第一章 絵本(1)
青空の下、ひとりで心地よく歌を歌いステップを踏む。黒く長い髪を揺らし、麻のワンピースをひらりとひるがえす。
「ラーラ!」
踊っているラーラの元へ、ひとりの女の子が近寄ってきた。歩幅は狭く、ちょこまかと走っているのか、ただ歩いているのかわからない。本人は一生懸命だけど。
どうしたのだ、と動きを止める。
「なぁに、そんなに慌てて」
ゼフィラに声をかけると、日頃から上気したような頬が、さらに赤くなっていた。
「相変わらず個性的なダンスね」
そういうと、ちょこん、と定位置のラーラの左側に座る。
「ありがとう。私の自慢だから」
ラーラも乱れた呼吸を整えながら、座ることした。
「これ、凄く素敵なお話だった」
差し出したのは、先日ラーラが森の中で拾った本だった。字が大きく、絵がほとんどで、子供向けなのだろうが、二人にとっては新鮮なものでもあった。
おそらく、森で迷った人物が落としたものであろう。赤いドレスを来た女性と、ジャケットをまとう男性が、淡い色彩で描かれている。抱き合うように手を取り合う姿は、新奇なものだった。
体裁は、ひもでくくってあるだけなので、ページがゆるくなっている。土で汚れた絵本を丁寧に受け取り、ゼフィラの可愛らしい頬をつついた。
「やっぱり、ゼフィラにも刺激あった?」
ぶんぶんと首を縦に振り、ゼフィラは目を輝かせた。
「これが、ママの言う恋なんだね!」
絵本に目を落とす。
内容は、一国の姫が、王子様と結婚する。しかしその前に、家臣に恋をしてしまい、最後にはかけおちをするというもの。『うみ』という広い湖に小さな船を浮かべて、幸せそうに旅立つという終わりだった。
かけおち、という言葉もぴんときていない二人だけど、その情熱にすっかり心打たれていた。
「でも、実際にこんなことがあるのかな。かけおち、なんて、皆に迷惑のかかること」
ラーラが首をかしげると、ゼフィラは頬を膨らませた。わずかにひとつ、年下だ。そのわりに、見た目も行動もラーラよりだいぶ幼い。
「あるかないかが問題なんじゃなくて、憧れる、っていう話!」
物心つくまえから、ずっと一緒だった二人。唯一無二の親友として生きてきたけれど、こんなにもいきいきした表情を初めてみた。
「確かに、憧れるけど……」
若干腰を引かせながら、ラーラは頭をかいた。
「どうして、こんなに素敵なコトを、ママはしちゃいけないっていうのかなぁ」
「わからない」
ラーラも、ゼフィラも、幼い頃から異性に恋をしてはいけない、愛してはいけない。そう言われ続けてきた。理由はわからない。聞いても答えはない。
村から出ることも許されないが、成長するにしたがい、外の世界が気になりだした。
そんな思いを募らせ、ある時拘束された生活から逃れるため、ふもとの森に足を踏み入れるようになった。時々、町の人間が迷い込むのを見るために。
その姿を見て、最初は安堵した。
自分たちは、実は異形のものなのではないかと不安に思ったこともあったからだ。だから村から出してもらえないのでは、と。
けれど、皆一緒。年齢は違うが、人の形も、話す言葉も同じだった。なまりがあったり、髪や瞳の色は違かったりするけれど、人間であることに違いない。
声をかけたことはなかった。人とのコミュニケーションを、どうやってとったらいいのかわからないからだ。勇気が出ず、尻込みしている間に人々は帰ってしまい、後悔する。ふもとの森は、なぜだか人を惑わす。ラーラたち以外は村に来ることができない。
「わたしも、恋したくなっちゃった」
あーあー、と伸びをしながら、ゼフィラがころんと横になった。
