、他愛のないお喋りは止まらない。

「弥生さんはさ、彼氏はいないの?」

唐突な質問が飛んできて、梅子は面食らった。

「えっ!?い、いないよ!!」

「えー、そうなの?絶対いるって思ってた」

「あたしもー」

「てか、そのお弁当作ってくれてる大家さんと付き合ってたり?」

仲間の一人が、絶妙な推理を見せる。

「ち、違う!そんなことないっ!!」

梅子はつい、過剰に反応してしまった。

「そうだよー、大家さんっておじいさんでしょ?」

別の誰かが見当違いなことを言い、話は逸れていく。


そう、ハルは、わたしの彼氏じゃない。

だから、彼と結婚したいって人…オオカミが現れたからって、動揺することなんかないのに。

わたし、そんなにハルに依存してたのかな…。


梅子はしばらく考えていたが、思い切って聞いてみた。

「あの、わたしの友達の話なんだけど」

「うんうん」

「ずっと一緒にいた幼なじみがいるらしくて、最近、その彼を好きっていう人が現れたらしいの」

「何ていうのかな…ある意味では、友達の幼なじみとその人はお似合いみたいなのね」

「うん」

「そういう場合って、どうしたらいいと思う?…って相談されたの」

「どうするって…」

3人は顔を見合わせた。

「それは…その子が幼なじみを好きかどうかによるんじゃない?」

「ってか、どうしたらいい?って時点で好意はあるよねー?」

「でもさ、幼なじみとお似合いなら、応援するっていうのもあるよね」

「その幼なじみが大切なら…」

幼なじみが、大切なら…。


*****


その晩のことだった。

誰かが、梅子の部屋をノックする。

「ハルなの?入っていいよー」

入ってきたのはオオカミではあったが、ハルではなくアリスだった。

アリスがななし荘で寝泊まりするようになり、すでに1週間が過ぎていた。

彼女はハルのようにとてもマメに働くオオカミで、梅子は感心していた。


「これ、梅子さんのですよね」

アリスは、きれいにたたまれた洗濯物を差し出す。

「あっ、ごめんなさい!」

何に対して謝ったのか分からなかったが、申し訳なく感じてはいた。

「何か、ごめんね」

「ハルの手伝いまでしてもらって」

何となくそう取り繕ったが、アリスは静かに首を振った。

「そんなことないです」

「私、ハルさんの役に立てて嬉しいんです」

そう言って、微笑む。

ただ洗濯物を渡しにきただけかと思ったが、アリスはなかなか帰ろうとしない。

「あの…何か?」

梅子が聞くと、アリスは彼女を真っすぐに見て言った。


「私は、梅子さんがうらやましい」

「え?どうして?」

「だって、ハルさんからとても大切にされているから…」

「そ、そうかな?」

「そうですよ」

「だって、あなたは何か特別なことをしなくても、頑張らなくても、ただそこにいるだけで愛されてるんだから…」

愛されているという言葉も気になったが、何もしていないのにという部分にはちょっととげがあるように聞こえる。

「別に…愛されてなんかはいないと思うよ?」

「ただ、わたしとハルは小さいころからずっと一緒だったから…」

「梅子さんは、ハルさんを好きですか?」

その問いかけに、梅子はどう答えたものか悩む。

「好きって…それは好きだよ」

「ハルは、家族だもん」

「家族…」

梅子の言葉を、アリスは自分でも呟いてみせる。

「じゃあ、私がハルさんと結婚したら、私と梅子さんも家族になりますね!」

アリスはそう言って微笑んでみせたが、それが真意だとは思えない様子でもあった。

「すみません、お邪魔して…」

そう言って、アリスは行ってしまった。

自分の部屋に残された梅子は、もやもやした気分を抱えたままだった。


その晩、梅子はなかなか寝付けなかった。

昼間の同僚たちとの話、さっきのアリスとの会話が頭を巡っている。


どうしたらいいって困ってるのは、わたしがハルを好きだから?

それは好きだよね、ずっと一緒にいたんだもん。

でも、この「好き」って、一体どういう「好き」なんだろう。

今まで何もかもが当たり前すぎて、考えたこともなかった…。

ハルは一応人間とのハーフではあるけど、同じオオカミのアリスさんと一緒にいたほうがいいのかな。

幼なじみが大切なら、応援したほうがいいのかな…。


アリスの言葉がよみがえる。

私がハルさんと結婚したら、私と梅子さんも家族になりますね。

それは当然のことではあるが、そんな状況を、梅子は今まで想像したことがなかった。

ハルが誰かと結婚したら、自分はどうするのだろう。

自分が先に結婚して、そうしたらハルがどうなるか?

