ヤジマ作戦
ハルと梅子を二人きりにするため、ヒューイが思いついた「ヤジマ作戦」とは?
ハルは、梅子と二人でどのように年越しをするのか?
師走も半ば。
木枯らしの吹く中、ハルとヒューイは屋外で窓ふきをしていた。
「すみません、手伝ってもらっちゃって」
「気にすることはないよ」
「ヒューさんが窓ふきしてくれると助かりますよ」
「梅ちゃんは小さいから、脚立に乗らないと上が届かないし」
そんな世間話をしながら、一人と一匹は時おり寒さに縮こまって作業をしている。
「ハルくん…ボクはもう疲れたんだ」
「そうですか、じゃあ後は俺がやるからいいですよ」
「いやいや、窓の話じゃない」
ヒューイは、汚れた雑巾をバケツで洗っている。
「きみたちのことさ」
「はあ…」
ハルはつい、またかと思ってため息が出る。
「夏以降にいろんなことがあって、きみたちは互いに互いを思っていることを再確認したんじゃないのかい?」
それは確かにそうだ。
梅ちゃんが俺をどう思っているかははっきりとしないけど、少なくとも俺は、梅ちゃんを好きだという自覚はある。
しかし、どうしてこのヒューイという人は、そういうことに鼻が利くのだろうか。
まあ、俺もたびたび相談めいたことしちゃってるしな…。
「三歩進んで二歩下がる、時には四歩も下がる…きみたちのそういう関係に、ボクはもう疲れた」
「はあ…すいませんね」
一応、謝っておく。
疲れたも何も、こっちは注目してくれと頼んだ覚えはないのだが。
「それで決めたんだ」
「何をです?」
ハルは、次の窓を拭きにかかる。
「ハルくん、ボクは年末年始に旅行に出かけようと思う」
「はあ?」
「タローくんは、今年も実家に帰るんだろう?」
「そう聞いてますよ」
「だから、ボクがここからいなくなれば…」
ヒューイはそう言いながら、雑巾をギュッと絞った。
「このななし荘で、きみと梅子ちゃんは二人きりになるわけだよ」
「邪魔者はどこにもいない、正真正銘の二人きり…」
「はあ」
「これは、チャンスだと思わないかい?」
「チャンスって?」
「きみたちが、関係を進行させるためのチャンスだよ」
「…」
ヒューイはそう言うとハルに意味深な一瞥をくれ、窓ふきを再開した。
その後は、何も言うことはなかった。
窓ふきを終え、ヒューイは自室に帰ったようだ。
ハルは、食堂で一服してお茶を飲んでいた。
このアパートで数日の間梅子と二人きりになることを考えると、ハルは急に緊張を感じた。
ヒューイがあんなことを言ったせいもある。
関係を進行させるためのチャンス。
関係の進行とは、具体的にどういうことだろうか。
そんなことを考える自分は、逆にあざとい気がした。
どういうことかって?
そんなことは、よく分かっているはずだった。
*****
ヒューイは、2階の自室で仕事机に向かっていた。
机の上には、某温泉地のパンフレットが置いてある。
ヒューイは、ふふふと笑ってしまう。
それは数日前のこと。
今年最後の仕事終えたとき、担当の矢島が言った。
「先生、今年も本当にお疲れさまでした!」
「こちらこそ、お世話になったね」
ヒューイが笑顔で返すと、矢島は少しモジモジして切り出した。
「あの…その感謝の気持ちを伝えたくて、人気の温泉旅館を予約したんですが…」
「え?」
「よろしければ、行かれませんか?」
「31日から2日までなんですけど」
「年末年始を、温泉地で過ごすか…」
ヒューイは考えていた。
この計画は、何かの役に立つかもしれない…。
「ありがとう、行かせてもらうよ」
ヒューイが笑顔で言うと、矢島は犬のように喜んだ。
そして、ヒューイに温泉地のパンフレットを手渡したのであった。
旅行に行くのは、既に決まっていたことだった。
しかし、ああいう言い方をしたことで、ハルに恩を売れるのではとヒューイは考えていた。
きみたちが心置きなく過ごせるように。
そう恩着せがましく匂わせるで、律儀なハルは行動を起こすのではと考えたのだ。
せっかく、ヒューイさんが気を利かせてくれたのだから。
彼は、きっとそのように考えるのではないだろうか。
ヒューイは、この作戦を心密かに『ヤジマ作戦』と呼んでいた。
*****
その日の晩。
ハルと梅子は並んで台所に立ち、食事の後片付けをしていた。
「ねー、お餅はどれくらい買う?」
「タローくんは、実家に帰るでしょ?わたしとハルと、ヒューイさんの分だから…」
「あの、梅ちゃん」
「何?」
「今回は、俺たちの分だけでいいよ」
「何で?」
「ヒューさん、年末年始に旅行に行くんだってさ…温泉に」
「そうなんだー!いいねー温泉!」
