(08) - 死と決断
「……カナメ」
オブジェクトを殴り続ける俺の拳を止めたのは、細い、少女の指だった。
リンだ。声だけですらも分かる存在。
彼女の細い指が、俺の拳を優しく包んでいた。
「カナメ……もう」
見上げれば、彼女の瞳は、どこか少し潤んでいた。
アンタが泣く理由はない――そう言おうとして、俺はようやく気付いた。
コイツの性格。たとえ他人事だろうが、それを他人事と思わないお節介。
彼女は、ここに来てから今までの、俺の行動を見ていたのだ。俺の悲しみと慟哭を読み取って、だから、それがまた彼女を悲しませて……。
「お前に、何が分かる……」
気がつけば、口の中から這い出た言葉は、そんなものだった。
「お前に何が分かるんだよ……赤の他人のお前に……ッ!」
立ち上がり、そしてリンに詰め寄って、襟元を掴み上げた。
「何なんだ……何なんだよアンタは! 何がカナメだ! 何がリンだッ! アンタはただの他人だろうが!! 知った風な口を利いて……ッ!」
「…………」
「アイツらが待ってる……待ってるのに! 俺は! 俺はなぁ……!」
ぐっ、と喉が詰まり、手がほどける。そして、俺は地面に突っ伏した。
分からない。分からない。俺は――何をしてるんだ。
こんなところで、わけがわからなくて、リンに当たって、だけど何もできなくて。
俺は弱い――何もできず何もわからず、ただ喚いているだけの子供だ。
しかし――そんな俺の背に、そっと、指が触れた。
「……私には分からない。君の想い、君の辛さ……君が何を抱えてるのかも。分かってあげられない」
けれど、と……その優しい指が、まるで母が子をあやすように、俺の髪へと触れて。
「辛い時、苦しい時は、泣けばいい。何も分からない私だが……君の傍に、いてやることぐらいは――」
俺は……俺は――っ!
そして、その瞬間。
絹を裂くような悲鳴が、俺達を切り裂いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「なっ……!?」
はっと、俺は顔を上げる。
見ればリンも、驚いたように背後を振り返っていた。
「い、今のは……?」
悲鳴だった。それも、ちょっとしたものではない。かなり本気の……まるで、命の危機に直面したかのような悲鳴。その切羽詰まった叫び声に、一瞬、自分がどういう状況なのかも忘れた。
しかし聞こえてきたのは、悲鳴だけではなかった。
男の声。女の声。慌ただしく走り出す音。もう一度の悲鳴、そして怒号。
俺たちは思わず立ち上がると、リンがちらりと俺を一瞥し、一瞬不安そうな顔をして……しかしすぐにそれを引き締めた。
「こっちだ」
リンは方向を指し示し、走り出す。俺もその後へと続いた。
悲鳴。実のところ、VRMMOにおいてプレイヤーを驚かせるような仕掛けは、そう少なくない。
しかし総じて、VRMMOのプレイヤーたちは豪胆だ。ましてや悲鳴ともなると……一体何が起こっているのか。
待て、というリンのサインに従い、俺は足を止めた。そこは小高い崖の上だった。高低差はあるがなだらかで、滑り下りることもできるだろう。
――と、リンが、崖の下を指差した。それに従って、俺も崖の下へと目線を向ける。
「……モンスター?」
モンスターが、いた。三匹……やや遠目で見えづらいが、見覚えがある。大剣を持った二足歩行のトカゲ。いわゆる典型的なリザードマンだが、身につける鎧はどこか豪華だ。
「ジェネラルリザード……?」
Cクラス、割と強敵に位置するモンスターだ。そしてその三匹のモンスターは、どうやら、近くで転倒している馬車を襲っているようだった。
よくは見えない。遠目な上に崖の下は森であり、その木々が邪魔になっているのだ。
(何だ? イベントか?)
