(07) - 幻想の終わり
武器屋の外に出ると、どこか悲しげな瞳で、リンが俺を待っていた。
俺はそれを無理矢理意識の外に追い出し、南西のゲートへと足を進める。
さっさと行って、さっさと終わらせてしまおう。
考えられるのはそれだけだった。ミミさんの傷ついた顔も、リンの悲しげな瞳も、もう何も気にせずに。
そして、歩きだした俺の後を黙々とついてくる、ひとつの影。
見もせずとも、それが誰なのか分かる自分に、少し嫌気が差しながらも――はあ、と溜め息をはきながら振り向いた。
「……おい」
「うん?」
声をかけると、そこに立っていた白と青の騎士服を着た黒髪の女性――リンが、小さく首を傾げた。
本物のリンとまったく同じ仕草に、密かに苛立ちながら……小さく舌打ちする。
「……何でついてくるんだ」
「なんで? そりゃあ、君を護衛するためだが」
「護衛だと?」
肩をすくめたリンは、俺の言葉に「ああ」と頷いて、その細い指がすっと南西の門を指差した。
「どうせ、一人で行くつもりなんだろう? 君はどこからどう見ても一般人だからな。護衛もなしでは、衛兵が通してくれないさ」
「なんだって?」
どういう意味だ? クラスが『平民』だと、衛兵が通してくれないってことか?
だが、平民クラスであっても、特定以上のクラスの護衛がついていれば、町の外に行ける……とういうことなのか。
確かにこの周辺のモンスターは、平民クラスだと少し苦労するかもしれないが、倒せないことはないというのに。
とはいえ、と、俺はここからギリギリ見える南西の門を見やった。
そこには、まるで仁王像のごとく直立不動で、行きかう人々を監視している兵士が二人。そしてその向こう、門をくぐる人々を、荷を含めてチェックしている兵士が四人。
確かに見る限り、軽装で門を潜っている人間は一人もいない。
「まあ、北や東ならいいんだが。南は少し危険だからな」
肩をすくめてリンが言うと、俺は頷いて、同時に首を傾げた。
「……なるほど。だから、アンタが護衛役で俺を通してくれると?」
「そういうことだ。それも、特別に無料でな」
彼女がにこりと笑ってウィンクし、トンとこちらの肩を叩く。それに……しかし、俺はわけもなく怒りがわきあがった。
「……なんでそこまでする」
「なんで?」
「アンタは他人なんだろう!!」
怒りに衝き動かされるままに放った言葉は、ぴたり、とリンの動きを止めた。
ああ、とどのつまり、俺はずっとストレスが溜まっていたんだ。
いつもと同じように俺に接するリン。しかし彼女は俺を覚えていない。リンと同じ表情、同じ仕草、同じ声……でも彼女は、俺の顔も声も覚えていない。
その矛盾が、ずっとずっと、俺の中に見えない怒りとストレスをため込んでいた。
「他人のアンタが、俺に構う理由なんて何もないだろ」
だというのに。
武器屋に連れて行ったり、護衛をするなんて言い出したり……。
「そんなこと――頼んでなんかないだろ!!」
ああむしろ、いっそ、突き放してくれればいい。
こいつは知らない奴だ。おかしな奴だ。お前なんて知らない。赤の他人だ。
そう言ってくれていい。突き放してくれていいんだ。ここにいるリンは本当のリンじゃない。ただの赤の他人。俺が帰れば全て丸く収まって、本当のリンに会える。
――それでいい。何の問題もありはしない。
俺の、吐き出すような言葉に、リンは少しだけ顔をしかめて……そして。
「……そうか。確かに私は、ただの他人かもしれないな。だけど――」
小さくかぶりを振って、しかし微笑むように、こう言った。
「――君とは、初めて会った気がしないからな」
「……っ!!」
それは、先ほどミミさんから言われて、俺が背を向けた言葉と同じであり。
奇しくも、俺がかつてリンに言われた言葉と、まったく同じだった。
――なあ、どうして俺たちに構うんだ?
――どうして?
――だってさ。こうやってギルドの誘いも断り続けてるわけで……。
――ふむ。
――まあ……ギルド員でもない俺たちを、どうしてここまで誘ってくれるのかな、と。
――ふむ……そうだな。それは……
――それは?
――なんとなく……君とは、最初に会った時から、初めて会った気がしなかったから……かな?
思い出される会話。懐かしい記憶。愛しい世界。
その全てが、俺の胸に、鋭い棘となって突き刺さった。
「……っ!」
くそ、くそっ……なんだ。なんなんだ。
リンじゃないんだろう? 本当のリンじゃないんだろう?
