第二章 恋愛(2)
やっぱり、こんな風に水をぐびぐび飲む人はいないんだろうか。何をしていても、村と違う気がしてビクビクしてしまう。
「いや……。ラーラって、いくつ?」
「年齢ですか?」
「そう」
「十七歳です」
すると、口をすぼめてヴィックは感心した。
「美人だから、もう少し大人かと思った」
美人、の言葉にラーラはまたもや顔を赤らめた。
「そういうふうに言われたの、初めてです」
「えー。ウソぉ」
「私が住んでいたところでは、ゼフィラが可愛い可愛いって皆に甘やかされ……愛されていましたから」
思わず本音が漏れ、ラーラは肩をすくめた。ヴィックも笑いをこらえている。
「そっか。ラーラはお姉ちゃんがわりだから、しっかりしてんだな」
おねえちゃん。たぶん、妹の反対の言葉だとラーラは推測した。年上だから、おねえちゃん。いい響きだな、とちょっと嬉しくなった。
「じゃあ、ヴィックさんはいくつなんですか?」
男性に免疫のないラーラだけど、なんとなく年上だということはわかる。
「二十歳。年相応に見える?」
自分よりちょっとだけ上。確かに、そう見える。だから頑張って慣れない敬語を使っていたのだし、年相応といえるだろう。ラーラはうなずいた。
椅子をひっぱり、ラーラの正面に座る。ヴィックは真剣な表情でラーラを見つめた。目をそらしていいかわからず、ただその視線を受け止めていた。
「今度、海見に行こう」
「え、海を?」
そう簡単にいけるところじゃない。何を言い出すんだろうと、ラーラは緊張した。
「そう。ラーラにも見せてあげたいんだ」
どこか遠くを見るように、ヴィックは窓の外を見た。すでに暗闇となっている。ぽつぽつと小さな明かりが映るだけ。
「海はでっかくて、青くて、小さい悩みを全部波の音が消してくれるんだ。海の向こうには新しい国があって、違う人種がたくさんいる。話す言葉が違って、肌の色が違う人間や、ここでは見られないような珍しい生物に出会える」
違う人種。そうか、広い海の向こうには、また違った人間がいるのか。ラーラは興味があった。
いつか、ヴィックとその海を渡り、新しい世界を見る。そんな日がくるのだろうか。
「でも、なんで私と」
ヴィックは手をそっとラーラの髪に伸ばした。動けないラーラは何をされるのか、硬直して見守るしか出来なかった。
「それは……僕が」
それ以上は何も言わず、ヴィックはラーラの黒く美しい髪を撫でた。
そうされることが心地よかった。いつまでもそうして欲しいと思った。けれど、頭の片隅に残る理性が、その手を跳ね除けた。
表情を硬くしたヴィック。その顔を見てラーラは血の気が引く思いだった。
「ごめん、嫌だよね」
ふい、と目をそらした。悲しそうな顔だった。
ヴィックには、いつも笑っていて欲しい。その思いが生まれていたことが恐しかった。何か、知らない自分が顔を出そうとしている。
「そろそろ、ゼフィラを探しに行かなくちゃ……」
寝ている分には楽だけど、体勢を変えようとするとまだ痛む。けれど、いつまでもここにいるわけにはいかない。
なんとなく、早く離れなければいけない気がしていた。
腰に力が入らないと、まともに歩くことも出来ない。悔しい、とこんなにも痛切に思ったのは初めてだった。
「あぁ、無理しないで。明日になったらお医者さんを呼ぼう。そうだ。それまではオーナーの奥さんに湿布を作ってもらおう。結構効くんだ」
明るい声を出し、立ち上がったヴィックを慌てて呼び止めた。
気になる言葉。他の知らない言葉なら聞き流せたかもしれないのに、それだけは絶対聞いておかなければいけないと思った。
「あの、オーナーのおくさんって、誰ですか」
「オーナーは、僕に部屋を貸してくれる初老の男性。奥さんはその妻。夫婦だよ」
「夫婦、って……」
「君にもいるだろ? お父さんとお母さん」
いい加減ラーラの世間知らずぶりに慣れたのか、なんのことはないように言って部屋を出て行った。今の空気が気まずかったのかもしれない。
それよりも、ラーラは胸の鼓動が早くなるのを感じた。
オーナーの妻。妻って、何? 男性の、奥さん? 夫婦?
