繋ぎ目-橋本隆之介
『全国的に梅雨明けが始まり...』と、どのチャンネルに変えても同じことしか言わない聞き飽きたお天気キャスターのセリフに嫌気がさし、ノートパソコン程度の大きさしかないテレビをリモコンで消す。
海水と潮風を浴びせられ何十年もの間放置されたみたいな、錆び付いた機械の様な重い腰を上げた僕は、フラ付きながら今いる場所から2.33メートル離れたベランダに歩み寄り,
自分の体の三倍程はあるであろう鉄枠で囲まれたガラス窓をあけた。今年31才の男が頭に血が上る程度の力を入れてようやく動いたこの窓は、どうやらぼくの腰よりもよっぽど錆び付いている様だ。
外では丁度、予報外れの雨という名の釘が、真っ昼間の灼熱な太陽に熱されたアスファルトを打ち付け始めたところだった。あたりに黙々と立ち上っているソレは上手く言葉では言い表せないが、一言で表すと言うならば、夏が始まる匂いってヤツではないだろうか。いや、言葉じゃなくてもこれを表現するのは簡単ではない。例えば、才能の優れた音楽家のピアノの旋律だったり。例えば、感覚を絵で表す事ができて世界中の誰しもから評価を得られる芸術家でさえも…
この鼻につくと言うか何と言うか…説明が出来ない無責任な匂いだ。
僕は煙草を口にくわえてマッチで火をつける。が、しかし、マッチはしばらく降り続いた雨のせいで、湿って火が付かない。仕方なくベランダの床の隅に何ヶ月も前から転がっているターボ式のライターを手に取り煙草の先端を炙った。
無責任な匂いと煙を同時に肺の中に入れ、先日あった出来事を思い出しながら煙と溜め息を同時に吐いた。
16才、入学わずか2ヶ月程で高校を中退しはや15年、仕事はまだしも生きる意味さえ見つけられずにいる僕は、毎日近所の公園のベンチに腰を下ろし、自宅から600メートル程離れた場所にある古本屋で、中古で買った文庫本を広げて人生と言う無駄な時間を有意義に利用している。いわゆる暇つぶしと言うやつだ。俺は友達と言うやつも居なければ恋人と言うやつもいないので、年中無休で暇なのである。人間の寿命が80年だとしたら、今僕は31才なので、事故などが起きない限り単純計算であと49年は暇潰しをしなければならない。そう、僕は暇潰しで忙しいのである。
いつもの様にベンチに座り、敬愛する小説家 [柊かおる]の本を広げて暇潰し程度に文学に励んでいると、突然背後から僕の肩に何者かのグーパンが飛んできた。
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31年もの間、僕には恋人という物は存在しなかった。でも1人だけ、好きな子がいた時期があった。それは今から約16.7年ほど前、中学生になった時の話だ。
僕は今と変わらず友達が居なく、授業を除いて学校にいる間にする事と言えば、教室の窓から雲を眺めるぐらいだった。雲には形がある。だが人の感情の様なそれは、すぐに風が形を飲み込んでしまう。今見た雲は、少しでも時間が過ぎれば、まるで別の姿に形を変えてしまう。そんな、時の流れの瞬間瞬間を覗いているようで僕は雲を見ているのが好きだった...