ここからは、遠くの街並みが見える。人の姿までは捉えられないが、レンガの家だったり、オレンジ色の屋根だったりが、目にまぶしい。
その光景から逃げるように、ラーラも寝転ぶ。空はいつも同じ色。青くて、水のようで、マゼンタで、紫で。毎日退屈、といいつつも、変わらない日々があるのは、なぜだか安心する。
「私も、恋したいな」
手に持った絵本が、みし、と音をたてた。
ポプラの綿毛が舞い始めた。
先ほどの草原から家に帰る途中、空をひとつの白い綿毛が飛んでいった。そろそろ本格的に乱舞するだろう。
その時期は楽しみであり、ちょっと面倒な気もしていた。綿毛が地面を覆うと掃除が大変だから。
コテージのような小屋が五つ並ぶ場所が、ラーラたちが住むところだ。絵本で見たお城の、馬小屋のような家だ。
街からはだいぶ離れている。ふもとから森を抜け、山を登る。草原を渡り、ポプラの木の間を抜けた山の頂に村はある。名もない小さな村。
この村は誰にも存在を知られていない。人が住んでいるとも思われていないだろう。
ゼフィラとは家の前で別れ、おのおのの家に帰る。
「ただいま」
軽い音を立てた戸を閉めるや否や、グロリアの不機嫌な顔が台所からひょっこりのぞいた。
「どこに行っていたの」
「草原。ゼフィラも一緒」
少しおどおどしながら、本当の事を言う。しかし、ラーラの母、グロリアはまだいぶかしんでいた。
「あなた、最近怪しいのよ。あれほど村の外に出るなといっているのに……」
「草原は村の一部でしょ!」
「厳密には違います」
「細かい」
舌打ちをしながら言うと、グロリアは顔を赤くした。
「ダメなものはダメ!」
「どうしてよ」
ふくれながら言うと、グロリアは黙った。
聞いてはいけないことを聞いてしまった、といつも後悔してしまうが、いい加減聞いてもいいのではないだろうか。今日は、引くつもりはなかった。
「母さん?」
あまりに長い沈黙の中、いたたまれなくなりつい母のうつむいた顔をのぞく。すると、グロリアはそのラーラの顔めがけてこぶしを突き出した。
「ちょ、危ないじゃない」
すんでのところでかわしたものの、結構な勢いがあった。もし殴られでもしたら……思わずラーラの背中は凍りつく。
「余計なことを詮索しないで、裏で畑の手伝いでもしなさい」
相当、怒っている。瞳の色は黒いが、この村に住む女はみな、そのふちがマゼンタ色に染まっている。よく見なければわからない程度だが、感情が高ぶるとその比率が増える。まさにグロリアは、その比率が秒単位で増えていた。
「そんなに怒らなくても……」
ぶつぶつ呟きながら、ラーラは粗末な白いワンピースを右手で握った。
「それに、こんなかっこうじゃ街には行けないよ」
諦めたように呟くと、グロリアの目が光る。
「どうして、その格好じゃ街に行けないの?」
まずい。ラーラは内心あせった。
人と比べることなく生きてきた十七年。村には女ばかりが十人しかいない。人数が減ることはあっても増えることはほとんどない。
ラーラよりも年下なのはゼフィラだけだ。しかし、わずかに一歳だけでは、年下とも呼べない。
そんな生活だから、これが当たり前だと思っていた。けれど、森に行くようになって人と比べることを覚えてしまった。
森に迷い込んでくる人間はみな、ラーラたちが身につけているものよりも清潔で、デザインも凝っていた。あれが、普通なんだろうか。街ではきっとそうだ。
そう心の奥底で思っていたことが言葉になってしまった。
「だって、マヤさんが街に行くときはいつも綺麗な格好をするじゃない」
村だけでは生活に必要なものは揃わないから、村で栽培した野菜を売りに街へ下りることもよくあること。その金で、生活に必要なものも買う。
この村で街に下りることが許されているのは、齢三十のマヤだけだった。