しかしその割には、どこかおかしい。襲われる側のプレイヤーたちが……どう見ても、完全に恐慌している。怖いとか恐ろしいとか言った風ではなく、恐慌と狂乱。
我先にと走りだし、前の人間を突き飛ばして、足をもつれさせ、それでもまだ前へ前へ。半ば人間の本能でしかない走り方に、俺は若干混乱した。なぜあそこまで恐れる?
「くっ、なぜこんなところに、あんなモンスターが……!」
「リン?」
見れば隣では、腹立たしげに彼女が唇を噛んでいた。
確かにジェネラルリザードは、普通こんなところに出現しない。基本的には、ダンジョンに生息するはずのモンスターだからだ。しかしそれがイベントであるなら、その条件は適応されないはずだ。
リンはちらりと俺を見ると、やや逡巡して、しかし即断した。
「彼らに加勢する! いいか、君は絶対にここから出るな。たとえが何があってもだ!」
「お、おいっ?」
言うや否や、リンは崖を滑り降りていった。滑り下りてもモンスターからはやや距離があるから、奇襲攻撃にはならないだろうが……。
「何があっても、って……」
どういう意味なんだろう?
たとえここで俺やリンがやられても、それは町でリスポーンするだけのことだ。確かにいくらかの経験値や金、アイテムは失うかもしれないが、言ってしまえばそれだけに過ぎない。
そんなことを考えている俺の耳に、また誰かの叫び声が聞こえ、改めてそちらを見やった。
プレイヤーが、モンスターを迎撃している……ように見える。そしてその周囲では、モンスターからどうにか逃れたらしい人々が、不安げにそれを見つめていた。
だが、詳しい状況までは、さすがにこの距離では判然としない。
「……そうだ」
不意に思い付き、インベントリーを出現させた。そこから、初期アイテムの望遠鏡を取り出し、具現化させる。これを使えばよく見えるはずだ。
戦っているプレイヤーたちに、望遠鏡の照準を合わせる。
「ん? あれは……」
前線で戦っている、緑色の髪の女性。どうも見覚えがある。
そう、あれは確か昨日。表通りで座りこんでいた俺を心配して、声をかけてくれたプレイヤーだ。どうやら彼女は、馬車を護衛する類のクエストを受けているらしい。
なおのこと、リンのことが心配だった。勝手に戦闘に介入するのは、横殴りと呼ばれるマナー違反であり、面倒になるのではないかと――。
……と。
不意に、ジェネラルリザードの振るった大剣が、緑髪の女性プレイヤーの剣をはじいた。大きく上体が開く。
それは致命的な隙。クリティカルヒットをもらわざるを得ない状況。「待てっ!」という、リンの鋭い声。
そして、次いで振るわれたジェネラルリザードの大剣が、女性プレイヤーの片腕を断ち切った。
「……え?」
飛んでいく腕。噴き出す大量の血。そして激痛にもだえ、傷口を抱える女性。
動きを止めざるを得なかった女性の頭を、ジェネラルリザードは大口を開けて、ガブリと噛みついて……そして、そのまま引きちぎった。
「きゃああぁあああああ!!!」
悲鳴。それは誰のものなのか。だがそんなことなど、もはや気にならなかった。
首を失った女性の死体が、がくり、と膝をつく。ぷしゅう、と鮮血が宙に舞い……その五体に大剣を突き立て、捕食を続けるトカゲ男。それにもう一匹が加わって、まるで貪られるように喰らい尽くされていく。
ぐちゃり、べちゃり、ずちゃり、という生々しい音と共に……ようやく、俺の思考は正気に戻った。
(なんだあれは? ……なに?)
ジェネラルリザードの大剣が、女性プレイヤーを殺し、そして喰っている。眼前の光景はそれそのものであった。だは……しかし、そんなことはありえない、はずだ。
モンスターは人を捕食しない。部位欠損に痛みは発生しない。そしてこのゲームにおいて、ああまで大量の流血はありえず、無論死体が貪られることもありえない。
死んだプレイヤーは、蒼い光の粒となって消えるだけなのだ。それだけのはずなのだ。しかし……でも、眼前の、あのプレイヤーは……。
(消え……ない)
消えていない。消えることはない。リザードマンたちは飽きるまで死体を喰らい、貪り、その肉を呑みこんで血を啜っている。
ありえない。ありえない。ありえないが……しかしそれは圧倒的なリアルで、俺にひとつの真実を訴えかけていた。
即ち。
あの女性プレイヤーは死んで。
そして、二度と生き返ることはないという真実を。
(なんなんだこれは……なんなんだ!)
