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ようこそ、まだ名前のない世界へ

んぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあ、うぎゃあ。


その声を聞いたとき、頭が真っ白になった。

よかったとか嬉しいとかそんな感想すら湧かなくて、ただただ胸がいっぱいになった。

視界もだんだんと滲んできて、もうどうしようもなく泣けてきてしまった。


*****


ある日の晩。

夕食の終わった食堂で、ハルは何やら考え込んでいるようだった。

そこに現れたヒューイは、湯飲みにお茶を注いでその向かいに座る。


「どうしたの?ずいぶん難しい顔して」

「いや、実はちょっと悩んでて」

ハルは腕組みをして続ける。

「梅ちゃん、最近調子が悪いみたいなんですよね」

「そうなの?具体的にどんな感じ?」

お茶を冷ましながら、ヒューイが聞く。

「よくトイレで吐いてるみたいで…」

「うん」

「その割には、めちゃくちゃ食べたりもするようになって」

「うん…」

ハルの話を聞いて、ヒューイはふと考え込むような表情になる。


「まあ年末も近いし、仕事も忙しいらしくて」

「本人はストレスかなって思ってるみたいなんですけど」

「今回は、ちょっと長引くなーと思って…」

ハルは、眉間を指で押さえている。

ヒューイは、ようやく飲める熱さになったお茶に口を付け、おもむろに言った。

「ハルくん、検査薬は使ったの?」

「え?何ですか、検査薬って」

「妊娠検査薬」


「え?」

ハルは言葉こそ聞こえていたが、その意味がすぐには頭に入ってこない。

「え?じゃなくて」

「だからさ、梅子ちゃん、妊娠してるんじゃないの?」

「彼女の症状、つわりじゃないの?」

「にん、しん?」

ハルは一言呟いて、ヒューイの顔を見る。

「ええーーーーー!!!!」

ハルは叫び、椅子を倒して立ち上がった。


「心当たりは、まったくないわけ?」

その顔を真っすぐに見返し、ヒューイが聞く。

「え?心当たり?えーと…」

まだ頭の整理はできていないが、ハルは瞬間的に記憶をさぐった。

目があちこちに動き、その心当たりとやらを探しているようだった。

「きみに心当たりがないとしたら、ご愁傷様だね」

「あ…」

ハルの視線が一点に定まる。

「あるかも…」

「そうか、よかったじゃないか」

「じゃあ、たぶんハルくんの子だよ」

「おめでとう」

淡々と言い、ヒューイはハルの肩を軽く叩いた。


*****


「と、いうことなんだけど…」

「こんなこと聞くのもアレなんだけど…生理はどう?」

ヒューイと話した後しばらくして、ハルは梅子の部屋を訪ねていた。

梅子は、体がだるいからと早めにベッドに入っていた。

「えーと…言われてみたら…ない、かも」

ベッドから体を起こした梅子は、ややうつむいてそう言った。


「調べてみる?」

ハルはそう言って、梅子に小さな紙袋を手渡す。

食堂での一件の後、近所のコンビニで購入した妊娠検査薬であった。

「え…ええと…」

梅子は、一瞬どうしていいか分からない様子だった。

それは、ハルとて同じではあった。

「うん、調べてみる」

やがて梅子は意を決したように、紙袋を手にした。


数分もあれば、結果はすぐに出るらしい。

梅子がトイレに入ってから、ハルにはもう何時間も経ったような気さえする。

トイレのドアが開く音がして、ハルは心臓が跳ね上がる。

ものの数秒で、梅子がハルの部屋に顔を出した。

「…どう、だった?」

「…」

「妊娠してた」

梅子は、パジャマの裾をつかんでそう告げた。

その瞬間、ハルは何も考えられなくなった。


ベッドに座ったまま、ハルは何も言わない。

梅子はそんな彼を見て、少し不安になった。

妊娠したということは、父親は間違いなくハルである。

彼はそれを、どう受け止めているのだろう。


梅子自身も、不安が湧いてくるのを感じていた。

妊娠したくなかったとかそういうことではなく、ただ漠然とした不安だった。

自分の中に新しい命が宿っているという事実が分かった、そこからくる漠然とした不安。

何だか泣きそうになってしまう。

そんな梅子を、ハルが突然抱きしめた。


「梅ちゃん!」