おっと、話の滑車がレールから外れてしまった。これじゃあただの雲トークじゃないか。ズレた話を連結させよう。
一番左後ろの窓際の席、その僕の席の反対にある廊下側の後から2番目の席で、その子はいつも本を読んでいる。誰とも関わらずただひたすらに。同じ長さに揃えられてた前髪や、少しだけ外側に跳ねている襟足を殆ど揺らすこともなく。何かに取り憑かれたかの様にただひたすらに本と向き合っている女の子。その[藤井彩月フジイサツキ]という名前の彼女は、地味か派手かと言われたら答えは直ぐにでる。クラスで一番地味。大地味だ。でもそんな女の子に僕は何処か惹かれていた。
だが僕は、とても女子と話せる勇気と話術は持ち合わせていないので、頭の中でシュミレーション(言い方を悪く言うと妄想)を繰り返して、その子と話した気分になって会話もせずに自分を満足させていた。
それから何事もなく入学から2ヶ月程が過ぎた。少し変化があったと言うならば、僕は雲を眺めている事よりも、その子を眺めている時間の方が多くなった。その程度。
そんなある時、僕に藤井彩月と話す機会が訪れた。
6限の授業が終わり、校門を抜け、いつもの様に下を向いて、視界の上から下へと小川のせせらぎのようにゆっくり流れてゆくアスファルトを眺めながらとぼとぼと自宅の方へ足を泳がせていた時の事だ。
一台の銀色の自転車が後ろから僕を追い越して行った。そこまではいつもと変わらない、良くあることだ。それから少しした後で、僕より10メートル手前の方で
ガシャーン!!!と自転車が倒れる音がした。僕は驚いて顔を上げると、目の前で銀色の自転車と女の子が転がっていた。
『ふ...藤井さん...!?!?』
『だだ...!大丈...夫...?!』
僕は久しぶりに声を出したのと、こんな時、相手になんて声をかけたらいいか分からかったので変なイントネーションでたずねた。
普段なら、この面倒くさそうでたまらない状況に出会った場合は確実に見て見ぬふりをしてスルーしてしまうのだが、転がっていたのが僕の気になっている藤井彩月という女の子だったので気が付いた時には声をかけていた。
そしてもう一つ声を掛けれた最大の理由、それは僕が今日5限の数学の授業中にシュミレーションしていた出来事と全く同じだったからだ。シュミレーションはしておくものだな...と自分にスタンディングオベーションで盛大の拍手を送っているとテンパって今にも泣きだしそうになっている藤井彩月が口を開いた。
『はい、だだだ大丈夫です...えっと...なんか、ペダルが急に軽くなったみたいで...そっ...それでバランス崩しちゃって...それでそれで...』と、まるで早送りと再生ボタンを交互に繰り返しているような喋り方で彼女が答えた。
出血などはしていなかったが転んだ際に左の足首を強く捻ったそうで、立っているのがやっとで歩くとだいぶ痛むらしい。そんな事言われていないのだが、彼女の顔が僕にそう伝えたきた。まあ、これも悪く言うと妄想なのだが...(笑)
自転車はチェーンが外れて壊れている、彼女は足を痛めていて1人で歩けそうもないので、僕はそれから彼女に肩を貸して家まで送っていく事になった。
これが、僕と彼女の存在を繋ぐきっかけだった。
『橋本くん、ありがとう。ここが私の家だから。』
『じゃあ、僕はこれで...』
彼女の家に着き、礼を言われ彼女に別れを告げたと同時に、彼女の母親が丁度家に帰ってきた。
『あら彩月、こんな所でどうしたの?あれ、君は...?』
『僕は藤井彩月さんと同じクラスの橋本隆之介[ハシモトリュウノスケ]です、帰り道に藤井さんが自転車で転んで怪我をしてしまっていた様でそれで...』
僕は彼女の親に挨拶をし、さっきあった出来事を話した。
そして僕は、藤井さんの親に礼を言われ、『良かったら上がっていってちょうだい』と、彼女の家に上がらせてもらうことになった。
いくら気になっている女子の親とはいっても大人と関わるのはあまり得意ではないので、直ぐに帰らせてもらおうと思いながら僕は玄関で白い靴を脱いだ。
それから30分程の間、藤井さんが小さい頃の話、父親は藤井さんが小さい時に亡くなった話、など、初対面にしてはなかなかの内容が濃すぎる話をした。したと言うより一方的に聞かされた。僕は『そうなんですねー』と、相槌を打っている間、藤井さんは一言も喋らずに学校で読んでいたのと同じ本と見つめあっていた。
彼女の母親の昔話が一段落し、ここしかないと思った僕は、存在しない架空の用事を作りだし、彼女の家を後にした。
そんな出来事があった次の日から、僕は藤井さんと少しづつ学校で話すようになり、仲良くなった。それから1ヶ月、桃色の桜の木が緑に
姿を変えた頃、僕らは毎日一緒に帰る様になっていた。
