(06) - 認められない
――そして。
俺がログインして、二十四時間。
その時間は、もはや確実に過ぎ去っていた。
空に浮かぶ太陽は、地平線を過ぎて頭上にまで至り、今や燦々と光を照射している。
俺がログインしていたのは、昨日の朝。となればもう、疑う余地もなく確実に、二十四時間が経過している。
「なんッ――なんだよ……ッ!!」
ガンッ、と片手で壁を殴打し、さらに自分の頭を壁にぶつけ、もう一度空を見る。けれど、やはり現実は変わらない。
正直言って。
朝起きたときに、半ば以上分かっていた。
なぜなら……この世界に来て。
俺の希望や望みが叶ったことなど、一度きりだってないからだ。
「チク、ショウ……」
リンもマスターも、俺のことを覚えていなかった。
ユーザーインターフェースは開かない。ログアウトもできない。サポートも呼べない。アイテムもクラスも一つも残ってない。フレンドも、ありはしても誰もログインしてこない。
そのすべて。そのすべてが、誰かの、俺への底知れぬ悪意にしか思えなかった。
「チクショウ……!」
しかし、まったく分からない。誰が。どうして。一体どうやって……。
がくり、と壁にもたれかかるように膝をつく。
(……俺は、帰れないのか?)
これが、誰かから俺への悪意だとして。
俺をここから逃がすだろうか? サポートオブジェクトを探して、触れて……それで全てが解決するだろうか?
――それは、考えにくい。
(俺は、帰れないのか?)
今も思い出すのは、あの楽しかった日々だ。
リン……シノブ姉……ユーリさん……ライ……ミミさん……。あれから、たった一日しか経っていない。経っていないのに……あの日に、あの空間に。
俺は、二度と、戻れないのか?
「認められるか……」
歯を食いしばる。その隙間から、まるで自分のものではないような、怨嗟のごとき言葉が這い出ていった。
「認めて、たまるか……」
たとえ、これが誰かの悪意によるものだったとして。
もうみんなに会えない。もうあの場所に戻れない。そんなことは、断じて――
「認めてッ、たまるかよ――ッ!!」
流れ出た言葉を原動力に、俺は立ち上がった。
出来ることを。今出来ることを、ただするために。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
(目指すは、サポートオブジェクトか)
サポートオブジェクトは、フィールドに設置された、黒い柱のようなものだ。
サイズとしては大きくない。出来る限り景観の邪魔にならないような位置に置いてあり、それと同時に、非常に見つけやすい位置にあるのも特徴だ。
普通に街道を通っていれば、まず見過ごすことはありえない。
(問題は、あるかどうか、か)
これがもし完全に、俺に対しての悪意だというのなら、そんなものを残してはおかないだろう。
もっとも、その仮説自体苦しい話だ。実際にこの中には、NPCではありえないようなプレイヤーたちが、数多く存在しているのだから。
あの挙動は、アルゴリズムではありえない。プログラムだとは考えにくいだろう。
かといって、この世界にいる千人、いやあるいは、一万人以上かもしれない全員が、俺を貶めるためだけに協力している、ないし嘘をついてるというのも、無理がありすぎる。
……まあ、それはいい。
とにかく脱出する術を考えよう。考えるのは、それこそ後でいい。
何はともあれ、装備を整えるのが先決だった。
初期装備のままでは、サポートオブジェクトが存在する南西フィールド、即ち≪イズリ平原≫を出歩くには心許ない。わざわざ死に戻るのも億劫だ。
幸い、昨日のうちに気づいていたが、金についてはまったく減っていない。かなり余裕があるので、装備ぐらいは簡単に整えられるだろう。
「さて、武器屋はこっちか……」
よくある初心者用の武器屋に足を運ぶ。そういえば、あそこの店主はNPCだが、そのままなんだろうか? などと思いつつも歩を進めていく――と。
「――おい、そこの君!」
唐突に呼び止められ……正直、振り向くかどうかはかなり迷った。
なぜならその声は、聞き覚えのある少女のもので――。
「おいっ、そこの君だ、君! 聞こえているか? ええと……」
「……カナメ、だ」
ずかずかと近寄って来た相手に、溜め息を吐きながら振り向いた。
そこに立っていたのは、黒髪をポニーテールにまとめた見慣れた顔。リンだ。
いいや――正確には違う。こいつはリンなんかじゃない。名前も顔も声も同じでも……こいつはただの別人なんだ。
「ああ、そうだった、カナメくん。やあ、先日はすまなかったな」
「……いや」
さっさと終わってくれと思いながら応じる。
その一方で、実のところ昨日のアレはどっきりだったんだ、なんていう展開が待っててはくれないかと、心のどこかで願う自分がいるのは、やはり、俺が弱いからなんだろう。
努めて顔に出さないようにしているこちらを尻目に、リンは肩をすくめて口を開いた。
「任務中だったのでね。なんだかよく分からないが、ショックを受けていたようだから、一度きちんと謝っておかなければと……」
「……お気になさらず。俺も気にしてませんから」
努めて冷静な声を出し、「それじゃ」と片手を挙げて去ろうとする。
「おいおい、どうしたんだ? 昨日は……」
「昨日は昨日だ。頼むから、俺に――っ?」
ふと唐突に、周囲からの……何か強烈な視線を感じ、言葉を止めた。
見れば周囲を歩く何人かの人間が、ぶしつけに俺たちに目線を向け、さらにそのうち何人かが、立ち止まって険呑な表情を俺に向けていた。
(な、なんだ……?)