ハルが一言名前を呼ぶと、彼の腕に力がこもるのが分かる。

梅子は何だか急に安心して、気が緩んで涙がこぼれてしまった。

「ハル、わたし…」

しかし、何を言えばいいのか梅子には分からない。

「すっごい、嬉しい」

ハルは梅子を抱きしめたまま、振り絞るような声で言った。

「嬉しい…」

ハルの中に、梅子が妊娠したという事実がようやく伝わり始めたようであった。

彼はやっと梅子から体を離し、彼女の両肩を抱く。

「同じくらいびっくりしたけど」

そう言って、半泣きの顔で笑っていた。

梅子も同じように半泣きで笑って、彼らは再び抱き合った。


「えーーー、梅子ちゃん、妊娠したんすか!!おめでとう!」

ヒューイの提案で妊娠が分かったこともあり、ハルと梅子は2人にも報告をした。


「さあ、ハルくん」

「いよいよ忙しくなるよ」

ヒューイは急に真面目な顔で言った。

「きみはまず、信頼のおける助産師を見つけなくてはならない」

「できれば、ここで赤ん坊を取り上げてくれるような」

「普通の病院じゃダメなんすか?」

不思議そうにタローが聞く。

「タローくん」

「お腹の中の子が、確実に()()()赤ん坊であるという保証はないってことだよ」

「…」

ハルは、その点にまったく考えが及んでいなかった。


確かにそうだ。

自分は半分は人間であるけれど、半分は見た目通りオオカミなのだ。

お腹の赤ん坊がオオカミであったとしても、何ら不思議はない。

しっぽを生やした赤ん坊かもしれないし、顔だけは人間のオオカミなんてこともあるかもしれない。

そんな子を、果たして病院で取り上げてくれるだろうか。

ありとあらゆる可能性を考慮しておかなくてはならない。

ヒューイが信頼のおけると言ったのは、おそらくそういうことなのだろう。


「梅子ちゃん、こんなタイミングで不安になる話をしてすまないね」

「ううん、そんなことないです」

「わたし、ずっとハルといるのが当たり前だったし」

「ハルのことも、全然変だなんて思ってないんです」

「でも、これからわたしたちに起ころうとしていることは、もしかしたら一般的じゃないかもってことですよね」

ハルは少したじろいでしまったが、梅子はしっかりとした顔つきでヒューイの話を聞いていた。

妊娠が分かってまだ1時間と経っていないが、彼女は既に母親になっているのかもしれない。

俺がオタオタしてていいわけないないぞ…。


「でも俺は!」

ハルは、急に声を上げた。

「どんな子が生まれたって嬉しいし、ちゃんと愛せると思ってる!」

自分でも驚くほどに熱い言葉が出てきて、ハルははっとした。

残りの3人も、ポカンとしている。

「あの、そう、そう思ってる…」

何となくバツが悪くなって、ごにょごにょと濁す形になってしまった。

「よく言った、ハルくん」

「ちゃんと分かってるじゃないか」

珍しく、ヒューイは純粋にハルを褒めた。


*****


翌日から、ハルは助産師探しに奔走した。

考えてみれば、自分も祖母がななし荘で取り上げてくれたのでここにいるのであった。

病院で生まれていたら、こんなに普通の生活は送れていなかったかもしれない。

梅子のお腹にいる自分たちの子がどのようであるのか、ハルにはまだ分からない。

ただ、生まれてすぐに好奇の目にさらされたり、恐れられたりするようなことにさせたくはなかった。

人間を両親に持つ赤ん坊のように、ただ祝福されて生まれてきてほしかった。


持つべきものは、幅広い人脈を持つ梶原のおばちゃんであった。

元々、彼女はハルがオオカミであっても動じない人物ではあった。

梅子に子どもができたことを喜び、事情を理解した上で協力してくれたのだ。

相談から数日後、彼女は見事、腕のいい助産師を紹介してくれた。


その助産師は中島という初老の女性で、やや厳しそうな雰囲気を醸し出していた。

梶原のおばちゃん同様、ハルに会っても動じることはなかった。

彼女にとってのハルはオオカミというより、どこにでもいるただの赤ん坊の父親であるらしかった。


彼女の経営する助産院で、梅子は初めて健診を受けた。

お腹の子どもはオオカミの要素も持ち合わせているだろうということで、妊娠して何か月目なのかは定かではなかった。

いつ生まれるのかも、予測が付きにくい。

中島は厳しそうな表情を見せながらも、何があっても自分が赤ん坊を取り上げると約束してくれた。


