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久兄ちゃん

梅子が会社で偶然再会したのは、ななし荘のかつての住人である宗方久志だった。

ハルと梅子を可愛がってくれた「久兄ちゃん」は、なぜか梅子にアメリカ行きを提案。

梅子はOKしたと言うが…。


「えっと、弥生くん」

「応接室まで、至急お茶をもらえない?」

上司にそう頼まれたときは、まさかあんな再会が待っているなんて梅子は夢にも思わなかった。


来客用の湯飲みにお茶を用意し、応接室をノックする。

「失礼します」

課長は、取引先と何やら話をしていたようだった。

お茶を出すときにちらりと見たが、相手はずいぶん若そうだった。


応接室は、梅子たちのエリアからほど近い。

ドアの空いた音、課長と先方の話す声。

さっきの人も帰るんだと何となく思っていたら、梅子は突然課長に呼び出された。

「弥生くん、ちょっと」

呼ばれていくと、課長が声を潜めて言う。

「先方の宗方さん、きみとちょっと話がしたいそうなんだが…」

「え?はあ…」

一体、何の用だろうか。

お茶を出すときに、何か失礼をしただろうか…。

梅子は心持ち落ち着かなく感じ、相手の待つ廊下に急いだ。


「やっぱ、やっぱそうだ!梅だろ!?」

廊下で待っていた取引先の男性は、梅子の社員証を見て顔を輝かせた。

さすがにまずいと思ったのか、慌てて声のトーンを落とす。

「オレだよ、オレ!宗方久志!」

「ほら、ずっとアパートで一緒だった…」

ぽかんとしていた梅子だったが、その名前には聞き覚えがあった。


宗方久志。

彼は、梅子とハルの祖母が大家をやっていたころの、ななし荘の住人だった。

梅子のこと“梅”と呼ぶのは、彼しかいなかった。

「うそ…久兄ちゃんなの!?」

久志は、梅子より5つ年上だった。

母親が亡くなってからななし荘で生活し始めた梅子とハルを、久志はよく可愛がってくれていた。

「うそうそうそ!本当!?びっくり!」

「オレもだよー!さっきちらっと見て、もしかしてとは思ったんだよな」

「梅、全然変わってないな!」

「ほんとー?」

しばらく談笑していた2人だったが、久志は時計を見ると慌てて言った。

「悪い、もう行かなきゃ!」

「そうだ、梅!」

「今日の晩空いてる?飯行かない?」

「うん、行く!」

「えーと…じゃあ7時にここの前でいいか?」

「うん、OK」

それだけ決めると、久志は手を振って帰っていった。


*****


「腹減ったー」

「うおっ、コロッケうまそう!」

夕食の時間、タローが食堂に顔を出した。

ヒューイは先に漫画を仕上げるらしく、部屋にこもっていた。

「はい」

「あざーす」

ご飯をハルから受け取りながら、タローは聞いた。

「梅子ちゃんは、今日遅いんすか?」

「梅ちゃんは外で食べてくるってさ」

「へー」

いただきますと言って、2人は食べ始めた。

ハルの背後にあるTVでは、くだらないバラエティーが流れている。

ハルは何気ない顔をしてコロッケを食べていたが、実は心中穏やかではなかった。

それは、梅子がしてきた連絡のせいだった。


『もしもしー、ハル?』

『今日ね、夜は外で食べてくるね』

「うん?分かった」

「遅くならないようにね」

『分かってるよー』

『むふふふふ…』

いつもなら用件だけで終わるのに、今日は梅子が向こうで笑っている。

「機嫌いいね、どうしたの?」

『えっへへー、実はね…』

「うん」

『やっぱ内緒!うちに帰ってから教える!じゃあね』

そう言い残して、梅子は電話を切った。


付け合わせのキャベツにソースをかけながら、ハルは考えていた。

梅子は、一体何を隠しているのだろう。

そもそも、誰と食事に行くというのだろう…。

「ハルくん、かけすぎっすよ」

「高血圧になるっすよ」

はっとしたときには、キャベツどころかコロッケもソースに浸っていた。


*****


「わー、おしゃれなお店!」

「気に入った?」

「うん」

少し照明の暗い、おしゃれなイタリアンレストラン。

壁際の一席に、久志と梅子はいた。


「今日、夕飯はよかった?」

久志はグラスの水を一口飲んで言った。

グラスには、レモンの薄切りが一枚浮かべてある。

「ん?てか今は誰が大家やってる?」

「ばあちゃん、けっこう前に亡くなったよね…?」

「うん」

「今はね、ハルが大家やってくれてるの」

「おばあちゃんと一緒でさ、家のことやったり、食事も作ってるの」

「へー、ハルが!?すげーな!」

「あいつ、今どんな感じなの?」

「えー?」

「あんまり中身は変わってないよ」

「でも、すごく大きくなったよー」

「久兄ちゃんより大きいと思う」

「しかも、ゴツいし」

梅子の話に、久志は腕を組んで笑った。

「そっかよー」

「うわー、会いたいなー」

