第一章 絵本(2)
「やっぱり家出をしよう」
好機などそうそう訪れるはずもなく、あれから数日たっただけで痺れをきらした。
「まずいって。相当怒られる。特に、ラーラのママは殴るから」
「私は暴力よりも好奇心が勝るの」
食物倉庫として使われる小屋の中、二人は密談を交わしていた。倉庫内はぎゅうぎゅうで、蒸し暑いくらいだった。
結論としては、家出をしてしまうこと。それしかない。
本当なら、こっそり行って帰ってきたかったのだけど、そんな都合のいいことは出来そうもない。
だったら鉄拳制裁覚悟でいくのみ、とラーラは気炎を吐いていた。
「ゼフィラは来なくていいよ。巻き添えは可哀想だから」
しかし、ゼフィラは首を振った。
「ううん。わたしも行く! 今を逃したら、チャンスなんてないもんね」
「よく言った」
つややかな黒髪をぐしゃぐしゃと撫でた。ゼフィラは目を細め、嬉しそうにされるがままになっていた。
ラーラにとって、ゼフィラは肉親のようなものだった。でも親とは違う。なんと表現していいのか、村ではこの関係は何に当てはまるのか、見当もつかなかった。
そのもどかしさも謎もすべて、街に行けば解決してくれる。そんな希望を抱いて二人は家出の計画を綿密にたてていくのだった。
とはいっても、家出のルールすらわからない二人。
置き手紙すら残さず、ある朝、まだ陽も昇りきっていない時間に山を下り始めた。大抵の者が迷うという森も、二人にはなんの障害にもならない。
この不思議な森は、あの村に住む人間にだけは惑いを与えない。
街についたのは、ようやく人々が活動を始める時間だった。
「思ったより、人がいないね」
粗末な服はそのまま、荷物も持たずにやってきた。二人にはお金も知識もない。手ぶらで街まで下りたのは、怖いもの知らずのなせるワザ。
「街っていうから、もっとうじゃうじゃ、いっぱい人がいると思ったんだけど」
マヤから断片的に聞いた様子では、もっと凄い状態を期待していたのだが。もっとも、家はきちんとしている。石造りのしっかりとしたものが多い。
ラーラは絵本だけを手にしていた。二人がいないということで、部屋の中を探されたら困る品だから。バッグすら所持していないから、裸のまま持ち歩く。
二人がきょろきょろとあたりを散策しているうち、人はあっという間に増えてゆく。すたすた歩けた道は混雑し、二人は人に当たらぬよう、道の端に棒立ちになってしまった。
家や商店が活気付き、威勢のいい声や挨拶があちこちで飛び交う。さっきまで広く感じた街が狭くなった気がする。
「ラーラ……」
不安そうに、ゼフィラはラーラの服をつかんだ。顔色が悪い。
「大丈夫だよ」
とはいいつつ、ラーラだって困っていた。こんなに人がいたんだ、という思いでその流れを見つめる。
これが、普通なんだ。
たくさんの家があって、人がいて。
ぼんやりと『人間』というものを見つめていた。
グロリアに勉強を教わり、字の読み書きも数字も数えることも出来る。それで困ったことはないけれど、世の中にはもっとたくさんの学問があるのではないだろうか。
ラーラはワクワクした。これが、求めていた世界なのかもしれない。
だけど、今日はこれ以上の深入りをするのはやめた方がいい。ゼフィラの様子では、あまり無理をさせないほうがいいだろう。
「帰ろうか、ゼフィラ」
今なら、遅くまで森で遊んでいたということにすれば、拳ひとつ分しか怒られることもないだろうし。
そう思い、ゼフィラの手をとろうとした瞬間。
「その本、僕の!」
男の声に心臓がはねた。本能的に、それがラーラに向けられた言葉だと思い、ゼフィラの手を握って走り出す。
奪われてなるものか。これは大切なもの。知らなかった世界を教えてくれるもの。落とした本人に返したくなかった。何も知らないラーラに、罪の意識というものすらなかった。
人と人の間をすり抜けるというのは想像より困難なことだった。いろんな人にぶつかり、それでもただ逃げた。森に帰れば、街の人間は追ってこられない。
だんだんと人の数が減る。もうちょっと、もうちょっと。
髪を乱し、息をきらし、ようやく森の入り口までたどり着いた。人の姿はなく、ようやく落ち着ける、そう思った時。
「ゼフィラ……?」
つないでいたはずの手が、空になっていた。逃げるのに必死で、はぐれてしまったのだ。
戻らなくては。ゼフィラを一人にしておけない。あちこちを見回していたその時、一人の男が目の前に立った。
短髪は、瞳と同じこげ茶色。最初に森で見た人のように毛むくじゃらではなく、清潔感があった。若いからだろうか。ラーラより、少しだけ年上に見える。けれど、やっぱり背が高くて、それだけでラーラは萎縮してしまった。