梅子はただうらやましがっている。
「それで、あの…」
今回の年末年始は俺と梅ちゃんだけなんだよ。
さらっと言ってしまえばいいのに、言葉が出てこない。
「じゃあ、大晦日も元旦も、わたしたちだけだね」
「久しぶりじゃない?二人で年越しなんて」
梅子はさらっと言うと、部屋に戻っていった。
その反応に、ハルはどことなく不安を覚えていた。
盛り上がっているのは自分だけなのだろうかという不安であった。
*****
師走が過ぎるのは本当に早く、気付けばもう大晦日になっていた。
お節の準備や大掃除で忙しく、ハルはヒューイが旅行に行くことを忘れそうになっていたくらいだった。
革の旅行バッグを手に出かける彼を見送ったとき、ようやく現実味が増してきた。
その日の午後、昼食を終えた梅子とハルは食堂の大掃除をしていた。
「でもさ、うちはハルがいるから助かるよー」
「同僚の由香里ちゃんはね、仕事納めの後から大掃除するんだって」
「もう毎年慌ただしくってヤダって言ってた」
掃除をしながら梅子はいろいろ喋っているが、ハルはろくに聞いていない。
ヒューイは2日、タローは4日に帰ってくる。
それまでは、梅子と二人きりなのだから…。
最後の大掃除も無事に終わり、ハルと梅子はきれいになった食堂で年越しそばを食べた。
ばあちゃんより受け継いだレシピの出汁で、エビの天ぷらが載っている。
ななし荘では、夕食に年越しそばを食べることにしていた。
それから早めに風呂に入ってしまい、後はのんびりと新年を待つのが習慣であった。
例年の習慣通り、そばを食べた梅子とハルは順に入浴し、食堂の休憩スペースでTVを見始める。
「ハル、まだ後ろが濡れてるじゃん」
「湯冷めしちゃうよ」
そう言って、梅子はハルにドライヤーを丁寧にかけてくれる。
梅子は、小花柄の新しいナイトウェアを着ている。
彼女は、大晦日にはいつも新しい寝間着を着ることにしているらしかった。
ハルはそういうことはなく、いつもの着慣れたスウェット姿だった。
ドライヤーをあてる梅子の手を感じ、ハルはドキドキしてしまう。
梅子は、休憩スペースに出してある炬燵に脚をもぐり込ませる。
ハルは、その横に座るだけで炬燵には入らない。
体中を毛皮に覆われているので、炬燵に入ると暑いのだった。
「ねえねえ、今年も紅白歌バトルでいい?」
「それとも、バラエティ見る?」
チャンネルを変えながら、梅子が聞く。
年越しのTVは、いつも何を見るか特には決まっていなかった。
TVでは、有名アーティストたちが紅白に分かれて歌を披露し合っている。
炬燵の上には、お茶や、剥きかけのミカンが置いてある。
梅子はときどき思い出したようにミカンを口にしては、ゆるゆるとした年越しを楽しんでいるようだった。
一方のハルは、どうしようもない焦燥感に襲われていた。
ハルは、この機会に梅子との関係を進めたいと考えていた。
何をどうしようか具体的にイメージこそしなかったが、求めているゴールが何かは知っていた。
ヒューさんがわざわざ旅行に出かけてくれたのだから。
まさに、ヒューイの思惑通りであった。
時計の針は、無情にもどんどん進んでいく。
それに比例して、ハルの焦りも募っていく。
梅子がいつも通りの年越しをしているのも、ハルにはやりにくかった。
彼女の様子は、ヒューイと3人で迎えた去年の年越しと何ら変わりはないように見える。
せめて彼女が、ここには自分たちしかいないというポイントに、もっと着目してくれたらと思った。
そうすれば、それが突破口になってくれるのに…。
やがて、紅白歌バトルも終了してしまう。
ハルは、いつもなら12時を待たずに寝てしまうこともあるし、翌日の食事の段取りを考えていることもあった。
しかし、今日は違った。
そんなことは、頭に微塵も浮かんでこなかった。
歌番組の後には、年明けまでの短い特番がある。
ここでカウントダウンをし、出演者たちが新年の幕開けを祝うのだ。
ハルの中でも、カウントダウンが始まろうとしていた。
「あー、もういよいよだね」
梅子が、やや姿勢を正して座り直す。
「今年は、けっこういろいろあったよね」
「うん」
最後の10カウントが始まる。
「いろいろあったけど…」
「うん」
残り5秒。
「わたしは…」
残り2秒。
「わたしは、今年もハルと一緒で楽しかったよ」
『新年明けました!おめでとうございまーす!!』
TVでは、出演者たちが大袈裟なほどににぎやかだった。
新年と同時に噴き出した紙吹雪は、まだ雪のように舞っている。
今年が残り1秒になったその瞬間、ハルは梅子にキスをしていた。




