願いを叶える魔法使い
服の裾で汗を拭い、水筒の水を飲み干す。空を見ると、森に入る前は真上にあった太陽が既に仕事を終えようとしていた。
別段、急ぐ程の事では無い。今日一日で着かねばいけない予定がある訳でも無い。
その筈なのに、私の足は自然と止まらなかった。
「もう、少しなんだ……」
伝え聞いた通りの様をしたこの森に入った時、いや見つけた時から、そう呟いて足腰を奮い立たせている。
私が会いたいと、どうか会いたいと切望した方まであと少し。
山を越え、川を越え、獣に震え迷走しながらも、決して諦められなかった。そこに行けば必ず何かあるのか、私は救われるのか、それは分からない。
だが、少しでも可能性があるなら縋りたいし助かりたい。
私の願いは――――ああ、そんな事に思考を省く暇があるなら、早く足を動かさなければ!
「ッ!」
知らず、駆け出し始める。ふらふらのつま先は木の根に引っ掛かりながらも止める事を知らず、また休む事も無い。
まるで何かに引き寄せられる様に、私は突き進んでいた。
そして、唐突に届く。
「――――」
傾いた日の光に赤く染められた崖の壁面。そこにぽっかりと、私の影すら飲み込む穴がある。大人一人が通れるかどうか程の大きさだ。
頬を伝っていた汗。切らしていた息。疲れで震えていた足。全てが吹っ飛ぶこの衝撃。
理解は出来ていない。だが此処が目的地だと分かる。
何故なら。
「おや、人間とは珍しい」
私は、こんなに人間の様相から外れた人間を知らないのだから。
洞窟の暗闇に浮かび上がる、白蝋を思わせる肌。半目でありながら、私の身体の芯まで見透かす白い瞳。口元は微笑みを浮かべ、心を嘲笑っているかの様。それらを覆いながらもより一層強調させる長い白髪と白の衣。暗闇の黒の中だと言うのに、服や髪の白は違和感無く溶け込んでいる。
第一印象は、冷たい。体温など必要無いとばかりに、最初から持っていない様に見えた。
老齢の気質を感じさせながら、同時に活力に溢れた男の姿にも取れる。青年の若々しさを見せながら、不相応の傍観を持ち合わせそれを御している。
その姿に呑まれそうになりながら――あるいは既に呑まれながら――なんとか口を開く。
「私、は」
「ああ、名乗らなくても構わんよ。世を捨てた様な愚者に名を告げても良い事など無いだろう。
その巣穴に足を運ぶ、と言うのは言わずもがなだが……何、客は久しぶりだ。喜んで歓迎しよう」
滑らかな舌で紡ぐ文言は透明だが、決して全てを透かせない冷たさは氷塊のモノ。もしかしたら、彼の身体自体が氷と水で成っているのかもしれない。
虫の鳴き声よりも森に溶け込む声がこちらに来る様囁き、洞窟の中へと案内される。一瞬、追う事を躊躇うが、疲れきっていたであろう足は自然と動く。
思った以上に穴の中は広く明るく、ちょっとした家の様に見える。だがそこには本来なければいけない人としての営みの痕跡が欠如している。
やはり、此処もどこか冷たい。
「ふむ、取り敢えず着きたまえよ。旅の疲れが顔に出ている」
やはり冷笑のまま、彼はこちらを向く。いや、本当に男なのだろうか。確かに声色は男の様だが、柔らかな顔立ちをしている所為でどちらとも取れてしまう。
とにかく、彼が示した椅子に座る。岩から切り出された、しかし手触りは磨き抜かれた玉の様に滑らかだ。
体重から解放された足を軽く撫でる。解したいとは思うが、そんな事は出来る訳が無い。
何より――――隙を見せれば、恐らくあっと言う間に侵され冒され犯される。
「少しは寛いで貰えると嬉しいよ。私は礼節とは無縁に生きた身故、今この時は堅苦しい礼儀作法なぞ忘れてくれると助かる」
「は、はぁ……」
少しばかり調子が狂うが、思った以上に話は通じるようだ。少なくとも自分の目には、来訪者を喜んでいる様に見える。
その機嫌を崩さぬ様、だが思考以上に逸る口が問い掛ける。
「無礼は承知ですが、話の前に確認させて下さい。あなたは『魔法使い』様で間違いありませんか?」
――――夢物語の中で、物語の核として登場する者。不遇の少女を舞踏会に連れて行き、暗殺を狙う事によって逆に出会いを誘発させる。種族を超えた恋物語には必要不可欠と言っても過言では無い存在、魔法使い。
だが、私の口にしたモノはその様なご都合主義の塊では無い。人間が持つ叡智の結晶、死すとも生ける伝説、賢者……どう言われようとも、指し示す事象は一つ。
それは何人も辿り着けぬ頂に座する、並び立つ者のいない至高の存在。
その本人は、私が言外に含めた意味を理解した上で白い陰を濃くし、答える。