グロリアよりも年下の彼女が街に行けるのに、グロリアもラーラもゼフィラも、街に行かせてはもらえない。
その苦し紛れの言い訳を信じたのかどうかは定かではないけれど、グロリアはとりあえず表情を和らげた。
「まあいいわ。とにかく、畑、行きなさい。おいしい夕飯作って待ってるから」
「はぁい」
グロリアの料理は村一番だ、とラーラは思っている。それが毎日の楽しみ。
ワンピースのまま農作業用の下穿きだけを履く。よごれは染み付き、洗濯では落ちない。ワンピースの裾はたくしあげて、腰の位置に紐で縛る。
入ってきたばかりの戸を開け、小屋の裏にある畑に向かった。今は春野菜の収穫だ。腰まで伸びている黒髪を紐でくくり、腕まくりをした。
そこではすでに、ゼフィラが手伝いをしていた。
「母さんに怒られたクチ?」
こっそり耳打ちすると、ゼフィラのボブの髪がくすぐったそうに揺れた。
「ラーラも?」
うなずき合うと、野菜を収穫するふりをしながら会話を続けた。
ここには六名、畑仕事に精をだす女たちがいる。グロリアは織物を作ることが仕事なので、畑仕事はしない。不器用なラーラには手伝えない仕事だ。
「どうして、ここには女の人しかいないんだろう」
土をほじくりながら呟く。
ラーラが森で見た中には、自分たちとは見た目も声も違う人間がいた。口の周りや腕に濃い毛が生えていて、始めは獣の一種かと思ったほどだ。
けれど、何度も森に通うようになり、それが同じ人間で、男という性別を持ったものだと知った。
時にラーラと同じ女性と、仲良く寄り添うようにして歩く。たくましい腕。太い足。ラーラがはじめて見た男という生き物。
それが、この村にはひとりもいない。
「男がいないなんて、ただの偶然じゃない? それに、街に行けばもっといろんな性別がいるかも」
無邪気に言うゼフィラ。
そうかもしれない。けれど、ラーラが見た中では男と女しかいなかった。少なくとも、この村には男がいない。それは今わかる絶対の事実だ。
「外には、きっと、もっと広い世界があるに違いないと思うんだ」
知らないことがたくさんある。間違いなくあるのに、なぜこんなにも隔絶された生活をしているんだろう。
十七年間疑うことなく、それが正しいことだと信じて生きてきた。でも違った。
ラーラの好奇心は、より深い知識を求め、抑圧された心を解放したがっている。
「まさか、ラーラ……」
不安そうな瞳をラーラに向ける。もちろん、ゼフィラの瞳にもマゼンタの輪が出来ている。
「いつか、村を抜け出そうと思う」
え、と大きな声を出そうとするゼフィラの口を押さえる。当然、ゼフィラの顔は土で汚れてしまった。慌ててラーラは手持ちのハンカチでぬぐう。
「家出とかそういうんじゃなくて。森に迷う人を見ているだけじゃつまんない。もっと広い世界のことを知りたいだけ」
「でも、どうやって。ママたち、意外と鋭いよ」
「それが問題なんだよね」
グロリアは一日中家にいる。ちょっと散歩、で森まで行くのが精一杯だ。街まで下りるとなれば、半日は家を開けないといけない。
夜も同じ部屋で寝ている。抜け出したともなれば、行きはまだしも、帰れば怒りの鉄拳を用意したグロリアに制裁を受けるだろう。
「なんかいい方法ないかなぁ」
「行くならわたしも行くよ」
おとなしそうな顔をして、ゼフィラは大胆だ。ラーラはそのつややかで、ふっくらとした頬を指でつついた。
「いい作戦が思いついたらね」
村は、夕焼け空の色になり始めた。
作戦なんかないんだよな、と気落ちし、はぁとため息をつくと「今日はおしまいー」という声が聞こえた。
腰に鈍い痛みを覚えつつ、ラーラは立ち上がった。