それと同じくらい、梅子には考えも及ばないことだった。

今までずっとそうであったように、これからもずっとそうであることはできないのだろうか。

ハルには幸せになってほしいけれど、その幸せを、自分は心から祝福できるだろうか…。


いろいろな考えで頭がいっぱいになり、梅子はとりあえずトイレに起き上がった。

トイレは、1階のハルの部屋の近くにある。

梅子が階段を下りていくと、ハルの部屋のドアが少し開いている。

中からは、誰かの話し声が聞こえる。

ハルとアリスらしい。

いつもは気にもかけないドアの隙間に、梅子はつい顔を寄せた。


*****


「え?いいよ、そんなの…」

ハルは最初は丁寧に断った。

アリスは、いつも働いているハルを気遣い、マッサージをしてくれるという。

「私、それなりに重さがあるので、けっこう気持ちいいと思いますよ」

アリスが笑って言うので、無下に断るのもよくない気がした。

しかし、ハルには気がかりなこともある。


目下のところ発情期らしいハルにとって、会って日が浅いとはいえ、アリスというメスオオカミに魅力を感じずにいるのは難しかった。

梅子と比較するのはよくないが、家事全般はそつなくこなすし、手際もいい。

彼女が来てから、ハルの負担が目に見えて減ったのは事実ではあった。

ただ、それはそれだと、ハルは自分でも分かっていた。


彼女は有能なオオカミではあるが、自分にとってはそれだけのこと。

付き合いたいとか結婚したいとか、そういう感情とは違う。

本当にほしいのは誰か、それは自分が一番よく知っている。

ただ、発情というホルモンの一時的な作用で、彼女に魅力を感じてしまっているだけだ。

それは抗いようのない、ハルの野生の部分がそうさせるのであった。


「じゃあ…せっかくだしお願いしようかな」

「では、ベッドにうつ伏せに寝転んでもらえますか?」

言われたとおりにすると、アリスは体重をかけてマッサージを始めた。

立ち仕事で凝りやすいふくらはぎから太もも、腰、背中、肩。

ゆっくりと丁寧に揉みほぐされて、さすがにハルは気持ちよかった。

「あーー、上手だね…」

思わず、声が出てしまう。

「それはよかったです」

アリスは、にっこりと笑った。

「じゃあ、次は仰向けになってください」

そう言われて、ハルは何も考えずに仰向けになった。


マッサージの余韻で、ハルは目を閉じてベッドに横たわっていた。

不意に重みを感じて、目を開ける。

マッサージとは違う、もっと生々しい重み。

「!?」

ぐっと首を持ち上げて見ると、アリスはハルに馬乗りになっていた。

マッサージ、というわけでもなさそうだった。

「ア、アリス…何?」

「何って…私に言わせるんですか?」

さっきまで力強くマッサージをしていたアリスは、まるで力を失ったかのような柔らかな手つきになっていた。

その手で、ハルの体を撫でる。

「最初に言いましたよね?私、ハルさんと結婚したいって…」

「そうだけど…」

「私じゃ、ダメなんですか…?」

「私なら、あなたの役に立てます」

「私なら、あなたの痛みも分かってあげられる…」

そう言いながらアリスは、ハルの上で伏せるような姿勢になる。

2匹の体が、限りなく密着する。

ハルは思った。


まずい、めちゃくちゃまずい。

今彼女に迫られたら、本当にまずいぞ…。


そう思いながらも、体が言うことを聞かない。

人でないもう半分のオオカミの自分が、彼女を受け入れろとでも言っているようだった。

アリスの顔が、ハルの顔に近付いてくる。

悲しいことに、梅子のことは頭になかった。


*****


梅子は、ドアの隙間に張りつけられたようだった。

その感覚は、いつか覚えがあった。

夜更けの食堂で、自分が捨て子であることを知った、あの晩のようだった。

見てはいけない、聞いてはいけない。

脳はそう言うのに、体がそれを無視する。

ハルとアリスさんが、これからやろうとしていること。

見ちゃいけない、見ちゃいけない、見たくない…。

誰でもいいから、わたしをここから引きはがして…。


その願いは、聞き届けられた。

梅子の腕を、誰かがさっと後ろに引いた。

引かれたまま一歩後ろに下がって背後を見ると、ヒューイがいた。

「ひゅ、ひゅういさん…」

梅子は、しどろもどろになっている。

今にも大声で泣き出してしまいそうだった。

「梅子ちゃん、行こう」

ヒューイに促され、梅子は2階に戻った。


自分の部屋の前まで来ると、梅子は急に脚に力が入らなくなってへたり込んでしまった。

自分は、パニックを起こしかけている。

そう自覚していた。

それを察してか、ヒューイは傍らに座って背中をさすってくれている。

「梅子ちゃんは、いつもタイミングが悪いね」

いつもの調子で、そんな風に言う。


ヒューイが傍にいてくれたおかげで、何とか取り乱さずに済みそうだった。

しかし、梅子は未だに何も言えずにいる。

息をするのが、やっとという様子だった。

「…梅子ちゃん、着替えてこられる?」

「え?」

ヒューイの問いに、梅子は顔を上げた。

モデルのような美しい顔が、梅子に向かって微笑んでいる。

「どうせ、今夜は寝られないと思うよ」

ヒューイはきっと正しかった。

「せっかくだし、大人の夜更かしに出掛けよう」

「え?」

ヒューイが何をしようとしているのかは分からなかったが、今夜は一人では過ごせないと思った梅子だった。


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