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第五章 闇の森(3)

 その家は、バニラの家からさほど離れていないところにあった。間に二棟の家を挟んでいる。

 とにかく、バニラに家を出るのは一苦労だった。あの兄弟がラーラを離してくれないのだ。

 たった数歩行けば会えるところに行くだけなのに。でも、みんな可愛らしくて、ラーラが離れてしまうことを嫌だ嫌だと泣いてくれた。それを見て、もらい泣きをしてしまいそうになる。が、会って数分なのに、そこまで思ってくれるというのも不思議な気がした。

 空き家だというその家。外観上、バニラの家と見た目が変わっているところはなかった。

 まじまじとその家を眺めていると、バニラは笑いながらドアをあけた。

「別に、獣を飼っているとか、幽霊が出るとかそういうんじゃないから」

 幽霊……って、バニラは信じるんだ。ラーラは調べ物の際目にしたが、全然興味がわかなかった。

なんてことをぼーっと考えていた。それが家に入るのをためらったようにみえたのか、バニラが背中をぐいぐい押して家の中に入れる。

「こわくなーい、こわくなーい」

 そういう暗示をかけられると、余計に怖い。けれど、家の中も格別変わったところはなかった。でも、結構ホコリ臭い。

 リビングには小さなテーブルと、二脚の椅子、ベッドも二つ。まるで、ラーラとバニラが来るのをわかっているかのような家具がそろえられていた。

 ぽすん、と音がしたので振り返ると、バニラがベッドに横になっていた。

「あー、静かだ。毎日うるさくてさー」

 ホコリ臭いのは気にしないようだ。ラーラはちょっと顔の前で手を扇いでみたが、そんなことでホコリ臭さが抜けるとは思えない。

 うるさいほど兄弟がいるなんて、羨ましいな。ラーラは複雑な思いだった。

 とりあえず、窓という窓をすべてあけた。適当にロックをはずし、立て付けの悪い窓を、甲高い音を立てながら開けていく。

 キッチンに向かい、雑巾らしき布を見つけだが、そういえば水がない。

「水、汲んでこなくちゃ」

 喉も渇いていたし、とにかく水だ。

「バニラ?」

 ベッドの方に行くと、バニラは寝息をたてていた。

「どうするのよ……」

 途方にくれてしまう。まったく、よくわからない子だ、とラーラはほほえましく思った。側に座り、その寝顔を見る。

 ゼフィラも、こんな顔をして寝ていた。いつも、楽しそうな夢を見ている、そんな幸せそうな顔。白い肌は上気したように桃色に染まっている。

 思わず、涙がこぼれた。今は一人だから、泣いたっていい、という油断だった。いけない。慌てて拭うと、目を開いているバニラと視線が合った。ラーラは驚いて動きを止める。

「ラーラ、どうしてここに来たの?」

 それは、さっき見せた大人の顔のバニラだった。

 バニラには、話さなくては。せっかくここまでこれたのだから、なんでもいいから教えてもらいたい。

 でも、なかなか口をつくことはなかった。どう話したら、わかってくれるだろうか。

「水、だよね」

 バニラは髪を手グシで整えながら起き上がる。

 まだ、話を保留にしてくれるようだった。

「汚いなぁ。洗わないとダメみたい」

 キッチンに置いてある水がめを、顔をしかめながらよいしょ、と手に持つ。かなり汚れているようだ。

「汲んでくるから、ちょっと待っててね」

「大丈夫? 一人で」

 手伝おうと手を出すが、さっと避けられてしまった。

「お客さんはゆっくりしていてくださいな」

 ね、と無邪気な笑顔を見せ、バニラは家を出て行く。

 なんだか力が抜けて、ラーラはベッドに腰を落とした。ぶわり、とホコリが舞う。ちょっと咳き込みながら、バニラのことを考える。

 不思議な子だ。本当は、ラーラのことをすべて知っているかのような目をし、大人びた顔をする。でも、いつもは親に甘え、弟たちの面倒を見るお姉さん。

 短時間でたくさんの顔を見たラーラは、バニラのことを理解出来ないでいた。

 ところで、どうやってここに来た経緯を説明しようか。誤解を与えてしまえば追い出されてしまうかもしれないし、ある程度本当のことを話さないと科学者の話も聞けないだろう。

