星を見上げて
「――明日、引っ越すんだ」
午後9時。誰もいない高層ビルの屋上。トキオとトウヤがいつも天体観測をしている場所だった。
突然のトキオの言葉に、トウヤは覗いていた望遠鏡から顔を上げた。くるっと振り返ったその顔は、ぽかんと口が開いていた。
「え? なんで?」
トウヤのその問いかける言葉に、トキオは俯いた。
そう尋ねたいのはトキオも同じだった。事実、トキオは両親に引っ越すことを告げられて、何度も何度も「なんで?」と問うた。しかし、父親の仕事の都合と言われれば、トキオにはいやだという権利はない。まだ小学五年生でしかない自分が嫌だと駄々をこねたところで、両親が引っ越すのをやめるはずもなかった。
「父さん、今度福岡に転勤になるんだって」
「福岡?」
トキオの口から出た場所が存外遠かったから、くるりとしたトウヤの目はさらに丸くなった。
「うん、福岡って言ってた。父さん、そこの支社の部長とかになるらしくって、俺もよくわかんないけど」
俯きながら、ぼそぼそとトキオが言う。
「福岡か――」
ため息を吐くように息を音しながら呟くトウヤに、トキオは責められているような気がした。
「悪い。ずっと二人で見ようって言ってたのにな」
そう言うと、空を見上げた。午後九時の六月の夜空には、たくさんの星が見えた。昼間の暑い空気が徐々に冷やされていくような、交じり合う空気に瞬く星を見るのが、二人の日課になっていた。
「そうだよ、ずっと二人で見ようって言ったじゃんか」
そう言うトウヤの口ぶりは、すっかり拗ねていた。
「うん……」
泣きたいのはこっちの方だ。トキオはそう言いたくて仕方なかった。だけど、トウヤに責められてもトキオは何も言い返せない。
「見せてくれるって、言ったじゃん。いっぱい、星、見せてくれるって」
そう、トウヤが言う。
「うん……」
トキオは黙って頷いた。それ以外、どうすればいいのかわからなかった。トウヤに責められても仕方ないとは思っていても、実際にそう言われるのはやっぱり悲しい。
「俺だって、トウヤと一緒にずっと星見たかったよ。ずっと一緒に、見ていたかったんだよ」
トキオの素直な気持ちだった。
クラスメートのトウヤとは学校ではあまり話をしなかった。仲良しのグループが違ったし、席も離れている。二人の接点はあまりなかった。
そのトウヤと仲良くなったのは、近所の公園にいるのを見かけた時だった。
――あれ? お前、佐藤じゃないの?
こんなところでなにしてんの?
そうトウヤに声をかけたのは一か月くらい前のことだった。
トキオは塾の帰りで自転車で公園の前を通りかかった時だ。、もう9時を過ぎていた。公園のベンチに座っていたのは、同じクラスの佐藤トウヤだった。声をかけられたトウヤはぱっと立ち上がると、辺りを見回した。そして、声の主がトキオだというのが分かると、見つかったのがまずいというように、なぜかむっと眉をしかめた。
「なんだよ?」
自転車にまたがったトキオを、そう言って睨み付ける。
「なんだよって――こんな時間に公園なんかにいるから、どうしたのかと思ったんだよ」
いきなりむき出しの警戒心を露わにして睨まれて、トキオはなんとなく焦った。自分では気が弱い性質だとは思っていない。だが、そのトキオを怯ませるには十分なトウヤの態度だった。
「別に」
短く答えると、トウヤはふっとトキオから視線を外した。教室では笑顔が多くて、他の奴とは楽しそうにしているトウヤが、何で自分に対してはそんなに突っかかってくるのかわからない。トキオはちょっとイラついた。声をかけただけで、そんなに警戒されるいわれはない。
「別に、ならいいけどよ。じゃあな」
何だよ、そんなに俺が嫌ならいいよ、そう思って自転車で走り出そうとした時に、視界の隅で目を瞠ったトウヤの顔が見えた。その大きな目が縋るように自分を見たのを、見逃さなかった。
「……なんだよ、やっぱり心細いんじゃないか」
トキオは自転車を止めて、呆れたような声をかけると振り返った。自転車が止まるとは思っていなかったのか、項垂れたトウヤが顔を上げてトキオを見た。その驚いた顔が公園の街頭に照らされて、トウヤの顔に映る影が深くなる。