お前はリンじゃない別の誰かで……なのになんで……なんで……。
「リン……」
「うん? どうした?」
懐かしい名前を呼ぶ声に、帰ってきた言葉は……思いがけないほど俺の胸中に、限りない寂寞を漂わせた。
かぶりを振る。
今はいいんだ。忘れていい。忘れていい……。
「……分かった」
そう言って、俺は頷いた。
確かに、護衛がなければ門を出れない。別の護衛を雇う方法も知らないし面倒だ。
この女が何を考えているか、なんてことはまったく分からない。だが、今はせいぜい利用させてもらうとしよう。
「タダで良いって言うんなら乗ってやる。……行こうぜ」
「ああ、行くとしよう」
リンは頷き、俺の前を歩いていく。
俺はその背を負いながら――正直、横でなくて助かったと思った。
きっと、今にも涙が溢れそうになっているだろう俺の顔を、見られずに済んだのだから。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
門は、リンが一言二言衛兵に話すと、あっさりと通してもらえた。むしろ平民一人では通過できないなんていう話も、実は嘘だったのではないだろうか、とでも思えてしまうほどだ。
そしてその後、とりあえず鎧に着替えたのだが……コイツが妙に手間取った。
普段は、インベントリからステータス画面のエクイプ欄に移動させるだけでいい。が、ステータスが開かない以上、どうにも自分の手で装着しなければならないらしい。
着方がさっぱり分からず、リンに手伝ってもらいながらどうにか装着し……ようやく出発と相成った。
フィールドに出ると、やはり見なれた光景に飛び込んできた。なだらかな曲線と、舗装された道、そしていくばくか見えるモンスターたち。
イズリ平原に出るモンスターは、せいぜいがランクEまでの初心者コースだ。よって、平民だろうが問題ないだろうとタカを括っていたのだが。
「……なさすぎる」
問題が、というよりも、むしろ歯応えが、というべきか。
サポートオブジェクトを真っすぐに目指して突き進み、出会うモンスターは斬り捨てていくという方法を取ったのだが、なんというか、モンスターにまったく歯応えがない。
クラスが『平民』ということで多少なりと警戒していたのだが、そんなものはなんの意味もなかった。
ザッ、という音と、蛙の鳴き声。それに俺は刃を振る動作で反応。
横合いから飛びかかってきた大蛙≪ビッグフロッグ≫に、慣れた動作で逆袈裟斬りを放ち、跳ねあがった銀色の刃がモンスターを両断する。
ヒットポイントを意味する赤いバーは、たった一撃で左端までスライドし、断ち斬られた≪ビッグフロッグ≫は無数の青い光の粒となって虚空へと溶けていった。
いくらなんでも弱すぎる。
スチールソードは確かにそれなりの武器だ。しかし、Eランクモンスターとしてはやや強めのこいつを、クリティカルもなしに一撃で倒せる威力はないはず。となると……。
(ステータスは変化してないのか?)
その結論に思い至って、俺はなるほどと頷いた。
ステータスとは、筋力値、頑強値、速力値、精神力の四つから成る、キャラクターの根幹を成すパラメーターだ。
基本的にこれらの値は、ステータス画面では参照できない隠しパラメーターとなっている。ステータス画面では、装備やクラスを全て加算した攻撃力や防御力が表示されるのみだ。よって呼び方も人によって異なるが……まあ今はそれはいい。
ステータスはレベルと共に増加し、そしてクラスによって増減する。この場合、俺のクラスは『平民』、すなわち補正値はゼロであるので、素のステータス、即ちレベルが高いままということになるだろう。
確か、以前の俺のレベルは九十七。
クラスによる補正がまったくなかろうが、このあたりのモンスターなどではちっとも問題にならない。
「まったく、凄まじいな。……君は本当に一般人なのか?」
呆れた声で言われて振りかえると、リンが溜め息を吐きながら、消えたモンスターたちが落としたアイテムを、インベントリーへと叩きこんでいた。
レアアイテムでなければ、モンスターたちが落としたアイテムは、モンスターが死んだ場所に落ちる。しかし妙にがめついことをするな、と思いながら俺は頷いた。
「まあ、そういうことになってる。クラスも平民だしな」
「ふうむ、なるほど。むしろいっそ、高名な剣士と言われた方が納得できるがね」
曖昧な俺の答えに、そう答えつつも採集を追え、さて、とリンが服の埃を払った。
「では、行くか。この先なんだろう?」
「ああ」
答えて、また歩き出すと、しかしすぐに横に並んだリンが話しかけてきた。