この日、俺がこの世界に来て最大の、そして最悪の混乱を味わっていた。
胃の中身が喉元までせりあがりかけ、それを必死にこらえた。そして眼前で繰り広げられる凄惨な光景から、俺は目が離せない。
「うおおおぉおおお!!」
捕食を続ける二匹のリザードマンに、横合いから、雄叫びを上げて女性の影が打ちかかった。リンだ。
その凄惨な光景にひるんだ風もない。あるいは怯んでいるのかもしれないが、しかし自分を鼓舞して剣を振るい、突撃していく。
そして二匹のリザードマンがその突撃に反応し、大剣を掲げた。
俺はその光景を、信じられない思いで見つめていた。
Cランクの雑魚モンスター。ただそれだけなら、リンが苦戦するはずなどありえない。それはよく知っていた。
しかし、死体を貪り続けるリザードマンたちは……どんなランクの、どんなユニークモンスターよりもおぞましく、そして恐ろしい存在に見えた。
二対一。次々と襲いかかる連撃に、リンは両の手に持った剣で凌ぎ続けるが……だが押しこまれていく。それも、今なお一匹のリザードマンに虐殺され続ける、群衆とは反対方向へ。
「いやああぁぁあああ!!」
再びの悲鳴に振り向けば、死体を無視して逃げた群衆へと向かった一匹のジェネラルリザードが、また一人、今度は男を大剣ですりつぶしていた。
そして恐らく、彼が護衛の最後の一人であり……呆然と立ちつくす他の人間は、防具らしい防具も見当たらない。
――そして、そこから先は、もはや虐殺でしかありえなかった。
恐怖によって塗りつぶされた集団は、一人、また一人と、ろくな抵抗もできずにジェネラルリザードの餌食になっていく。
鳴り響くのは怒号、号泣、悲鳴、狂乱、そして人肉の音。
どうやら捕食よりも殺戮を優先しているらしいそいつの思考ルーチンは、逃げ惑う男女たちを一人ずつ、大剣で首を飛ばし、足を飛ばし、そして心臓を切り裂いた。
それを、上から見下ろしながら……俺は戦慄とともに確信した。
――それは、死だ。
本物の死。キャラクターのヒットポイントがゼロになり、町へとリスポーンするそれではない。斬り、喰らい、殺し尽くす。それは本物の死。
ふと、俺の脳裏に、ある言葉がよぎった。
――ゲームの中で死ねば、現実でも死ぬ……そんな話――
それはかつて、俺が馬鹿らしいと否定したそのものだ。
しかし現実に、目の前のこれは何だ? 俺はあの状態になっても、果たして生きてるのか? 何事もなかったかのように街にリスポーンして……。
(いや……)
ありえない。……ありえない。……ありえない!!
あれは死だ。あれはどうしようもない理不尽だ。ヒットポイントがどうとか、そんなものはオマケでしかない。ヒットポイントがゼロになれば死ぬのではなく、死ねばヒットポイントがゼロになる。
凄惨な死の現実を前にして、数値がどうのなどという言葉は、戯言以上の何物でもなかった。
あれは……あれは死だ。他の連中と同じように、あの大剣に潰されれば、俺は……。
(俺は……死ぬ!?)