にかっと笑ったトキオに、トウヤは目を泳がせた。
「意地張るなよな」
呆れたようなトキオの声に、トウヤは驚いたようにトキオを見つめているままだった。トウヤがなぜか意地を張っているのは分かっていたから、とりあえず近づいた。本当は心細い心が透けて見えてからは、トウヤに対する遠慮が驚くほどなくなっていった。トキオは驚くほどすんなりとトウヤの横にやってくる。それが意外だというように、トウヤはただ目を丸くしていた。
「何? お前、帰んの?」
公園の入り口に自転車を止めて、走ってここまでやってきて、隣にふつうに並んでいたトキオが、顔を上げてトウヤの方を見た。
「あ、ううん。星見ようと思ってきたんだ」
そういうと、トウヤが空を指さした。
「星?」
トキオが顔を上げる。トウヤが指差した先には星がたくさん見える。
「わ、すげえ。結構見えるのな」
にかっと笑って、トキオがトウヤの方を見る。スポーツをしているトキオの髪は短く刈られている。その硬そうな髪を見て、トウヤの表情がふっと緩んだ。
「うん。今、ちょうど火星が見える時期だから」
トウヤはそういうと、六月の星空を見上げた。トウヤが指差した先には、赤いビー玉みたいな星が見えた。
「あれ、火星?」
「そう。火星見るの好きなんだ。火星の周期が地球とは違うからその時によって見える場所が違うんだけど、今は夕方くらいにこっから中天くらいに見えて、だんだん下がっていくんだ。今はもうだいぶ動いて、下の方だけど」
「へえ、詳しいのな」
意外だった。教室の中では会話したこともなかったからクラスメートの意外な趣味を知って、トキオは素直に驚いた。
「そうだ、俺、天体望遠鏡持ってるぜ」
去年父親が誕生日プレゼントに買ってくれた。トキオは友達の間で流行っているゲーム機とソフトが欲しかったが、昔気質の父親はなぜか子どものリクエストを受け付けてくれない。自分がなってほしい子ども像を自分の息子に押し付けるところがある。だから、誕生日プレゼントはいつも、親が贈りたいものだ。その前の年は野球のグローブだった。キャッチボールがしたかったそうだ。だが、トキオはサッカー小僧で、野球には興味がなかったし、父親も忙しくてキャッチボールをする時間はない。今ではどこに仕舞ったかすら忘れている。というより、まだあるのか? というくらいだ。
トキオが狙った通り、トウヤは食いついてきた。
「天体望遠鏡!? お前の?」
「ああ。去年、父ちゃんが誕生日にくれたんだ。使ってねえんだけど」
使っていないと言いつつ、持っているだけでやけに偉そうに鼻の頭にちょっと触りながら、トキオは胸を張った。
「うわー、いいなぁ」
トウヤが心底羨ましそうにトキオの顔を見る。
トキオはちょっとどきりとした。そんなに素直に友達たちにいいなと言われたのは初めてだった。新しいソフトを買ってみんなの前でやった時も、みんな羨ましがったけれど、ここまでではなかった。羨ましいから自分も買ってもらおう、ぐらいの反応だ。
「親は、買ってくれないだろうしなぁ」
トウヤが諦めたように少しさびしげに笑うと、空を見上げる。
「だったらさ、明日俺持ってくるよ。一緒に見ようぜ!」
いいことを思いついたというように、トキオがぽんと手を叩いていった。
「いいの!?」
トウヤが食いついてくる。
「おう!」
安請け合いもいいところだったが、トキオは大きく頷いた。頷きながらも、明日は塾じゃない日だけど、抜け出してこれるだろうかと頭をよぎった。
そうして、その日はトキオとトウヤは別れた。じゃあ、明日また同じ時間に。と約束をして。
次の日、学校では二人はやはり口を利かなかった。授業中はもちろんだけど、休み時間もグループが違うから話す機会もなかったし、通学路が違うから帰りも同じではなかった。昨日の約束なんて、学校の中では存在しないみたいだったから、トキオは少し不安だった。本当にトウヤが夜九時の公園に来るのだろうか。