「しかし、本当に凄いな。私はさっきから、一度も抜いてないぞ」
「少しは手伝え。護衛なんだろうが」
リンの言葉にそっけなく返すと、彼女は苦笑した肩をすくめた。
「私が手を出すより前に、君が全部片付けてしまうんじゃないか。これは護衛なんていらなかったかな?」
「……かもな」
曖昧に頷くと、「ふっ」と小さくリンが笑った。
……気がつけば、なぜか俺たちは普通に会話できるようになっていた。
いやむしろ、鬱陶しいぐらいにこいつが話しかけてくるから、それに引きずられてつい、いつの間にかという風で。
俺も、細かいことを考えるのは止めた。
こいつはリンと違う奴だとか、でも似てるとか、もうどうでもいい。
今はひたすらサポートオブジェクトに辿りつき、そして帰ろう。今日のことはまた帰ったら、いつか笑い話にしてやればそれでいいだろう。
――そして、十分ほどは歩いただろうか。
小高い丘の上、街道を見下ろすような形で、ぽつりと建つ”ソレ”はあった。
「――……」
あっさりと見つかってしまったそれに、俺は、思わず唾を呑みこんだ。もっとも、位置も形も分かっているのだから、見つけられないわけがないのだが。
一歩、引き寄せられるように前に進む。
「あれが目的地か?」
リンの言葉に応える余裕も、俺にはもう存在しなかった。
一歩、また一歩と近づいていく。
俺の胸中にあったのは……ひたすらの恐怖と、そして、ひたすらの希望だった。
――ようやく、帰れる。
という想いと、そしてもう一つ。
――あれが、動かなかったら、どうする?
相反する二つの想いを抱えながら、一歩、また一歩と。
もはや永遠だとすらも感じた、長い長い十数歩――。
歩いて……そして。
――俺は、そこに辿りついた。
黒の柱。正八角形の、黒い柱だ。
その表面にはいくつかの青いラインが走り、どこかこの世界と隔絶したような雰囲気を纏っていた。
黒い柱は俺の胸のあたりで、斜めに向かって美しく両断されたように、綺麗に平らとなっていた。そしてその表面には、何か読めない文字がびっしりと並んでいる。
これが、サポートオブジェクトだ。触れれば、蒼く発光してコンソールが起動し、サポートに連絡を取ることができる。あるいはここで強制的にログアウトすることも可能だ。
しかしそれを前にして――俺の体は、恐怖と不安に縛られて、ぴくりとも動かなかった。
「お前の目的は、それなのか?」
ああ、とも、うん、とも応えられず、また頷くことすらも俺はできなかった。
だけれどリンは構わずに「ふうむ」と頷いて、続けた。
「それは、何の目的で、いつ誰が設置したのかも分からなくてな。なんでも……」
「――黙ってくれ」
震える声で、ようやく言えたその一言に、リンが口をつぐむのが気配で分かった。
……やはり、彼女は本物のリンじゃないんだ。
本当のリンならば知っている。これが何と言うもので、誰が設置し、触れればどうなるのか……分かっているはずなのだから。
わずかな安堵と失望。そして不安と恐怖。
俺の心に入り混じる全てが、混ざり合って、撹拌して、瑪瑙色に溶けていく。
――そして。わけがわからない心境のままに……俺が、自分でそうしているのかすらも分からないほど、手を震わせながら。
俺は、サポートオブジェクトに、ゆっくりと手を伸ばし。
そして――触れた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……つまり、ここと似た世界に放り込まれ、脱出も出来ず、その挙句の果てに私のソックリさんに会ったと」
ギルドホームの一角。
みんなが集うそこに腰かけて、リンは俺の言葉に「はあ」と頭を抱えた。
実のところ、俺だって半信半疑なんだ。まあまったくもって信じられないというなら仕方がない。
「だが、確かに俺は見たんだよ! ありゃ妙にリアルでさ……」
「あーなるほど。それで、帰るや否やここにログインして、僕たちにぶちまけたと」
力説する俺に、横合いから口を挟んだのはライだった。しかしこちらも、どこか呆れた表情だ。
「まあアレです。疲れてたんですよ、きっと」
「ちょ、おまっ!? やめてその目線!?」
ライの物凄く生温かい目線(+にっこり笑顔)を照射され、うぐうと俺は呻く。
そして横合いから、なぜか俺にぴたりと張り付いてくる、見慣れた少女。
「……そして、怖い怖い夢から醒めたカナメは、真っすぐに私の部屋に飛び込んできたのでした……」
「ちょっ!?」
いや確かに事実だけども! 速攻でシノブ姉の家に乗りこんだけどもだ!!