梅子は、仕事を止めることになった。

つわりの症状は落ち着いていたが、今後妊娠から出産までがどのように進むか分からないためであった。

妊娠の事実は告げず、ただ一身上の都合というのが退社の理由だった。


妊娠が分かってから1か月、年明けには梅子のお腹はふっくらと丸みを帯びてきた。

そのことからも、人間の胎児の成長スピードより速いのではないかというのが中島の見立てだった。

オオカミの妊娠期間はおよそ2か月ということで、人間のそれよりはるかに短い。

今後の様子次第では、いつ生まれてもおかしくないとのことだった。


オオカミは、一度の出産において平均で4~6頭の子ども産むとされている。

健診のエコーで見る限りは、梅子のお腹に見られる影はひとつだけだった。

男か女かは分からなかったが、少なくとも姿形は人間のようであった。


「本当に、生まれるんだよなあ…」

前よりも丸く大きくなった梅子のお腹に手を当て、ハルは独り言のように言う。

「そうだよ」

「ハルがパパになるなんて信じられないよね」

「梅ちゃんがお母さんになるのだって、ちょっと信じられないよ」

そんな話をする1人と1匹ではあったが、言葉にしなくてもお互いの不安は感じ取ることができた。

嬉しさと不安は、いつも背中合わせに存在していた。


*****


そのときは、急に訪れた。

3月のある深夜のことだった。

「何か…お腹がすごく張って痛いんだけど」

隣で寝ていた梅子にそう言われ、ハルはすぐに中島に連絡した。

そのとき中島は別のお産を受け持っていたが、それが終わるとすぐに駆けつけてくれた。


「どう…ですか?」

梅子の様子を調べている中島に、ハルは恐る恐る聞く。

「そうだね…今日か明日には生まれるかもしれないよ」

今すぐというわけではなさそうだったので、中島は準備のために一度うちに帰っていった。


ななし荘全体に、緊張が走る。

いつも寝ているハルの部屋では狭いということで、食堂の休憩スペースを片付けて布団を敷く。

梅子は、そこで出産に臨むことになった。


中島の言う通り、すぐに生まれるということではないようだった。

子どもを産むために陣痛という痛みが訪れるが、最初は強い痛みではなくその時間も短い。

現時点では痛みと痛みの感覚も長く、忘れたころにまた痛み出すという程度のものだった。

陣痛のないときは梅子はいつも通りで、食事をしたり歩いたりすることもできている。

ハルはもっと大変なことを想像していたので、心の中ではほっとしていた。

しかし、これはまだほんの始まりであった。


最初に異変を感じてからほぼ1日は、ずっとそんな調子だった。

初めての出産は、多くの女性が長い時間かかるらしい。

長い人だと2日もかかると、ハルは本で読んだことを思い出していた。


「あっ!」

「破水、したかも…」

うとうとしていた梅子が、はっとしたように言った。

内側からお腹を蹴られるような感覚があって、ザバッと水が出てきたらしい。

少し前に戻ってきていた中島が、急いで診察をする。

「うん、破水してるね」

「さあ、これからだよ」

「2人とも、頑張るのよ」

中島も、いよいよという顔をしている。


破水すると、出産の速度はぐんと進む。

それはつまり、陣痛の強さも増すということである。

「うーーーーーーーっ」

陣痛が来るたび、梅子は強い痛みに耐えている。

握った彼女を手を通じて、その大変さが伝わってくる。

梅子は布団や畳をかきむしるようにして、痛みの波が落ち着くのを待つしかかなった。


「梅ちゃん、頑張れ…」

聞こえているかは分からないが、陣痛のたび、ハルは梅子に声をかけた。

中島にアドバイスをもらい、梅子の腰の辺りを強くさする。

こういうとき、オスなんてものは本当に役に立たない。

ハルは、そのことを思い知らされた気がしていた。


破水から幾度目かの陣痛の後、中島はハルに言った。

「ハルさん、あんた一度外の空気でも吸っておいで!ひどい顔だよ」

「あんたがここで倒れたって、あたしは面倒見てやれないからね!」

そう言って、半ば食堂を追い出されるように廊下に出た。

食堂の傍のタローの部屋から、2人が心配そうに顔を出している。


「梅子ちゃん、大丈夫っすかね…」

「うん…」

ハルには、それしか言えなかった。