どうしよう、男だ。
「逃げるの早いんだから」
ラーラが何も言えないでいると、男はきらした息を整えながら、つかつかと近寄ってきた。鼻に漂うは、今までかいだことのない汗臭いにおい。
「それ、僕が小さい頃落とした絵本なんだけど。今更、どこで拾ったの?」
決して悪意ある顔ではなく、微笑すら浮かべている。ラーラには、少し困っているようにも見えた。何に困っているのだろう。小さい頃落とした、ということは、今は別の誰かの手に渡り、めぐり巡ってラーラの手に渡っているということなのだろうか。
対人関係において、ラーラは表情から意思を汲み取ることなど出来なかった。
「大切なの」
「え?」
ようやく搾り出した声は小さすぎて、さらに男は近付いてきた。思わず一歩下がる。
「私たちにとって、大切なものなの。お願い、ください」
初対面の人間に、どうやって懇願していいかわからず、思いつくまま単語で話す。顔が見られずラーラはうつむいたままだった。
男はしばらく黙った。
この人は、怒るのだろうか。怒鳴りつけるだろうか。
おびえながら顔を上げると、男は笑顔になる。
「わかった。幼い頃、祖父が作ってくれた大事な絵本だったけど、いいよ。大事にしてくれるなら」
「いいの?」
優しい言葉にラーラは安堵した。男という生き物は、思ったよりも穏やかな人だった。この絵本と同じように、穏やかな微笑みを見せてくれる。
『そふ』というものが何か分からなかったが、尋ねる前に男は口を開く。
「他にも、街で売っているようなものでよければうちにいっぱいあるよ。そんなに欲しいならあげよっか?」
「本当? 嬉しい。ください」
嬉しくて顔が高揚する。すると、男は少しだけ目を細めた。
「でも、今はちょっと無理だからまた今度」
今度。次はあるのだろうかと、ラーラは不安になる。でも、もっと本が読みたい。
「はい、また」
すると、男は胸のポケットから手帳を取り出し、さらさらと何か書いて寄越した。彼の着ているものはとても綺麗で、ラーラはなんだか情けなくなった。仕立てのいいジャケットは、高貴さを感じさせる。
「これ、僕んちの住所」
見ても、ラーラにはその場所の見当がつかなかった。理解できたのは、ヴィック・オルブライトという名前。これが、彼の名前らしい。ファミリーネームを持たないラーラには、この長い名前が不思議に見えた。
でも、困った。これではたどり着けない。
「あの……」
「何?」
「次も、ここで会ってもらうって出来ませんか?」
森の入り口。街の人は誰も近寄らない。重厚な空気が流れ出てくるように感じる惑いの森。
当然、ヴィックは首をかしげた。
「ごめんなさい。理由は聞かないで欲しいです」
森の奥の、ずっと奥。そこに住んでいることは言いたくなかった。そもそも、あそこに人が住んでるとは思われていないが。
住所も理解できないと思われたくなかった。
「わかった。いいよ」
「ありがとう」
ほっと息をつく。胸に持っていた絵本を抱いた。
「じゃあ、明日。明日の、今の時間でいい?」
確証はないけれど、うなずいた。絶対、来るつもりだ。
「それじゃ」
ヴィックは時間がないのか、その場をすぐに立ち去ろうとした。しかし、数歩進んだところで振り返る。思わずラーラは身構えた。
「名前、聞いてなかった」
「ラーラ、といいます」
そう、とヴィックは笑顔になり、人の多いところへと消えていった。
その後姿が見えなくなると、どっと疲れが出た。
初めて、男の人と、会話をした。
うまくしゃべれただろうか。あれでよかったのだろうか。何か間違いはなかったか。
いろいろ思い返してみるものの、よく思い出せない。それだけ頭はいっぱいだった。ぎゅ、と絵本を握る。
明日、新しい本が手に入るんだ。ゼフィラにも教えてあげたい。
と、そこでゼフィラとはぐれたことを思い出す。大変。探さなくちゃ。
「ラーラ!」
街に戻ろうとしたところ、どすん、と抱きつかれた。犯人はゼフィラ。心配していたわりに、当の本人は顔を赤くし、目を輝かせて楽しそうだった。
「何、どうしたの」
「わたし、恋しちゃったかも!」
「……え、今?」
うふふ、とゼフィラが嬉しそうに、ラーラの肩に頬をくっつけもじもじしていた。まったく心配させて、と呆れ半分、安心半分だった。
「心配したんだから」
「ごめん、でもね、いい人が助けてくれたんだ」
しまりのない口元を手で覆う。助けてくれた人が、恋の相手らしい。
「どんな人?」
人差し指を口元にあて、記憶を探るように宙を見た。