冷たい戦慄が背筋を駆け抜けると同時、聞こえてきたのは、女性の叫び声だった。
「姉さん!?」
それはリンのものではない。無論、俺の言った言葉でもなかった。
望遠鏡で声の方向を見れば、二人の女性が見えた。二人とも、手と足に枷をはめられている。あれではとてもではないが逃げられない。
腰を抜かしているのだろう、尻もちをついて動けない、長い銀髪の少女。そしてその眼前に、同じく銀髪の、しかしこちらは髪型をショートカットにした女性が背を向けて立っていた。
姉さん、と言った彼女の声が聞こえた。つまり、あの二人は姉妹であり……。
「……大丈夫。シルファは、私が守る」
「駄目……駄目、フォリア姉さん!」
シルファ、と呼ばれた長い髪の少女は、這うようにして姉を目指す。だがフォリアと呼ばれた姉のほうは、ただ優しく微笑むだけだった。
そして、前へ。枷はどうしたのかと望遠鏡を巡らせれば、混乱の中で壊れたのだろう、両足の枷を繋ぐ鎖がちぎれていた。
そして彼女が何をするつもりなのか、俺は気づいた。
「捨て身かよ……!」
彼女の手には、誰かの死体から取ったのだろう一振りの杖があった。
恐らく、彼女は魔法を使うつもりだ。それも遠距離からではなく、至近距離から。
零距離魔法、と呼ばれるものがある。
本来、魔法と呼ばれるものは、≪メイジ≫系列のクラスでなければ使用できない。
だが零距離魔法に関してだけはそうではないのだ。これは杖という武器の持つ本来の性能によるものであり、プレイヤーのステータスやスキルには依存しない。
しかしその名の通り、零距離魔法は威力こそあるが、その射程は極めて短い。そして速射性もない。よって彼女の戦法は、恐らく玉砕。
(どうする……!?)
彼女が生き残れないことは明白だった。
零距離魔法は射程が短いうえ、明らかに発動時間が長いのだ。構える間に剣で叩き斬られて終わりだ。そしてたとえ命中させることが出来たとしても、恐らく相撃ちのような形で、彼女もまた死ぬ。
そして、シルファと呼ばれた妹は、眼前で、姉と呼び慕った人間を失う。そしてフォリアと呼ばれた姉は、妹を守ろうと戦い、永遠に彼女と触れあえないどこかへ消えるのだ。
(俺は……俺はっ!!)
家族。仲間。友人。
俺はもう失った。きっと二度と帰らない。俺はそれを、もう悟ってしまった。
悟ってしまったからこそ、だから分かる。それがどれほどの痛みなのか。どれほどの辛さなのか。未だに俺が、心の底ではそれを認められていないように。
彼女の姉が死ねば、きっともう帰らない。ゲームの中のようには生き返らず、リスポーンせず……そこに間違いなくあるはずの魂は、跡形もなく消滅する。
だが俺には関係ない。あいつらが死のうが死ぬまいが、俺には関係ない。
「関係ない……」
第一、あのモンスターは実際に人を殺してる。もしかしたら俺だって死ぬかもしれない。それも、あんな原型の分からないような死に様で、血と肉の一欠片だって残さず喰い散らかされて。
そんな死に方は、俺はごめんだ。
「関係……」
そう。関係ない。彼らが悲しもうが苦しもうが、俺には関係ない。
だから……見捨ててしまえば、それで――。
――辛い時、苦しい時は、泣けばいい。何も分からない私だが……君の傍に、いてやることぐらいは――
「……関係……」
でも。何の関係だってないのに、彼女は俺を慰めてくれた。
彼女を拒み続けていた俺に、手を差し伸べてくれた。関係ないはずなの、赤の他人なのに。
ああ分かってる。分かり切ってる。それがアイツなんだ。
天性のお人よしで、馬鹿で、一途で……。
そしてそんなアイツが、真っ先に飛び込んで、今も誰かを助けたいと戦っている。誰かよ救われてくれと吼えている。
こんな絶望的な状況だって、あいつはこれっぽっちも諦めちゃいないだろう。そうに決まってる。
だというのに――。
「俺が……関係ないわけ、ないだろうが……っ!!」
そして、気がつけば。
俺は全力で、崖を滑り降りていた。
次話、ようやっと主人公がバトルします! 一話完結がなぜ二話に……!
今日中にもう一話掲載予定です。ストックがなくなってきたのでちょっと頑張ろうと思います。まる。
※11/15 モンスターのランクをB→Cに変更しました。