結婚、という制度を知らないラーラは混乱した。妻という役職がなんなのか、わからない。
君にもいるだろ、という言葉がひっかかる。確かにお母さんはいる。ゼフィラにも。ゼフィラの母にも、母もいる。ラーラの家にはいない。すでに他界している。
けれど、お父さん、なんて人はいない。亡くなっただけかもしれないけれど、それにしても不自然。
やっぱり、自分たちの村はどこかおかしい。グロリアを始め、皆なにかを隠している。知らないことが多すぎる
兄弟、親、男。
足元から、恐怖が迫ってきているような感触があり、思わず足に目をやるが、特に変わったことはない。神経が尖っているようで、なんだか部屋がまぶしく感じた。元々、いつもよりだいぶ明るい部屋だ。
隔離されている。
そう考えるのが妥当な気がした。グロリアたちは、ラーラとゼフィラを隔離していたのだ。
けれど、そうなるとなぜマヤ以外の村の人間までもが外との接触を拒んできたのかがわからない。
人間というのは男と女が揃うのが当たり前なのか。
「じゃあ、私たちは」
思わず声が漏れた。
村に、男性は一人もいない。じゃあ、なぜこの世に生まれることが出来たのだろうか。
窓の外は真っ暗。急に、ゼフィラのことが心配になった。
歯を食いしばり、ラーラは立ち上がった。いつまでもここにはいられない。どこかでゼフィラが泣いているかもしれないのだから。
杖の代わりになりそうなものも無く、壁伝いに歩いた。大丈夫、どうにかひとりで歩ける。
アパートの外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。月明かりが妙に眩しくて、顔を伏せながら、腰を丸めて歩く。
家と家の間の、小さな隙間に体を入れた。そこに腰を下ろす。ちょっと歩いただけなのに、息が上がってしまって仕方ない。
「ラーラ?」
ヴィックの声が聞こえた。もう探しに来たのだ。ラーラは体を縮こませ、影に身を潜める。すぐ脇を、ヴィックが走り抜けていった。ずっと、ラーラの名前を呼びながら。
出来ることなら、ヴィックのところに帰りたかった。けれど、側にいてはいけないような気がしてしまった。
どうしてだろう。どうして、こんな気持ちになったのだろう。
ラーラは自分の気持ちに整理がつかず、混乱していた。
どうして、逃げ出したくなったのだろう。怖かったから。じゃあ、なんで怖かったのだろう。ヴィックは優しかったのに。
自分で自分が理解できず、ラーラは空を見上げた。大きな月が、ラーラを監視しているような気がした。
あのまま、ヴィックの側にいたら、良くない気がする。
それが、ラーラの出せる最大限の答えだった。だから、逃げる。ヴィックから。
だけどもうひとつの心がヴィックの元へと帰りたがっていた。自分の心が二つに裂かれそうになる。
苦しかった。思わず、胸を押さえる。呼吸がうまくできない。
ヴィックに、会いたい。
一番正直な気持ち。
けれど、理性がそれを否定する。
こんなことで悩んでいる暇はない。ゼフィラのことが心配だ。
ラーラはそろり、と家の間から抜け出て、ゼフィラを探しに行こうとした。
が、すぐにふわり、と持ち上げられてしまう。
「見つけた」
ヴィックの優しい、安堵した声が耳にかかる。そのまま抱きあげられてしまう。
ヴィックの首に顔をうずめる形となり、ラーラは力が抜けた。嫌でも鼻を通ってくる匂いは、ラーラを不安にさせ、安心させ、恐怖すら抱かせる。
ヴィックが歩くと、すぐアパートに着いた。逃げ出した割に、たいして動いていなかった。なんだか、妙に恥ずかしい。
「嫌です、私を離してください」
少しもがいてみるが、しっかり抱きしめられる格好となっていて、まるで動かなかった。
「ダメだって、無理したら悪化させる。湿布貼ってあげるから」
部屋に入り、扉を閉める。それに、とヴィックは顔を曇らせた。
「さっきのことは謝るから。そんなに怖がらないで」
