第二十五話!
「いっっったあ!い、痛い!まじで!勘弁して!」
「ほらじっとして!消毒できない!ちょっと真辺、手掴んでてくれる?」
「……うん。」
深川からの消毒を嫌がっていた俺を、でかい体で後ろから手首をがっちり掴んで固定する真辺。もがいてもびくともしない。レース後だというのに、こいつは衰えを知らんのか!?いや、単に俺の方が疲れてるだけか。
「いたっ!ちょっ、もうちょい優しっ、くっ!」
俺の両手はレースでできた大小、無数の豆が赤い肉をむき出しにしている。レース中も確かに痛かったが、まさかこんな悲惨な状態とは思わなかった。使ったオールのグリップは血で汚れていた。
「ふふっ、観念しなさい。これは加納のためなんだから。」
「ウソつけ!笑いが堪えきれてないわ!―――いってえ!!!」
そんな状態の俺に深川は無慈悲にも消毒液を吹き掛ける。それは勢いよくシュシュッと、軽快なリズムを刻む。
くそ!楽しんでやがるなこいつ!あー!なんかもう声出すのも辛い……。あ、なんか真辺まで笑ってる。
「いつまで遊んでんだー?もうすぐAクルーの試合始まるぞ。」
「やばい、鬼頭さんが呼んでる!行くぞ!」
「あ、逃げた!もう!あとで左手もするから!」
「……スタートしたら逃げられないよ。」
くそ!俺をいじめて楽しいのかお前ら!
「終わったのか?」
「……後で左手もするって宣言されてます。」
桟橋のスタート地点にいる鬼頭さんの横に並ぶ。
「もうすぐスタートだ。試合をみるのも勉強だ。」
「わかってます。あいつがどんな漕ぎするか気になりますからね。本当にすごいんですかね?」
大神 拓海。俺にアウトオブ眼中を決めてくれた栄清のST。同じ一年生でAクルーに乗っている。しかも身長や体重など、俺とさほど変わらないのにだ。
「さあね?それこそ見てみないと―――。」
『各艇その位置!各艇その位置!よーおぉぉーーい!!!』
試合が始まる。Aクルーが気合を入れる。翼を広げ、力を溜めた二艇が羽ばたく。
スターターの旗が今、振られる―――。
『まえっ!!』
―――ドンッ!!!
両校の艇長の声が重なる。二艇とも完璧なスタート。
すごい。Bクルーとは比べ物にならない轟音のキャッチ。鋭く海面すれすれを切り裂くような返し。そして、両舷のタイミングもズレが無い。
―――バキッ!
栄清の三枚目のキャッチで異変が起きた。ST12番がメイン側に落ちてしまっている。大神が飛んだのか?でもいま変な音がしたよな?まるで何かが折れるような―――。
「櫂立て!」
栄清が漕ぐのをやめて両舷が櫂立てを行う。それをみた海青も漕ぐのをやめる。なんだ?なにが起こってるんだ?
「すげえな、あの一年。試合でやった奴を見たのは初めてだな。」
「な、何がどうなってるんですか?試合は?」
苦笑いをしている鬼頭さんに説明を求める。
「スタートから五枚漕ぐまでにオールが折れた時は仕切り直しができるんだ。あの櫂立てはその合図。ルールは知ってたけど、生で見るのは初めてだけどな。STでしかも一枚目ならともかく、三枚目のキャッチで折るとか……。期待のルーキーって話し半分だと思ってたけど、話しの方が半分だったかな。」
折った?オールを?マジで!?どんなキャッチをとったらオールが折れるんだ!?しかもさっきまで俺が漕いでいたオールだ。今は栄清がさっき俺達Bクルーが乗った艇に乗っている。全然折れる気配の無かったオールを折れるほどの力が大神にはあるっていうのか?俺と大神にはどんだけ差があるってんだ?