「ほほう……」
「なるほどなるほど……」
ゆらり、と刀のような気配を漂わせたリンと、ふむふむと頷きながらしかし完全ニヤニヤモードのユーリさん。そしてなぜか俺の腕をホールドして離さないシノブ姉。
ちょ、そこの親友! お前爆笑してないで助けろこの野郎!
「ふむーん。じゃあ辛かったカナメちゃんを、お姉さんが癒してあげる~~!」
唐突に、ユーリさんに真正面から飛びつかれ、思いっきり抱きしめられる。
「ちょっ、ユーリさん!?」
「ほーれほれほれほれー。どうかなーお姉さんの柔肌は~?」
「いや確かに柔らかいですが、ちょっと胸が足りな――ぁいだだだだっ!?」
腹をぐりぐりつねられて苦しむ俺。ちなみに町中なのでダメージは無論ない。
そして背後でリンさんがヤバイことになってるんで! お願いちょっタンマ!
…………。
すぱーん、とユーリさんごと両断された俺は、やや憮然としつつソファーに再度腰掛け、はあと溜め息を吐いた。
どうやらユーリさんの制裁が済んだらしいリンも、コホン、と一つ咳をしてソファーに座りなおした。
「しかしまあ、夢で良かったよ。私もそんな世界に放り込まれたらと思うと、正直ぞっとしない」
「んー、まあな」
確かに夢だった。
サポートオブジェクトに触れたら、あっけなくログアウトできて……そして目覚めたらベッドの上。
まったくもって、あれだけ怖がっていたのは何だったんだという話だ。ちょっぴり情けない。
まあそれに、何より良かったのは……。
調子に乗るからこいつらには絶対に言わないが、そう、ここに戻ってこれたこと。
リン、シノブ姉、ユーリさん、ライ、ミミさん。
全員を見まわして、俺はそう思う。
――これでいい。これで全てが元通り。
あれが何だったのかよく分からないが、まあ戻ってこれたから良しとしよう。
「本当に良かったよ、夢で」
俺は、そう言って――。
そう、言って――。
そう――。
そう……言いたかった、のに――ッ!!!
再び目を開けば――
そこにあったのは、何も変わらず、ただ広がり続ける平原と蒼い空。
空に浮かぶ円環と、何も答えることはない、冷たい黒。
「あ、ああ……」
笑っていたはずのリンも、シノブ姉も、ユーリさんも、ライも、ミミさんも。
そこにはいない。誰もいない。
全て、幻だった。
その全ては、都合の良い幻想……いや、妄想でしかなかった。
「あ……あああぁぁぁ……」
俺の指の先が……黒いオブジェクトに、触れていて。
しかし、なんの応えも、そこには存在しなかった。
「あ、ああぁ……ああああああああああああぁああああああ――ッ!!!!!」
慟哭と共に、俺は夢中でオブジェクトを抱きしめた。
感触は冷たい。青い光は存在しない。ただあるのは、何の変化もなく、何の答えもない、黒く聳える立方体。ただそれだけ。
上から下まで手を這わせ、刻まれた溝の全てを指で触れる。掌で触れる。頬に触れる。
しかし、それでも。
それでも……何も、起きない。
行きたい。帰りたい。今すぐに。
今すぐにここから……あの場所へ。みんなのところに。今すぐ!!
「ログ、アウト……」
気がつけば、叫びはいつしか、言葉に変わっていた。
「ログアウト……終わり……脱出……帰る……消える……ここから……!」
思いつく限りの、似た意味の言葉を、何度も何度も繰り返して。
そうだ……応えてくれるはずだ。これはサポートに繋がってる。なら聞こえるはずだ。繋がるはずだ。
「――そうだろうがあぁッ!!」
気がつけば俺は、拳をオブジェクトに叩きつけていた。
サポートオブジェクトは破壊不可能。どれほど殴っても、欠片のひとつも落とすことはない。それでも、殴って、殴って、殴って……拳の皮が破けるまで。
リンがいて、シノブ姉がいて、ユーリさんがいて、ライがいて、ミミさんがいて、みんながいて……。その幻想が――俺の心の深い、深いところに、もう修復できないだろう傷を穿っていた。
叫んで、叫んで、叫んで。
殴って、殴って、殴って。
思いつく限りの罵詈雑言を吐き続けた俺は……しかし。
もう、悟っていた。
もう……分かっていたんだ。
――俺は、もう、二度と。
帰ることは、できない。