違うのだと首を振ろうとした。けれど、頭に血がのぼり、そして次第に涙となって溢れた。
「ごめんなさい……。でも、行かないと。ゼフィラが……」
いきなり泣き出され、ヴィックは慌ててラーラをベッドに座らせた。
「ごめん、本当にごめん」
首を振る。違うのだ。だけど、ヴィックと一緒にいるとダメになる。強くいられなくなってしまう。怖くて怖くて仕方がない。
それ以上に、側にいたくてたまらない。
「ゼフィラが、ゼフィラが」
しゃくりあげながら名前を呟く。けれど心は、ゼフィラにだけ向けられていなかった。目の前のヴィックに、ほとんど奪われている。それが怖い。
まるで、あのときのゼフィラのようだ。
思い出しても寒気がする、ラーラのことを、知らない人でも見るかのような無関心の気持ち。
そうなってはいけないと、口ではゼフィラのことがついて出てくる。
「ゼフィラは、ひとりじゃ何も出来ない。私の大切な人なんです」
可愛い可愛いゼフィラ。家族のように大切なゼフィラ。
しかし、ヴィックは顔をしかめていた。
「ラーラ。君にとって大切な人かもしれないけど、僕はラーラが心配なんだ」
しゃがみこみ、下からラーラを覗き込んできた。その意志の強そうな瞳に、不安が募る。どうしてヴィックが、こんなにもラーラの心を乱すのかわからない。
「私が、心配……?」
うなずき、ヴィックはラーラの黒髪を撫でた。
まただ。またラーラを別の世界につれていこうとする。
「ラーラがゼフィラを思っているのと同じくらい」
その手があまりに優しくて、吸い込まれそうだった。先ほど口にした指先を思い出す。あの快楽はなんだろう。
「ううん、それ以上に、大切かもしれない」
大切。
では、ラーラにとって、ヴィックは大切な人?
その答えが浮かんだ途端、ラーラの心の奥底から、感じたことのない欲望が正体を現し始めた。
「おかしい。そんなはずないわ。だって、私とゼフィラは十六年、ずっと一緒だった。でもあなたと私は、今日出会ったばかりなのよ。お互いのこと、何も知らない」
「時間なんてどうでもいい。僕は、こんな気持ちになったのは初めてなんだ」
いたって、ヴィックは真剣だった。戸惑うラーラは何も言えなくなった。
わかっている。二人にとって時間なんか関係ないことを。皮肉にも、さっき、ラーラとその男を天秤にかけたゼフィラの気持ちがわかってしまったではないか。
心が引き裂かれる。どうにかバランスをとっていたのに、何かが強い力でラーラの理性を消そうとしている。
痛い。ラーラは思わず顔をしかめた。
開けてはいけない、心の箱。そこに、ヴィックが歩み寄ってくる。ラーラの心に触れようとする。
やめて、これ以上、さわらないで。
しかし、その理性は湧き上がる欲望にかき消され、声にならなかった。
ヴィックの瞳に写るラーラ。自分の顔が自分じゃないみたいに見えた。その瞳には、村の人間特有の、マゼンタ色の輪が広がる。
どこかで見た。そう。ゼフィラと最後に会った時。足元から再びぞわぞわと恐怖が登ってきた。やはり、ゼフィラと一緒だ。恐怖に顔が歪む。ヴィックの姿が、どんどんと大きくなる。ラーラに近付いてくる。
危ない。やめて、やめて。
ヴィックは目を見開くラーラに、ためらいながら大きな手を広げ、抱きしめた。
「ごめん、何もしないって言ったのに」
違う、そうじゃない。離れて。お願い。
「ラーラが大切なんだ。まだここにいて欲しい」
初めて、グロリア以外からそんなことを言われた。
少し体を離し、じっと、瞳を覗き込んでくる。
今、ラーラの瞳に異変が起きている。それは鏡を見なくてもわかった。瞳が熱い。狂気の色を増していた。ヴィックは、ラーラの耳に唇を近づけた。
「ラーラ、きみを……」
何かが、体から押し開いて出てきた。
不安や、安心、恐怖の正体。それがようやく分かった。
『人を、愛してはいけないよ』
これが、愛。