来なかったら、俺、ちょっとバカみたいだと思った。昨日のことで、トキオはトウヤに親近感を持って、何度か話しかけようとしたけど、トウヤの方は特にトキオと目を合わせようとはしなかった。話しかけられるのは迷惑といったような、ちょっと壁がある感じのするいつものトウヤだった。
で、トキオが息せき切って公園に走っていくと、昨日と同じベンチにトウヤが座っているのが見えた。今日はトキオは自転車じゃない。肩に望遠鏡が入ったケースを担いで、走ってきた。自転車だとバランスが悪いから、望遠鏡が落ちてしまいそうだったからだ。
「おーい! 佐藤!」
トキオが大声を張り上げると、トウヤが顔を上げた。そしてトキオの姿を見つけると、笑顔になり、片手を上げた。
「寺島、遅かったな」
寺島はトキオの名字だ。寺島時雄がトキオの名前である。
「わり、母ちゃんに見つかった。部屋の窓から降りようとしてまんまと失敗して、二階からおっこった。けがはなかったけれど、派手な音を立てて、母親に見つかったんだ。出してくれないかと思ったけど、星見に行きたいって言ったら、許してくれた」
「えー、大丈夫なのかよ?」
トウヤの顔が心配そうにくもり、トキオをてっぺんから足先まで一通り見た。
「ああ、全然。星見に行きたいって言ったら、すんなり許してくれたぜ」
「え? あ、そっちじゃなくて、怪我だよ。二階からおっこって、よく無事だな」
あきれ顔のトウヤに、トキオが自分の手で体をぱたぱたはたきながら頷いた。
「俺、丈夫だから全然平気」
そして、肩にかけていた望遠鏡を下ろすと、「こっちも無事」と言って笑った。
「そうだ。俺、星よく見える場所知ってんだ。行ってみねえ?」
「こっから近いの?」
「うん。俺の塾の側にあるんだけど、屋上の鍵が開いているビルがあるんだ。西向きだから、火星が良く見えるんじゃないかと思ってさ」
トキオが肩に望遠鏡の黒いソフトケースを担ぎ直した。
「へえ、いいな」
トウヤが乗ってきたから、トキオはトウヤを「行こうぜ」と促して歩き出した。
歩いてそんなにしないうちに、駅の側のそのビルにたどり着いた。十階のビルを階段で登り切り、屋上に出る扉のノブを回すと、扉はガチャガチャと音を立てて簡単に開いた。外に出ると、目の前に星空がずっと近く広がっているような気がした。
「ここなら、よく見えるんじゃねえ?」
十階だから景色がいい。遠くには富士山のシルエットが見える。住宅やビルの明かりが少し下に見えている。ここなら目の前に見える星空を遮るものはなかった。
トキオは早速ソフトケースから望遠鏡を取り出すと、三脚を組み立てて望遠鏡をセッティングする。レンズを調節して、「よし、出来た」と嬉しそうに笑った。
それから望遠鏡を二人で覗いた。トウヤが好きだっていう火星は望遠鏡から覗くと赤かった。本当に名前の通り燃えているような色の星だった。
「へーえ」
トキオが感嘆の声を上げる。トウヤが星を眺めながら、火星にまつわる話をしてくれた。火星探査機キュリオシティが映した青い夕焼けの話とか、太陽系で一番大きい火山オリンポス火山のことだとか。極冠には水が存在していたと教えてくれてから、100年先には人類が移住していると面白いな、とトウヤは笑う。
ほんとにこいつ、火星が好きなんだな。一生懸命話しているトウヤの横顔を見て、それほど打ち込める好きなものがあることに、トキオは感嘆していた。
「明日も、また見せてくれないか?」
トウヤがさっきの笑顔とは全然違う、真面目な顔でトキオを見たから、トキオの鼓動が一瞬だけ早くなった。その真摯なまなざしに、トキオは嫌だとは言えなかった。それに、トキオ自身もトウヤとこうして星を眺めるのも悪くないと思えた。望遠鏡をのぞくのは、思いのほか面白かった。それに、トウヤの話がそれ以上に面白くて、もっと聞いてみたいと思えた。
「いいよ」
またもやまったくの安請け合いだったけど、トキオは頷いて、その日はそこで別れた。返事をした時のトウヤの笑顔が本当に嬉しそうだったから、トキオはまるで自分のことのように心の中が温かくなった。