「さて、どうだろうな。私自身はそう名乗った覚えは無いのは確かだよ。
尤も、タチの悪い狂人として国を追われたこの身、どう呼ばれているか興味も無いのもまた確か」
流れる様にそう言うが、完全な否定はしていない。
否定するのも面倒なのか、それとも認めているのか。どちらなのかは分からない。
「ただ、そう呼びたければ呼ぶと良い。生憎、人に教えられる名を持っていないのでね」
「……あなたの名前を王都で知らない人間の方が少ないでしょう」
「ほう。もし良ければ、どの様な名が伝わっているのか教えてはくれないか。もしかしたら、私が無くした名前が古巣に残っていたのやも知れぬ」
口ではそう言いつつも、無関心である事は愚者でも分かる。だがまぁ、自身の興味から外れたものにはそういうものなのだろう。
「いえ、必要はありません。わたしが知っている名前は、あなたの本質を捉えられていない。この様にお会いして、その事が良く分かりました」
「なかなか面白い事を言う。では君は、本質を語らぬ名前には価値が無いと?」
「名前とはラベルの様なものでしょう。中身が絵の具だと言うのに、ジャムやソースと書いて置くのはあまりにも違い過ぎます」
私の喩えが気に入ったのか、破顔とまではいかないものの、微かな笑い声を出す。
「やはり穴蔵に籠もってばかりいるのは駄目だ。この様な刺激が足りない。長年の悪癖は治さねばね。
それならば、『魔法使い』と言う呼称は正しいな。尤も、君が本当に私の本質を捉えているかは分からないが」
白い目が向けられる。橙色の灯りが闇からくり抜くその姿は、この世にあり得ざる姿に見えた。
「君は私を悪魔の様と言うかもしれないが、私はアレより慈悲のある者だと思うよ。
何せ私は――――――――」
続く言葉の意味は良く分からない。言葉と成っていたのかも疑わしい。
それでも彼は、何か本能から忌むべき言葉を発したのだろう。私の頭の奥から響く痛みは、それを必死に排斥しようとしているのだろうか。
「ふむ、少し話し過ぎてしまったか。会うのもそうだが、何かを語るのは本当に久しぶりだったのだよ。許して欲しい。
――――では本題だ、君に問う。君の望みは何かね?」
悪魔よりも悪魔らしい。否、悪魔と形容するにはコレは大きすぎる。
「ああ、悪魔と言いたくなるのは分かるがね。願いと魂を等価とする愚者と私を一緒にしないで貰えるかな。私はただ、君に望みに合った魔法を授け、どうなっていくのかを見たいだけなのだよ。君から対価を望む事は何も無い」
とすれば、神か。いや、それにしては人に近い。神殿にて奉られるべき神がこの様な辺鄙な土地にいるものか。
「私の『趣味』はね、君の様に求めている者の望みを叶える為に、術を譲る事なのだよ。正確に言えば少し異なるが、君が気にする必要は皆無だ」
だから、さぁ、と。私の姿を映し出す白鏡の瞳が見開かれて、問いが投げられる。
「君の望みは何かね?」
◇
悪魔の誘いとは、あの様な事を指すのだろう。いや、これは単なる比喩。実際には筆舌で表す事は不可能だ。
私の表現力が足りない、と言えればいいのだが、ともすればこの世のあらゆる存在が彼を計る事には使えないのでは無いか。
だが、もしかしたら。『魔法』に身を投じた者ならば、彼が理解出来るのかもしれない。尤も、彼は理解しても良い者かは分からないが。
私は、逃げてしまった。彼が余りに……いや、これも語るべきでは無い。人の認識には齟齬がある。会えば、話せば、必ず分かる。
私がこうやって記しているのには、ある理由からだ。あの魔法使い様が只帰す訳が無いとは分かっていた。
言わば私は、宣伝係の様なものだ。こうやって流暢に筆を走らせる事が出来る所を見ると、やはり私は何かされたのだろうか。まぁそれは良い。
宣伝とは、言わずとも分かるだろう。彼、魔法使い様の住まいを知らせ、人を呼び寄せると言う事だ。
私が彼の居場所を知ったのは偶然であったが、君達がこれを読んで知ったのであれば、それは恐らく偶然では無い。そこに行きたいと願ったのなら断言出来る。
それは、彼によって起こるべくして起こされた偶然だと。ともすれば、私が知った因もそうかも知れない。
どうにせよ、私は私の職務を果たす。数冊しか出版するつもりは無いが、彼を伝えるのには十分だろう。誰かに目を付けられるのは御免だ。
それにきっと、私が何冊出し、何処に販売を頼み、誰が買うのかも、彼は予測しているだろう。まさか、と思うだろう? 私もそう思いたい。だが、彼とはそう言う存在だ。
では最後に、彼の言葉をもって締めくくろう。
『君に問う。君の望みは何かね?』