 頭をめぐらせて考えていると、すぐに時間がたってしまった。窓の外は日が暮れて、薄い闇が立ち込めていた。バニラが出かけた時、まだ空は夕焼け色だった。

 水を汲む、ってどこまで行ったんだろう。

 それから、いくら待ってもバニラが帰ってこなかった。窓の外では、闇の中にぽっかり月が浮かんでいる。

 ラーラは落ち着きをなくし、うろうろと部屋の中を歩いた。夜目がきくとはいえ、ランプの場所もわからないのは困る。

 ドアを開けて外を見てみるが、バニラはおろか人の気配はない。家の中から、人の声が聞こえるだけ。

 もしかしたら、自宅に戻って遊んでいるのかもしれない。心配し続けてもしかたないから、とりあえずバニラの自宅に行ってみることにした。

 ドアを叩くと、バニラの母親が出てくる。中からふわり、と肉を煮込んでいるような匂いが流れ出てきた。

「あら、えーと、名前はラーラ、だっけ?」

 暗闇に立つラーラを、ちょっと驚いた様子で見る。この村では珍しい黒い髪で、すっかり闇に溶け込んでしまっているせいかもしれない。

「あの、バニラ、帰ってきていませんか? 水を汲みに行ったまま戻らなくて」

 あらま、とバニラの母は目を丸くした。

「お客さんを放って、あの子ったら」

 あまり、驚いてはいない。ラーラは真意を確かめようと、続きを目で促した。

「あの子ね、この山に住む科学者の元に弟子入りしてるの」

「科学者……」

 それが、ラーラの探していた人かもしれない。にわかに胸が高鳴る。

「森で拾った一人目。それで、朝晩構わずふらっとその人のところに行ってしまうんだよ。困った子だよ、ホント」

「じゃあ、私迎えに行きます。場所、教えてくれませんか」

 急ぎたい気持ちを抑え、ラーラは極めて冷静な口調で言った。

「そうだねぇ、今こっちも手が離せないし、お願いするよ。お客さんなのに悪いね。あとで説教だよ、って言っておいて」

「は、はあ」

 この人も、グロリアのように鉄拳制裁をするのだろうか。グロリアは細身だから破壊力はないけれど、この人だったら……ラーラは無意識に背筋を振るわせた。

「場所はわかりやすいけど、一応地図を描くから。中で待って」

 ドアを大きく開き、先ほど通されたリビングが目に入る。子供たちが、テーブルについてぼんやりしていた。それを、タバコをくわえた男性、おそらく子供たちの父が目を細めて見ている。

「あんた、さっき言ったお客さんだよ」

 バニラの母はそういうと、奥へ引っ込んだ。

「はじめまして、ラーラと言います」

 頭を下げると、バニラの父は視線をゆっくり向けた。

「おぉ、君がべっぴんなお客さんか。確かに確かに」

 朗らかな笑顔で言う。バニラの顔は、父親似なのかな、と思った。顔はつるっとしていて、髭でもじゃもじゃしているわけでもない。

「みんな、昼間はあんなに元気だったのにどうしたんですか」

 具合でも悪いのかと思い尋ねてみる。

「いや、お腹がすいて動けないのさ。夕飯待ち」

 そんな忙しい時間に来てしまったのか。ラーラは慌てた。

「ご、ごめんねみんな。すぐ帰るから」

「あ、お姉ちゃん。いたの?」

 ……子供というものは、とてつもなく自由な生き物だ。

「ほら、手貸して」

 黒く細長い石炭のようなもので、ラーラの手の甲の上に地図を書いてゆく。

「悪いね、紙なんて上等なものなくって」

 紙は貴重品。手の甲をメモ代わりにするのはよくあることだ。

 しるしや線を書きながら、ここは水を汲む泉、小川、大きな木、家と説明されていった。

「現在地がここ。んで、ここから出た道をまっすぐ下ると、小川が見えるわけ。水汲みはそこからちょっと横にそれた泉でやってる。で、その小川沿いに歩くと科学者の住む家があるから。小川、本当に小さな川だから、見落とさないようにね。じゃ、よろしく」

 ぱん、と肩を叩かれる。予想通り、結構な破壊力だ。

「ありがとうございます。忙しい時間にすみません」

「いいんだよ。元はといえば、ふらふらしてるバニラが悪いんだから。暗いからランプを持っていきなよ」

 そういうと、リビングの隅にあった古ぼけたランプに油をさし、火をつけてくれた。

「ありがとうございます」

「バニラのこと、よろしくね。夕飯もうじき出来るから、早いとこ帰っといで」

 じゃ、とキッチンに引っ込んでいった。

 リビングで今か今かと夕食を待つ家族に挨拶をして、ラーラは家を出た。

 ランプの明かりは、暗闇に小さな太陽が下りてきたようだった。少し肌寒い。肩をすくめながら、ランプに紙をかざし、山のなだらかな傾斜を下っていった。

 さくさく、と柔らかい土を踏んでいく。ランプをかざすと、真新しい足跡があるのがわかる。おそらくバニラだろう。

 紙に書いてあるとおり、小川の見えるところまで下りてきた。本当に小さい、水路のような川だった。

 迷ったが、もしかしたら泉で具合が悪くなったのかもしれない。川の流れに逆らい泉の方に行く。すぐに泉のある場所に出た。

 そこは草が生い茂っている。一筋、通行用に草が刈られたところを見つけ、そこを歩く。

 泉の淵、ランプであたりをかざすが、その明かりの中にバニラはいなかった。念のため、くまなく探すと、先ほど持っていったカメが置いてあった。触れてみると、水で洗ってある。けれど、中身はからっぽ。そもそも、こんな大きなカメに水を汲んだら、一人で運べないではないか。小さな盥にでもすればいいのに。