また、明日な。そう言って、お互い手を振って、その場を後にした。
それから一か月。
二人はそのビルの屋上で、火星の観察をした。毎日九時きっかり。ビルの屋上で待ち合わせた。
そして今日、自分が転校話を切り出したおかげで泣き出しそうなトウヤの顔に、トキオは唇をかみしめていた。
「トキオと、火星を見上げる時間だけが、幸せだったんだ――」
俯いたトウヤの顔がいつもよりも沈んでいるのに、気がついた。
「……ごめん」
トウヤがそんなに星を楽しみにしていたとは、トキオも思っていなかった。教室ではいつもそっけない風だったし、トキオがもうやめよう、といえば、そうだね、ってあっさり返されるんじゃないかって、いつもびくびくしていたのに。だけど教室では寺島と呼ぶのに、ここでは時雄と呼ぶ。トキオもトウヤのことを教室では佐藤と呼んでいる。そんな二人のここでの時間は、確かにトキオも幸せだった。
「俺も、お前と星見るの楽しかった。俺も転校なんてしたくないんだ、本当は」
だから先生には自分がいなくなるまで、引っ越すことを言わないでほしいと頼んだ。別れの言葉をみんなの口から聞きたくなかった。トキオがいなくなったら寂しいよ、そんなことを言った次の日からトキオがいなくなったって、みんな普通に生活していく。当たり前のことで、それをトキオも分かっているけど、やはりどこかむなしさに苛まれる。
俯いて顔を上げると、目の前のトウヤがぽろぽろと涙を流していて、トキオはぎょっとした。
「どうしたんだよ!?」
そんなに俺と星が見たかったのか、とトキオは一瞬期待した。だけど、トウヤの口から出た言葉は、トキオの想像を絶していた。
「……家に、帰りたくないんだ。トキオと星を見ていた時は、家のこと忘れられたから、ほっとできたんだ。だけど、トキオがいなくなったら、星が見られなくなったら、どうやって生きていけばいいんだよ!?」
トウヤの吐き出すような声に、最後はかすれた叫び声になっていた。
「生きてくって、大げさだな、お前」
トキオが笑おうとした時、トウヤがいつも来ている長袖のシャツをそっとめくった。そこには、青黒く変色した皮膚がペロンと乗っかっていた。そこだけ変な色だったから、同じ腕の皮膚だとはトキオには思えなくて、まるで乗っかっているように見えた。
「……これ、母さんにやられたんだ」
本当は、誰にも見られたくなかったんだけど……。トウヤはそうつぶやいた。
「はあ!?」
にわかに信じられなくて、トキオの声が間抜けに響く。自分の母親の顔を思い浮かべて、いくらなんでも、母ちゃんがそんなことしないだろう。なんて考えた。自分の母親がそんなことをする姿が想像できなくて、トウヤの言葉と自分の中の母親が結びつかない。
「ごめん! こんなこと、トキオに言っても仕方ないってわかってるんだ! だけど……」
思いつめたトウヤの視線が、ゆらりと揺れる。トウヤも言ってしまって動揺しているようだった。何でそんなことを口に出してしまったのかと考えるように、自分で自分の両腕を抱えていた。まるで、迷子になってしまった自分の心をぎゅっと自分の中に寄せ集めるように。
「……」
トキオはしばらく、じっとトウヤの顔を見つめていた。そんなこと、嘘や冗談で言うような人間じゃないことを、トキオは分かってる。いつも望遠鏡を覗き込んでいる笑顔のトウヤ。火星の話を楽しそうに教えてくれるトウヤ。そんなトウヤが、嘘をつくはずない。
「……俺、自分のかあちゃんがそんなことするとは思えないから、お前のかあちゃんがそんなことするなんて、信じられないんだけど」
世の中には虐待だとか、そういう言葉をやけにニュースで聞くようになった。そんなの遠いどこか誰かの出来事で、自分の身近にそんなことが本当に存在しているなんて信じられない。
「信じられないんだけど――お前がそう言うなら、信じるよ」
トキオはそういうと、トウヤの顔を見て一つ、頷いた。
「……」