『橋本くんはさぁー、いっつも外ばっかり見てるけど好きな事とかないの?それとも好きな子が空でも飛んでるの?』少し前を歩いていた藤井さんが黒い髪を少し暖かくなり始めた風になびかせながら僕に聞く。
『そんなのないよ。僕が見ているのは外じゃなくて雲だし、だいたい君だってずっと本と見つめあっているじゃないか。そう言う君こそ好きな事はないの?本以外に。それとも本に恋でもしてるの?』と僕が言い返すと、うふふっと、からかった様に彼女が笑う。
『本にはね、人の心を輝かせる素敵な力があるんだよ。私のオススメ貸してあげるから橋本くんも読んでみなよ』
『僕は遠慮しておくよ。小さい頃におばあちゃんに絵本を読んでもらった事があるけど、自分は読んでないけど話を聞いてるだけで蕁麻疹がでてきたんだ。難しすぎてね』
僕は本なんか読まない。漫画は少しだけ読むことはあるのだが、僕は大の活字嫌いなので彼女がいつも読んでいるような小説というやつは最初の一行を見ただけでもきっと吐き気がするだろう。下手したら吐き気どころでは済まないかもしれない。
『ねえ橋本くん、私欲しい本があるから帰りに道にある本屋さんに行きたい! 橋本くんも強制ね!』
彼女に人の話を聞く耳は付いていない。僕の話は聞かず自分の言いたいことだけを言ってくる。僕に断る権利はまるでないみたいに。
『いいけどあまり遅かったら帰るからね』
僕がそう言い終わる前に彼女は『あの本ってさー、あんまり店には置いてないらしいんだよねー』と、次の会話を始め、僕らは書店へと歩き出した。
帰り道にある書店に入るなり彼女は、見つけたドブネズミを追いかける野良猫の様な速さで小説が並ぶ本棚に向かい物色をし始めた。
本嫌いで特にやることがない僕は、隣にある成人向け雑誌を横目でチラチラと覗き見ながら昔自分の家にも置いてあったのと同じ表紙の昆虫図鑑を開いてパラパラとめくる。小さな子供達が見るであろう図鑑コーナーの真隣りに成人向けコーナーを設置すると言うののは、あまり教育によろしくないのではと思いながらふと目に止まった幼き頃からの憧れであった養殖された個体ではない天然オオクワガタの写真に目を宝石ぐらい輝かせていると後ろから彼女の拳が背中に飛んできてどつかれた。痛い。とても痛い。
『欲しい本なかったから次の本屋行くよ!』
機嫌の悪そうな声で彼女は言う。
『あのさ、いくらお探しの本が無いからってそれは人を殴ってもいいって理由にはならないと思うんだけど??大体帰り道にはもう本屋なんてないしそれに』
『あ!あそこの本屋ならもしかしたらあるかも!!』と
またも人の話など聞く耳を持たない彼女は僕が話してる途中にも関わらずに次の話をし始めた。
彼女の言った次の本屋というのは、帰り道どころか自宅までの道とは真反対の場所にあたる所で、その場所まで行ってしまうと僕の天才的頭脳でざっと計算してみたところ、帰宅する道の距離が約二倍程になってしまうので僕は丁重にお断りさせていただいた。はずだったのだが、やっぱり彼女の耳には僕の話など届いていない様で、結局僕は気付けば彼女に制服の袖を引っ張られ付いて行かされる事になった。とても行く気にはならなかったのだが、女子に袖を引っ張られるという行為は不思議と悪い気はしないもので、僕はすんなり受け入れてしまったのだ。
40分程歩き続けてようやく次の書店にたどり着いた。足を止めた瞬間、顔全体から水滴のように粒になった汗が吹き出し、店の前で倒れ込む僕を気にもせずに彼女は店内へと早足で入っていった。
さすがに喉が乾いたので近くにあった自販機でジュースを買おうと砂漠でオアシスでも発見したかのような顔で僕は最後の力を振り絞って立ち上がった。鞄から財布を取り出して小銭入れを開けた時、足の力が突然抜けて目の前に立っていた自販機が下から上へと素早く移動して僕は倒れてしまった。
小銭達が高い音を立てて他方向へと転がって行った。
『死にたい。絶望的だ...』
と僕は呟きながらジュースを飲むために使いたかった最後の力で小銭を拾い集めていると彼女がお花畑に着た少女の様な満面の笑みをこちらに向けてやって来た。
お目当てのモノが見つかったのだろう。
『なにしてるの?ホームレスごっこでもしてるの?リアルホームレス中学生??』
『突然足の力が抜けちゃって尻もちを付いただけだよ。それに読んだこと無いけどホームレス中学生は実話だって話を聞いた事あるからリアル中学生って言葉はちょっとおかしいんじゃないかな』
と僕は彼女に言った。彼女は
ふふーんと笑ってクルクルと回りながらスキップをしている。悔しいが可愛いと思ってしまった自分がいた。
それから僕は小銭を拾い集めただけでジュースを買って飲む時間を与えられずに家に帰った。帰宅した頃には既に門限を一時間程過ぎていてその日は母親にこっ酷く叱られた。