 やっぱり、あの科学者のところに行っているのだろう。ラーラは川の流れに沿って歩こうとして……先に水を飲んだ。もう我慢できない。待望の水分に、ラーラは髪を手でくくることも忘れ、泉に口をつけて水を飲んだ。

 かなり、髪は濡れてしまった。しぼると、たっぷりの水分が流れ出た。汚れているせいか、ちょっと脂っぽい。風が髪を撫でる。ぶるり、と体が震えた。まだ夜は肌寒い。二の腕を服の上からさすりつつ、小川沿いに歩く。

 遠く、明かりが見えた。あの小屋だな、とラーラは歩みを早めた。

 小屋の壁面は木の丸太で作られている。この辺りの家はすべてそうなっているから、ここも同じ人が作ったのだろうか。

 川の揺らぎが、月明かりの助けを借りて壁に模様を作る。

 家の側には、大きな木があった。その木に、何かがぶら下がっている。洗濯物? その割に大きいけれど……不審に思ったラーラはランプをかざしてみた。

 その姿を見て、思わず悲鳴が漏れる。人だ。人が吊るされている。

「あ、ラーラじゃん」

 顔を青くしているラーラとは対照的に、そこに吊るされた人は明るく言う。その声に、もう一度ランプをかざした。

「バニラ……何してるの」

 バニラは、体中にロープを巻きつけられていたわけではなく、ロープを使い木によじ登っていた。太い枝にくくりつけたロープを、腕と足でよじ登ろうとしている。

「いやー、ちょっとね……あ、ごめん。水持っていくの忘れてた」

 ぶら下がりながら、荒れた息で言った。

「そういう問題じゃなくて」

 ラーラはその姿を見上げながら、諌める。

「どうしてそういう状況になっているか聞いているの」

「あー、これはですねぇ」

 へへへ、と笑うと、その拍子に体がゆらゆら揺れた。「危ない!」と言う前に、甲高い声が響く。

「うるさいぞ、バニラ! 黙って吊るされていないと〝乙女の二の腕限界突破〟が調べられないではないか」

 いきなり小屋のドアが開いた。思わずラーラの肩はびく、と跳ね上がる。

 おとめのにのうでげんかいとっぱ? なんだそれ、とラーラは必死で知る限りの情報を頭から引き出そうとしたが、無駄だった。そんなこと、知っているわけがない。

「……なんだ、オマエ」

 その人は、金色の髪もぼさぼさで、暗闇でよくわかるほど色の白い、というか青い顔をしていた。不健康を体現しているような痩躯は、猫背のせいか小さく見える。年のころは、ラーラと変わらない。

 嫌だな、とラーラは警戒した。

 旅をしてきて分かったことだが、やはり同年代の男性というのが一番、ラーラにとって危ない。年の離れた子供やおじさんなら平気だが、同年代だと恋心が開きやすい気がする。その度、なるべく顔を合わさないようにしていた。実際、本当に毒が効いているかわからない。

 だが、ラーラの嫌な予感など知るわけもなく、男は冷たい瞳でラーラを見た。

「オマエ、臭いな」

 鼻をひくつかせ、大げさに顔の前で手を振った。ラーラは頭にきたものの、実際体を拭いていないし、着替えもしていない。反論できないでいると、男は面白くなさそうな顔であごをつい、と動かした。

「実験の邪魔だ。帰れ」

 しかし、ラーラは首を振る。ランプが揺れ、男の姿を現したり、消したりする。

 ちょっと痛い言葉だったけど、ここで負けてなるものか、と男を睨んだ。よく見れば結構な美形だけれど、不潔さではラーラよりも上をいっている気がする。

「そういうわけにはいきません。バニラにこんなことさせてひどい人」

 強く言うと、その男はふっと薄ら笑いを浮かべた。自信に満ち溢れた顔だ。

「別に、バニラは好きでやっているだけだ。そうだろ?」

 相変わらずぶら下がっているバニラに、同意を求めた。

「そうなの。あたし、ロクェの役に立ちたいから。大丈夫、心配しないで。危ないことはしてないから」

「今が十分危ない状態じゃないの? 二の腕、ぶるぶるしてるよ?」

 呆れていうと、バニラは照れたようにはにかんだ。

 そうか、バニラはこの変な男、ロクェに恋しているんだ。

 そう思うと、少し安心した。バニラの好きな人なら、自分の気持ちにブレーキがかけやすい。それに、あんまりタイプじゃないな、とラーラは冷静になっていた。これなら、じっくり顔を拝んでも大丈夫だろう。

「部外者は口を出すな。さっさと帰れ」

「そうはいきません。バニラのお母さんから、ちゃんと連れて帰ってくるようにいわれているし、それに……」

 本題が残っている。けれど、今話すべきだろうか。というか、この人に話していいものだろうか。深刻な話だけど、とりあってくれそうもない。相当、おかしい人のようだし、とラーラはロクェをじろじろ見た。


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