ヒューイも、いつになく深刻な顔をしている。

「ハルくん、きみは大丈夫なのかい?」

「俺?俺は平気ですよ…」

そうは言ってみたが、自分でもどうなのか分からなかった。


「何か思うことがあれば、話してみたら?」

ヒューイにそう言われ、ハルはうなだれた。

「俺、本当に心配で…」

「今の梅ちゃんもそうなんですけど…」

「生まれてくる子どものこと」

「というと?」

「ちゃんと人間らしく生まれてくるのかとか…」

「もし俺みたいのだったら、この先どうなっていくんだとか…」

「もうそんなことがグチャグチャで…」

ハルは両手で顔を覆った。


タローは、かける言葉もないように黙り込んでいる。

しかし、ヒューイは違った。

「ハルくん」

「またきみは、そんなことでオタオタするのか?」

「え?」

「きみが苦しむのは分かる」

「ボクに何が分かるのかって言いたいかもしれないけど」

「だけど、今一番大変なのは、間違いなく梅子ちゃんと生まれてこようとしている赤ん坊じゃないか?」

「…」

「前に言ったじゃないか」

「どんな子どもが生まれても、きっと愛してやれるって」

「あれは、あのときの思い付きだったのか?」

「違う!」

ハルは、あやうくヒューイに掴みかかりそうになった。

「だったら、もう腹をくくれ!」

「ヒューさん…」

「後先のことは考えるな!」

「今きみがやらなくてはならないのは」

「奥さんと子どものことを純粋に心配するだけじゃないのか!?」


いつもどこか冷ややかなヒューイにそう言われ、ハルは頭を強く殴られたような気がした。

一番大切なことを、すっかり忘れてしまっていた。

そう、後のことなんか心配するべきじゃない。

梅ちゃん…。


「おおーい、ハルさん!」

「もうじき出てくるよ!戻っておいで!!」

食堂から、中島の大きな声が聞こえる。

梅子の苦しそうな声が、それに重なる。


「もうちょいで頭が出てくるよー」

「ほら、梅子さんも頑張って!」

再び梅子の手を取り、ハルはその隣で励ました。


「はいはい、頭が出たよ!」

「もう力入れなくていいからね!」

「はい、ちゃんと呼吸して!」

中島から、矢継ぎ早に指示が飛ぶ。

梅子は無我夢中でそれに応じようとしているようだった。


頭が出たら、次はどうなる?

ハルには周りの音が聞こえなくなり、何もかもがスローで動くように感じられた。

何もかもがゆっくりに見える中、梅子の脚の間から、中島が何かを取り上げる。

その、何か。

タオルに包まれて、ほんの一拍置いた後、大きな泣き声を上げた。


泣き声が、次第に周りの音を連れ戻してくる。

すぐ隣で、はあはあと聞こえる梅子の呼吸。

「おめでとう!」

「元気な男の子だよ!」

中島の声。

食堂の外で、タローとヒューイがわあわあ言う声。

その間も、赤ん坊はずっと泣いている。


中島は、生まれたての赤ん坊をさっと拭いて、梅子の胸の上に乗せた。

赤ん坊はオオカミでも人間でもなく、赤黒いしわくちゃのサルのように見えた。

そんなもの本来なら可愛くも何とも思えないはずなのに、その顔を見たとたん、ハルの目から涙がこぼれた。

涙は流れ続けて、止めることができない。


頑張ったのは梅ちゃんなのに。

俺は隣で見守ることしかできなかったのに。


何か彼女に言わなくてはと思ったが、嗚咽が邪魔して声が出ない。

「梅ちゃ…うぐっ、う、あり…ありがとう…」

自分でもバカみたいだと思いながら、ハルはそれでも泣くのを止められなかった。

顔の周りの毛が涙でぐしゃぐしゃになっても、涙は止まらなかった。

「うん」

梅子は疲れた顔でにっこり笑って、それだけ言った。


*****

*****


梅子は、かつてとは少し様子の変わった食堂のテーブルに着いていた。

3月もまもなく終わるころで、庭では桜の花がほぼ満開になっている。

玄関には写真立てがあり、そこに飾られた写真には3人が写っている。

外からの光で、その顔ははっきりとは見えない。


梅子はため息をついて、物憂げにテーブルに伏した。

顔を横に向けて、庭を見る。


あれから、15年が経った。

あなたは、わたしを置いていってしまった。

どうしてなの?

わたしは今でも、あなたを焦がれて待っているのに…。


さあっと風が吹いて、散った花びらを巻き上げている。

ハル、どうして…?