同じ一年生とか、体格が変わらないとかそんなことは全く関係が無い。たかが一月と少しの練習ではどうにもならない壁。甘かった。
Aクルーの試合の結果は圧倒的だった。海青に目立つミスは無かった。スタート、回頭と完璧だったが、栄清はそのどちらも海青の数段上だった。とにかく速かった。20秒もの差をつけられた。完敗。それ以外に言葉が見つからない。
Aクルーの試合結果が反映される海栄戦の結果は、十年ぶりに栄清漕艇部に勝ちを奪われる形で幕を閉じた。他の部を合わせた海栄戦全体では海青が栄清より勝ち星が多いので、海栄戦は海青の勝利という結果になった。
俺のいるBクルーは勝ったが、それは結果に残らない試合。練習試合と扱いは一緒だ。でも、確かに俺は一本を漕ぎ切った。最後は教えられたことをこれっぽっちもできなかった。それでもSTとしての役目を忘れずに漕ぐ事が出来た。大神にはどんなにあがいても、今は届かない。だけどそれはいつか、いつになっても、必ず追いつく。そして勝つ、絶対に―――。
「大神、さすがのデビュー戦だったな。」
栄清への帰り道。練習船の甲板で景色を見ていたら声をかけられた。誰だった?二年生の……。ああ、Aクルーの4番だ。名前は知らない、覚えてない。
「でも、オールを折るのはやりすぎだぜ。一応むこうさんの備品なわけだし。一本ウン万円だぞ。確かにすげえ目立ったけどな。」
「いや、別に目立とうと思ったわけじゃ……。漕ぐ前から折れてたんですよ。」
「え、そうなん?でも、それならなんでスタート前に言わなかったんだ?折れてたの分かってたんだろ?」
「……特に意味は無いですよ。タイミングが無かっただけです。」
「はは~ん。そんなこといって、やっぱ目立ちたかったんだろ?いや、隠すな隠すな。ギャラリーもたくさんいたから効果は抜群だったぞ。女の子がすご~い!って言ってたの聞こえたもんな。」
なんでおもてのクルーにはおしゃべりなのが多いんだろうか。盛り上げるのが役目なのはわかるけどマジでうるさい。
「ギャラリーなんか気にしてないで試合に集中してくださいよ。ダッシュで引っ掛けてましたよね?あと回頭後のキャッチで切って水散らしてた。」
「うお、なんで?気づいてたのか。後ろに目でもあんのかお前は。わーってるよ、言われなくても次はちゃんとやるっての。」
小姑かよとぼやきながら去って行った。都合が悪くなるといつもこれだ、本当に調子がいい。何がちゃんとやるだ。回頭後のキャッチを完璧に入れることは相当難しい。俺でも力をセーブして、合わせる漕ぎで対応しないと飛んだり切ったりしてしまう。そう、難しいんだ。三年以上漕いできたけど、回頭後の一枚目はどうしても納得いくことがない。
……でも、たぶん、……あいつはやってのけた。俺ができない漕ぎをやったはずだ。じゃないとオールが折れているはずがない。漕ぎ始めて間もない一年生のあいつが。海青BクルーのST12番、加納 春希。
スタートはハッキリ言って論外。それにあの漕ぎ方ではまずオールは折れない。極端にスピードが落ちることもなかったから、試合中に流してはいない。へろへろで帰ってきたあいつにオールを折れる要素は一つもなかった。ただ、右舷に合わせることを忘れなかったのは評価できる。誰しも追い込まれると自分のことで一杯になってしまう。でも、所詮はそれだけだ。だから気付くのが遅れた。スタート直前のロングで折れているのに気付いた。すぐに申告すれば間に合ったけど、イラっとした。だから折った。
あいつがオールを折れる可能性が残っているのは回頭後の一枚目。桟橋からは遠すぎて確認のしようがないその一枚。だからこそ、そこしかない。そこにしか可能性が残っていない。俺が届かない領域にあいつはほんの一瞬、偶然、でも確実に届いたに違いない大きな一枚。
たぶんあいつは気付いていない。それでも俺は、……悔しかった。だから折った。一番目立つスタートで。格の違いを見せつけるために折らずにはいられなかった。
加納 春希。いつかあいつも海青の代表として試合に出る。一年先か二年先か分からないがその時は必ず来る。オールのグリップを血で汚し、その痛みにも我を忘れずSTとして合わせ続けることができる精神力。それを持つ者が上にこないはずがない。だからその時には絶対に負けない。―――俺が勝つ。