信じるよ、トキオがそう言った時、トウヤははっきりと顔を上げ、トキオをまっすぐに見つめた。目を大きく見開いて、トキオの顔を凝視した。それからゆるゆると表情を変えた。笑ったんじゃない、涙がこぼれないように目をぎゅっと吊り上げ、唇をぎゅっと噛みしめていた。
「うわ! なんだよ! 泣くなよ!」
そんな顔をされるなんて思っていなかったから、戸惑って、うわあと驚き声をあげてしまう。おたおたと辺りを見回したり、トウヤの顔を盗み見たりしてしまう。トウヤは俯いて、涙を袖で拭った。トウヤのそんな顔を初めて見た。教室ではいつも人気者で、笑顔が多かった、そんなトウヤが泣くなんて。
「ごめん。信じるって言ってくれたの、トキオが初めてだったから」
涙を拭いながら、一生懸命戸惑っている自分に気を使って笑顔を作ろうとするトウヤの顔を見て、トキオは自分が妙に子供っぽく思えて、少し情けなかった。もしももっと自分が大人だったら、泣いているトウヤに気の利いたことが言えただろうか。頭の片隅で一瞬考えた、そんな不謹慎とも思える感情を慌てて打ち消した。
トキオはぐるぐると混乱する頭の中で考えた。
信じるって、トキオにとっては当たり前のことだった。自分の両親はトキオのことを信じている。先生も、友達も、トキオは自分を取りまく人間関係の中で、自分は信じられているという安心感を持っていた。それは今まで当たり前に手にしていたものだった。
それが、信じてもらうことが初めてだという同じ年の子どもがいるとは思っていなかった。
だから、家に帰りたくないなんて言うトウヤの人生のことなんて、想像できなかった。
――だけど。
目の前でトウヤは泣いて。その涙を見せることによって、トキオが自分に気を使うであろう事を恥じるように、一生懸命打ち消そうとするトウヤの姿に胸を打たれた。
今、この場から、トウヤを引っ張り上げたかった。もっと、もっと、トウヤを信じる人はいっぱいいるんだということを分かってもらいたい。トキオと同じように、トウヤの友達だってきっとトウヤのことを信じているはずだ。先生だって、他の大人たちだって、トウヤのことを信じている人はいっぱいいるんじゃないだろうかと期待していた。
「そんなの、誰か、他の奴には言ったのか? そうだな、先生とか――」
トキオにとって両親のほかに信用できる大人というのは、身近には先生ぐらいしかいなかった。塾の講師――これはちょっと信用はしてないかな。学校の先生よりも、繋がりは浅い気がするしな。と自分の心の中で分類していく。
すると、トウヤは首を横に振る。
「……昔、先生に言ったことがあるんだ。だけど、何も変わらなかった。ううん。お母さんに、余計なこと言うなって、余計叩かれた……」
何とも寂しい告白に、トキオの背筋が冷たくなった。
本来なら守ってもらうはずの大人に、トウヤはそっぽを向かれているんだ。その絶望感を想像しきれなくて、トキオは目の前のトウヤが耐えていることがどんなに辛い事か理解しきれない。きっと自分が想像しているよりも、もっと辛い事だろうというのだけは、分かったけれど。
「……トウヤ」
トキオがトウヤの両腕をしっかりつかんだ。そして、覗き込むようにまっすぐにトウヤの目を見つめた。
「二人で、どっか行こう」
トウヤの悲しみに、自分の悲しみが呼び起こされた気がした。転校なんて嫌だ、そう言った自分を両親はねじ伏せた。そこにトキオの意見なんてなかった。子どもだから当たり前かもしれないけど、トキオにとってはやっぱりやるせないことだった。親と自分が対等でないと思い知らされた。あの胸の奥がツンとする気持ちを、トウヤは毎日抱えている。それも、おそらく子どもにとって一番つらい形で。
「俺が、どっか遠くに連れて行ってやる!」
トキオが真面目な顔をしてそう言った。トウヤは首を横に振る。
「無理だよ!」
良い意見だと思っていたのに、トウヤが猛然と反対したから、トキオはちょっとムッとした。
「なんでだよ!?」
「だって、どっかって、どこ行くんだよ? 子どもだけじゃ、どこにも行けないよ!」
「行けるよ! 二人で、二人なら行けるよ!」