「あーあ!」

不意に、食堂の入り口に大きな影が立った。

「寝坊したくせに、まだのんびりしてるの!?」

梅子と同じく少し年を取ったハルは、しかし相変わらずの口調で言った。

「ハルー!」

「何で置いてっちゃうのよ!」

「今日は忙しいのに、寝坊した梅ちゃんが悪いんだよ!」

「買い物は、陽に手伝ってもらったよ」

ハルの後ろには、背の高い少年が買い物袋を手に立っていた。


*****


おれには、秘密というわけではないけど、人に大きな声で言えないことがある。


おれは弥生陽(やよいよう)

オオカミ人間を父親にもつ。


小さいころは、周りもおれと同じだと思っていた。

保育園のお絵かきでお父さんの顔を描こうと言われ、おれは父さんの顔を描いた。

『ようくん、ペットじゃなくてお父さんの顔を描こうね』

事情を知らなかった担任の先生にそう言われ、訳が分からなかったのを覚えている。


小学校に上がると、自分のうちはおかしいのではないかと薄々感じるようになっていた。

父さんは入学式にも来なかったし、父親参観のときもいつも母さんが参加していた。

仲良しの友達のうちに泊まりに行ったとき、そいつのうちの父親を見て驚いた。

あれ、人間なのって。

それを友達に言うと、おまえ何言ってんの?と笑われた。

当たり前だろ?とも言われ、そこでやっと自分の父親が当たり前じゃなかったことに気が付いた。


人間の母親と、オオカミの父親。

「お父さんの半分は人間なのよ」

母さんにそうフォローされたが、父さんはどう見てもオオカミが服を着て喋ったりしてるようにしか見えなかったので、おれは全然慰められた気にならなかった。


小学校の高学年あたりになると思春期に入り、父さんをネタに少し荒れた時期もあった。

でも、母さんも父さんも特に何も言わなかった。

父さんがオオカミであることを変えられないように、おれがそのことで怒るのもまた仕方がないことだと思っていたらしい。

自分だけがワアワア言うのも馬鹿らしくなり、やがておれは何も言わなくなった。


父親がオオカミであることは、何も悪いことばかりではなかった。

おれは母さん似だけど、その体格や身体能力は父さんから受け継いだらしい。

中学生にして170㎝近くの身長があり、足も速い。

そのおかげで陸上部のエースになり、特待生として陸上の強豪校への進学が決まった。

高校は全寮制で、おれはもうじきこのうちを離れることになっている。

「陽がいないと、母さんが心配だよ」

父さんはそう言ったが、実は母さんとまた2人きり(正確には1人と1匹)になれるのを密かに喜んでいる。

年の離れた弟か妹ができてしまうと、おれは少し複雑だな…。


うちを出るおれの送別会と、ここ『Cafe NANASHI』の10周年を祝うため、今日は身内を招いてパーティーをやる。

え?アパートじゃないのって?