「えーとね、髪の毛が金色で、瞳が緑とか青みたいな色でね、背が高くて、声が低くてね……」
それどころではない。ラーラは大切なことを思い出し、慌ててゼフィラの肩を持ち、揺さぶった。
「ちょっと、忘れたの?」
「え? 何が」
きょとんとラーラを見つめ返す。忘れているな、と感じたラーラは、この希望に満ちた顔が曇るのを想像してため息をついた。それから口を開く。
「私たちは、恋をしてはいけないのよ」
ゆっくり、しっかりと理解できるように言った。すると、ゼフィラはやはり顔を曇らせ、うつむいた。
「そう、だけど……。でもこれがちゃんとした恋じゃないかもしれないじゃない」
そうかもしれないが、この表情を見ると、あながち冗談でもない。
二人にとって、何が本物かもわからない。だからこそ、ラーラは恐れた。直感というのは、恐しいもの。
「それに、どうして恋しちゃいけないかなんて聞いてない。わたし、こういう気持ちになったのは初めてなの」
思いもよらぬ強い瞳で言い返された。そんな顔は初めてだった。
「理由は……私も知らないけど。でも、何も理由がないわけないと思う」
グロリアを始め、村の人たちが理由もなく二人に意地悪しているとは思えない。現に、村の人たちは恋なんてしていない。マヤ以外、村から出ることもないのだから。
それに、ラーラには『恋』というものが理解できていなかった。何を定義として、人は恋をしたというのだろう。
手にした絵本を見つめる。
家族も友人も捨てて、それでも一緒にいたいと思える人。
絵本では、『恋』の定義をそうしていた。そうであることが本気のしるし。
ゼフィラはそういう人を見つけてしまったのだろうか。まだラーラには考えられない。グロリアを捨て、ゼフィラを捨て、見も知らぬ他人に走ることなんて。
「ゼフィラは、その人を私よりも大切に思っているの?」
否定を期待して尋ねてみた。
予想に反し、ゼフィラは困惑した。迷っている。瞳がさまよう。それが、想像以上にショックだった。
ゼフィラにとって十六年間、家族同様に過ごしてきたラーラと、今日、ほんの短い時間知り合った男とのことを天秤にかけられている。そう感じた時、今まで味わったことのない絶望が襲った。
村で毎日同じことしかせず、山も谷もない、感情になんの変化もない毎日だった。
だから、今、この感情はラーラにとって初めての経験だったのだ。まるで深い闇が待ち受ける谷底に突き落とされたような孤独。
どうしたらいいのだろう。今すぐ、村に連れ帰るべきだろうか。
ラーラたちにとって、親という存在は絶対だった。
母一人で、ここまで育ててくれた。言葉も、勉強も、仕事もすべて、教えてくれるのは親なのだ。
そんな人を裏切ることは出来ない。ラーラだけじゃなく、ゼフィラだってそうだと思っていた。
そんなこと、出来るわけがない。甘ったれで、母か祖母、ラーラがいなければ一人で何も出来ない子。村で一番の年下だから、皆から愛されて育った。
しっかりもののラーラと、頼りないゼフィラはいつも比較されている。実際、今日ここに来たのも、ラーラが言い出したからにすぎない。
それなのに、それほどまでに、人を恋しがるというのか。
「じゃあ、ゼフィラは、私や、あなたのお母さんを裏切って、その人のところに行く勇気、ある?」
そう言えば、思いとどまると思った。恋とはいえ、ゼフィラには未経験のこと。いざとなれば、村に帰りたくなるに違いない。
ゼフィラは瞳を揺らした。黒い瞳の淵が、マゼンタに染まる。ラーラは、その時、もうゼフィラから「ラーラの元にいたくないの」と言われた気がした。
「あなた、まさか……」
瞳に拒否され、狼狽した。お願い、待って。もう少し考えたって遅くないよ。そう言いたかったのに、口はそれ以上動かなかった。
ゼフィラ自身が自分の反応に驚いている。
「どうしよう、わたし、わからない……なんで、こんなに悩むの? おかしいわ」
「帰ろう、ゼフィラ。ね」
説得するラーラの姿に、ゼフィラは涙を浮かべた。
「ラーラ、ごめん。ごめんね」
ゼフィラはそういうと、街に向かって駆けていった。
見慣れた顔も、髪の毛も、その後姿も、すべてがラーラの知らないものに見えた。追いかけて、連れ戻さなくちゃ。そう頭では理解しているものの、足が動かなかった。震えている。ゼフィラに拒否されたことが、ラーラの体にダメージを与えていた。
ずっと一緒にいると思っていた。あの村で平和に過ごせると。ゼフィラが裏切るなんて、夢にも思わなかった。
初めて感じるめまい。立っていられなくなり、ラーラはその場にしゃがみこんだ。