根拠なんてない自信だった。一人じゃ行けるはずないと思えるけど、トキオはトウヤとなら行ける気がした。誰か、トウヤの話を聞いてくれる人のところまで、どこか二人で行こうと思えた。その妙な自信のあるトキオを見て、トウヤはためらいながら頷いた。
「大丈夫、俺が、お前をどっかに連れて行ってやる!」
トウヤが頷いたとき、トキオは胸を張って笑顔でそう言った。泣きそうなトウヤを慰めるために。
「行こう!」
トキオがトウヤに手を差し伸べる。ためらいがちにトキオの顔を見てから、トウヤはその手を取った。そして、もう一度頷くと、トキオも頷き返した。トキオは天体望遠鏡をばらし始めると、あっという間にケースに収めた。そして、振り返る。それからもう一度、しっかりとトウヤの手を取った。
「行こう」
頷くトウヤに、トキオは笑顔になって走り出した。わ、と小さい声を上げて引っ張られるようにして走り出したトウヤも、重いドアを開けて階段を二人で駆け降りる頃には笑顔になっていた。
ずっと、ずっと、二人は走った。この夜の闇の間に、少しでも遠くに走って行けるように。二人の親が追い付けないところへ行けるように。
そうしたら、二人はきっと明るい日の当たる場所に二人でいられるはずだ。
二人で走って、走って、疲れて途中で立ち止まって、二人でお金を出し合って、すぐ近くにあった自動販売機で缶ジュースを買った。半分こで飲むと、トキオが飲み終わったジュースの缶を空き箱へ入れる。そして二人、また手を繋いだ。もう二人とも足が痛くなってたから、そこからは歩いた。
歩きながら、二人、話していた。
親のこと。家族のこと。先生のこと。友達のこと。
聞けば聞くほど、トウヤの身の上に起きたことが、トキオには理解できなかった。
トウヤには兄がいたこと。兄が死んで、その後に産まれたトウヤは兄の身代わりとして生きていること。その証拠に、トウヤと兄は全く同じ名前だという。そして、母親は兄と同じようにふるまえないトウヤに折檻すること。父親は見て見ぬふりだという。
オレンジリボンという言葉を知って、先生に初めて相談してみた日のこと。
すぐに親を呼ばれて、事情を聴かれたが、先生は親の言うことをうのみにして、どこにも連絡をしてくれなかった。それが元で、もっと折檻がひどくなった。
友達に話したら、それって「ギャクタイ」っていうんでしょ? とからかわれたと言う。
それらの話をトウヤは明るく振る舞いながら言ったけど、トキオには一つも理解できなかった。したくなかった。反吐が出そうだというのは、こういうことを言うのか。やけに胸糞が悪くて仕方ない。
「お前、よくそれで平気だったな」
トウヤを取りまくすべての環境に呆れながらため息を吐くと、トウヤはうーんと考えた。
「それが、当たり前だったから」
今になって、痛いのは嫌だと思うことができるようになったけど、小さいころはそれすらわからなかったといった。痛いよりも、お母さんに捨てられることの方が怖かったってトウヤが笑いながら言う。そんなことを笑いながら言う事じゃないと、トキオは叫びたくなった。
「お前、嫌だったらいやだってちゃんと言えよ!」
無性に腹が立って、トキオはトウヤに怒鳴っていた。それでもトウヤはトキオの言葉に笑っていた。
「うん。でも、トキオが怒ってくれたから、それでいいや」
なんだよ、それ。トキオはいらいらしていた。そんなことだから、ナメられるんだ。俺だったら、俺のことそんな風にしたら、絶対パンチをお見舞いしてやるのに。そんなこと出来るわけもないのに、頭の中でひたすらシミュレーションしていた。
そして、二人でとぼとぼ歩いた。
最初はトキオが勇ましいことを言っていたけど、だんだん言葉も少なくなっていった。トウヤの置かれた環境が普通じゃないってことだけは分かってた。だけど、現実的に考えれば考えるほど、自分がしてあげられることが何もないことに気がついて、トキオの心は急激にしぼんでいった。
そして、夜が明ける。二人とも時計を持っていなかった。