そうそう、アパートはずいぶん前に廃業したんだ。


おれが5歳の頃、父さんは思い切ってアパートをやめた。

アパートは元々ひいばあちゃんが大家をやっていて、父さんと母さんが生まれ育った思い出の場所でもあった。

しかしおれが生まれてからは入居者もなかったので、もうやめ時だと思ったのだという。


アパートをやめて、父さんと母さんはその跡地でカフェを始めた。

それが、『Cafe NANASHI』なのだ。

父さんはもともと料理が好きマメなので、それを活かした形になったそうだ。

小さな子どもを抱えての転職は勇気がいったと思うが、「まあ何とかなるんじゃない?」という母さんの一言で決意したらしい。

母さんはよく根拠のない楽観的な発言をすることがあって、おれは子どもながらにどうかと思っていた。

しかし父さんに言わせれば、それで救われることもあるのだという。

そういうもんだろうか。


カフェはめちゃくちゃ流行っているとは言えないまでも、家族3人が食えるほどには繁盛した。

父さんの料理やデザートは旨かったし、母さんの作るヘタウマラテ(ラテアートが下手)も密かな人気メニューらしい。

「梅ちゃんらしくていい」と、父さんも太鼓判を押している。


*****


陽が物思いにふけっていると、突然肩を叩かれる。

驚いて後ろを振り返ると、そこにはあの懐かしい彼がいた。

「きみの驚いた顔、お父さんにそっくりだね」

「陽くん、久しぶり」

「何だヒューイさんか、驚いたー」

「けっこう久しぶりなのにそういう反応するのも、ハルくんに似てるよ…」

いち早く到着したヒューイと陽が話していると、奥からハルが顔を出した。

「何だ、ヒューさんか!来るの早すぎ!」

「…ほらね?」

ハルに手をひらひらと振りながら、ヒューイはつまらなそうに言った。

彼も幾分年を取ったはずだが、そんな様子は微塵も見られなかった。

変わったところといえば、少し髪が伸びたくらいのものだった。


「タローくんももう来るの?」

料理の準備をしているハルの隣で、レタスの葉をむしりながらヒューイが聞いた。

「いや、タローくんは急に来られなくなって」

「へえ、何でまた?」

「奥さんが2週間後に予定日だったんですけど、急に産気づいたみたいで」

「タローくんとこ、次4人目だっけ?早くなるっていうよね、2人目以降は…」

ヒューイは相変わらずレタスをむしり、ハルはゴボウをささがきにしていた。


タローは無事に大学を卒業し、一時はこちらで就職をしていた。

就職先には社員寮があったので、タローはみんなに見送られてななし荘を出たのであった。

しかし運が悪いことにその会社が倒産し、都会に疲れを感じていたこともあり、彼は東北の田舎にUターン。

そこで新しく就職した小さな会社にいた幼なじみと結婚、今では4児の父親である。

陽が生まれる現場に居合わせた彼は、妻の出産にはかならず立ち会うことにしているらしい。

ちなみに、彼の妻はかつてカバっこというあだ名の付いた太めの女の子だった。

子どもの頃は全然意識もしなかった彼女が、大人になって白鳥のようになっていたのに一目ぼれをしたらしい。

まあ、よくある話である。


「お祝いパーティーっていっても、結局はヒューさんだけかー」

「ハルくんて、年くって遠慮がなくなったよね」

ハルの作った料理をテーブルに並べ、送別会兼10周年祝いは始まった。


「陽くんは、もう出発なんだ?」

「はい、もう明後日には」

ヒューイの不思議な目の色に見つめられて、陽は一瞬どきりとした。

「陽ーー!お母さんはもう心配で心配でー」

飲んで既にけっこう出来上がってしまっている梅子が、陽にへばりつく。

「もー、やめて」


そんな2人を見て、ハルは満足そうに微笑んでいる。

「どうしたの?おじいちゃんみたいな顔して」

「ちょ…おじいちゃんは余計でしょ」

以前のような、やり取りが始まる。

タローがななし荘を出てしばらくして、ヒューイもここを離れることになった。

あれだけ人気のあるBL漫画家であったにも関わらず、彼は急にその仕事を辞めると宣言した。

担当編集者の矢島氏を始めとする出版社の面々にずいぶんと止められたようだが、彼の決意は固かった。

ななし荘を出て行った後のヒューイが、どうなったのかは分からなかった。

しかし、彼ならきっとどこでもやっていけるだろう。

ハルはそう思っていた。


ばあちゃん、母さん。

タロー、ヒューイ、梅子、陽。

そして、オオカミの自分。

ななし荘は、ハルにとってのすべてだった。

アパートはもうなくなってしまったけど、思い出は今も心の中にしまってある。


「そういえばさ」

ふと、ヒューイが思い出したように言う。

「アパートの名前」

「はい?」

「何でななし荘だったの?正直、住所書くとき恥ずかしかったんだよね」

「ああ、あれね…」

ハルは、昔祖母に言われたことを思い出していた。


ななしってのは、名前がないってことだよ。

アパートに名前を付けてしまうと、住む人にもそのイメージが付いてしまうだろう?

だからあたしは、『ななし荘』って名前にしたのさ。

どんな場所に住んだって、住んでる人がその名前を決めたらいいのさ。

どの人にとっても、ここをその人にとって意味ある場所にすればいい。

ななし荘には、そんな意味が込められてるんだよ…。


祖母のそんな思いを知っていたハルは、カフェにもその名前を引き継いだ。

名前はいらない。

ただここが、来る人それぞれにとっての大切な場所になりますように。


*****


「こんにちはー」

今日も、Cafe NANASHIにお客がやってきた。

「いらっしゃいませ、ようこそ」

ハルは、声をかける。


ようこそ、Cafe NANASHIへ。

ようこそ、あなたが名前を決める場所へ。


Fin.

とうとう完結いたしました。

拙い物語に、最後までお付き合いいただきましてありがとうございます。

梅子とハルの物語はこれでおしまいですが、また違った形でお会いできるのを楽しみにしています。


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