2人で昔話に花を咲かせていると、注文した料理が運ばれてきた。

食べながらも、話は尽きることがない。


「覚えてる?オレの部屋にヤモリが出たときのこと…」

「あー、あれね!覚えてるよ」

「それがね、ちょっと前は大変だったの」

「うちでトカゲを預かることになって、それがね…」

一生懸命話す梅子を、久志は穏やかな表情で見ていた。


*****


「遅い…」

フックにエプロンを掛けたハルは、誰に言うでもなく呟いた。

時間は、既に11時近い。

過保護かもしれないけど、さすがに心配だった。

また以前のように、誰かの部屋に連れ込まれてやしないだろうか…。

探しに行こうかと玄関を出たとき、アパートの前にタクシーが止まるのが見えた。


「おっ、いきなり会えたな!」

タクシーの中から出てきたのは久志だった。

「!?」

「もしかして、久兄ちゃん!?」

「嬉しいねー、おまえは覚えててくれたんだ」

「梅はさ、最初分かんなかったんだぜ」

久志が振り返った先には、タクシーの中で眠る梅子がいた。

「怒んないでやって?」

「こんな酒弱いの知らなくてさ、オレが飲ませちゃったし」

「あーあ、梅ちゃんはもう…」

ハルは、タクシーから梅子を抱き上げた。

「ひさにーちゃん…うへへへへへへ…」

梅子は赤い顔をして、眠りながらも幸せそうな顔をしている。

「すいません、ちょっと待ってください」

久志はタクシーの運転手に声をかけて、ハルに向き直った。


「梅の言う通り、ほんっとデカくなったなー!」

「梅は、あんま変わってないけど…」

久志は、ハルと向き合って嬉しそうだった。

「俺も驚いた」

「また久兄ちゃんに会えるなんて」

「今日はもう帰る?」

「おう、悪いな」

久志は、再びタクシーに乗り込んだ。

最後に、座席から身を乗り出して言う。

「今度の日曜日、暇?」

「え?うん、大丈夫」

「じゃあ、またここに遊びにくるわ」

「ハルの手料理も食いたいし」

「うん!待ってる!」

「じゃあ、またなー」

走りゆくタクシーの後部座席で、久志が手を振っているのが見えた。

再び静かになったアパートの庭。

「久兄ちゃん…」

梅子を抱えたままのハルは、自分のしっぽがパタパタと揺れているのに気付いた。

久志との再会は、ハルにとっても嬉しいものだったのだ。


*****


久志との再会から何週間か経ったころだった。

「ねえ、ヒューイさん」

夕食を終えて部屋に帰ろうとしたヒューイを、梅子が呼び止めた。

「ヒューイさん、英語できる?」

「もちろん」

「ねえ、英語ってすぐに話せるようになるかな?」

「どうして?」

「近々、行くかもしれなくなって…」

その話を片付けをしながら聞いていたハルは、急に黙ってはいられなくなった。


「梅ちゃん、どっか行くの?」

「うん、アメリカ行くかも」

「はあー?」

「何、藪から棒に…」

そう?という顔をして、梅子はご飯を食べている。

「今日ね、久兄ちゃんとランチしたの」

「そしたらさ…」


この日の昼間。

梅子は久志に誘われて、珍しく外にランチに出ていた。

「あー、おいしかった!」

「たまには外もいいかもー」

デザートまでしっかり平らげ、梅子は満足そうだった。

それを笑顔で見ていた久志は、不意に話を切り出す。

「なあ、梅」

「何?」

「おまえ、アメリカ行く気ない?」

「え?」

「オレと一緒に、アメリカ行く気ない?」

「久兄ちゃんと?」

久志は、真剣なまなざしで梅子を見ている。


「と、いうことがあって」

一時静まる食堂。

ヒューイも、黙っている。

「梅ちゃん…で、何て答えたの?」

「えー?」

「それは行くって言ったよ?だって、楽しそうじゃない」

梅子は笑顔でそう言ったが、ハルにはものすごい衝撃だった。


「で、いつ行くの?」

「えーと、2週間後くらいだって」

「ヒューイさん、簡単な英語なら覚えられるかな?」

「じゃあ、とりあえずレッスンしてみようか」

「うん、よろしくねー」

食事を終えてお茶を飲み干し、梅子は食器を流しに運んでいる。

その嬉しそうな背中を、ハルは何も言えずに見ている。

「じゃあヒューイさん、時間あったら教えてね」

手を振り振り食堂を後にする梅子を、ハルとヒューイが見送っている。


梅子の姿が見えなくなった後、ぼーっとたたずんでいるハルの肩をヒューイが叩く。

「ほら、だからこういうことになっちゃったね」

きみが早く行動を起こさないから…とも言いたそうだったが、ヒューイは何も言わずに出て行った。


梅ちゃんがアメリカに行く…。

久兄ちゃんが、どうして?

一体、どうしてこんなことになってしまったのだろう。


頭の中で、いろいろな考えがぐるぐると回っている。

流しで、水の落ちる音がした。

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