大きな公園の、柱時計を見上げた。5時を指したその時計の針を見て、二人はどちらともなく顔を見合わせた。
――夜が明ける。
「どこにも、行けなかったね」
トウヤがトキオの顔を見た。まるで初めからわかっていたとでも言いたげな、すがすがしい顔をしていた。トキオは切なくなって俯いた。
そして、泣き出したのはトキオの方だった。
「ごめん! ごめん! トウヤ……。俺、お前をどっか遠くに連れてってやろうと思ったのに。誰もお前のことをいじめないところに、連れて行ってやろうと思ったのに!」
地面にしゃがみ込んで、トキオが泣いていた。一緒になってトウヤが座り込む。
二人の足で頑張って歩いたけれど、そこはトキオたちの街から八駅ほど行ったところでしかなかった。
トキオは大きな声を出して泣いた。それを慰めるようにトウヤはトキオの背中をさすると、一緒になって泣いていた。トキオが顔を見上げる。トウヤもトキオの顔を見つめていた。
二人とも、涙でお互いの顔がかすんでしまっていた。
「ありがとう、トキオ。トキオがどっかに連れてってくれるって言った時、嬉しかったよ。大丈夫、トキオが見せてくれた火星を覚えてるから。それで、頑張れる」
かすかな声で、トウヤがそう呟いた。
それから二人は警察に保護され、お互い家に帰った。
トキオは両親にこっぴどく怒られた。そして、さんざん説教された後に、「そんなに引越しが嫌だったとは思わなかった。すまんな」と父親に謝られた。母親は黙ってトキオを抱きしめた。両親は学校へ謝りの挨拶へ行った後、トキオたちは福岡へと引っ越した。
それきり、トウヤがどうなったのか、トキオは知らなかった。家出の理由を聞かれて、トキオは正直に話したけれど、トウヤの家の親子げんかにしか思われず、そうじゃないとトキオが声高に叫んでも、結局うやむやにされてしまった。誰も、子どもの話をまともに受け取らないと言ったトウヤの言葉は正しかったんだと、トキオは己の無力さに怒りが沸いた。
だが、忙しさにかまけるうちに、子どもらしい正義感は鳴りを潜めてしまい、トウヤのことは胸の奥にしまわれてしまった。
「時雄、お前また空見てんの?」
背中をポンと、同じ部活の同級生に叩かれた。
「天文部で、空見ないのはおかしいだろ?」
高校生になった時雄は、天文部に入部した。そして、空を見上げる。
あれから火星の動きを調べることが日課になった。そして、火星が見えるときはいつも、空を見上げた。
「お前、ほんとに初恋の子のこと、忘れられないのな」
からかうような同級生の言葉に、時雄は「うるせぇよ!」と、一言蹴りを入れながら返した。
「時雄にだけ、初恋は実らせねえ!」
悪友が笑いながら、邪魔するようにえいと後ろからじゃれついてくる。
「ほっとけ」
呆れたように、肘で悪友をつつきながら言い返す。
時雄には夢があった。いつかまだ誰も発見したことのない星を見つけて、名前をつけたい。「トウヤ」と。
時雄は願う。
火星を見るのが大好きなあの子が今日も、空を見上げていますように。
もしも星を見上げていたのなら、火星を眺めているのなら、あの子が今日も明日も幸せでありますように――と。
もしもいつか自分が見つけた星がトウヤの星になるなら、彼女の生きる希望となり、生きていく励みになればいい。幼い日々の辛い思い出を、その星に閉じ込めてしまえばいい。その時、彼女に会いに行こう。トウヤの星を持って。
――大丈夫、トキオが見せてくれた火星を覚えてるから。それで、頑張れる――
そう言って笑う彼女の顔は今でも色褪せない。
あまり明るい話ではなく、恋愛が成就したような話ではないので恐縮ですが、読んでくださってありがとうございました。初恋は実らないというので、時雄と桐耶の初恋ですがこんな結末です。【暴君と女神様】の主人公の桐耶の小学生時代の話ですが、本編の“ラスト”に出てくる、公園で空を見上げている小さな主人公のその後のお話です。ここに出てくるビルは、本編の冒頭で飛び降りたビルだったりします。ということは、時雄が空を見上げているときには、ビルから飛び降りちゃってるってことですね。