と、遅ればせながらリンもそれに気づいたのか、周囲を見渡して「ああ……」と小さく頷いた。そして、おもむろに俺の手を取る。
「おっ、おいっ!?」
「すまない。悪いが、少し黙ってついてきてくれないか」
……アンタが俺の手を取った瞬間に、さらに強烈な視線ビームが俺に注がれているんだが。
そんなことを思いつつも……久々に感じたリンの感触と体温に、何も出来ないまま、俺は引きずられるように人込みを歩いていった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「すまなかったな」
目的地を聞かれ、とりあえず武器屋だと答えた俺のリクエストにより、何やら彼女が顔なじみらしい武器屋へと俺たちは足を運んでいた。
ようやく手を話してもらった俺は、ふう、と溜め息を吐きながら答える。
「いや、いいけど。なんなんだあれは」
「ああ、私もよく分からないんだが……どうも、私が誰かと話しているとああいうことになってな。特に相手が男性だと酷くてな。まあよくわからんのが正直なところだが……」
――こっちでも存在してんのかよ、リンのファンクラブは。
半ばあきれ果てたような表情で溜め息を吐く、その一方で、どこか懐かしくも温かい気持ちが俺の胸を包みこんだ。
――そういや昔、リンのファンクラブに脅迫状送られたことがあったっけ。
文学スキルなんて、マイナー中のマイナー、誰が習得してるんだっていう『ミンストレル』クラスしか持ってないのに、わざわざ便箋付きときた。ありゃさすがにちょっと怖かった……。
「……なんだ、笑えてるじゃないか」
「え?」
くすりと安心するような、あるいは微笑むかのような声に、俺は思わず口元を押さえた。どうやら、知らず知らずのうちに笑っていたらしい。
「いや……先ほどの君の顔は、ちょっと怖かったからな。そういう風に笑える余裕があるなら、そこまで心配はいらないのかな?」
「…………」
そう言って微笑む声に、しかし、俺は何も答えることが出来なかった。
余裕があるか、と聞かれれば――ないだろう。あるわけがない。自分でも分かる。
もしも……もし。
サポートオブジェクトに辿りつき……それでも、何もなかったら。俺はその時一体どうすればいいんだろう? いや、どうするべきなんだろうか?
戻れないなんて、みんなともう二度と会えないなんて、俺には絶対に認められない。
だけれど、もしも本当に道が断たれてしまったら……その時は……。
「…………さて。武器屋に来たということは、武器を探しているということかい?」
「あ、ああ」
リンに問われ、こくりと頷く。とりあえず、初期装備のナイフだけでは心許なすぎる。
俺が頷くのを見て、しかしリンは「う~ん」と顎に手を当てて唸った。
「? なんだ?」
「いや……そうだな。まあ、一応聞いておくが」
わけがわからず首を傾げる俺に、リンは腰に手をあてて半ば呆れたように口を開いた。
「武器を購入にするには、騎士団の許可と冒険者の資格がいる。一応聞くが、持っているかい?」
……なんだそりゃ。
その気持ちが思いっきり顔に出てしまったのか、フウ、と彼女は肩をすくめた。しかしその仕草がまたリンそのもので、俺を若干苛立たせた。
しかし、資格っていうのは≪冒険者≫クラスのことだろうが……騎士団の許可? 騎士団って何だ一体。少なくともオーリオウル・オンラインでは聞いたことがない。
わけがわからない、といった表情の俺に、彼女は小さく苦笑して、そしてこう言った。
「ところで、どこに行くつもりなんだい? 武器が必要ってことは、どこかに行くんだろう?」
「あ? ああ……南西の、イズリ平原だけど」
「イズリ? あそこか……なるほど」
思わず答えてしまった俺に、ふむ、と唇に手をあて黙考したあと、ひらりと白青の騎士服を翻し、武器が陳列されている棚の方へと歩いていった。
……あいつは、リンじゃない。
さっきから何度も何度もそう思うのだが、しかしそれにしては、仕草のひとつひとつ、表情のひとつひとつが似すぎている。だからなのか、思わず素直に返事を返してしまい……まったくもって、調子が狂ってしまう。
はあ、とむしゃくしゃした心のまま頭を掻いていると、「カナメ君」という自分を呼ぶ声に、思わず振り向いた。
そして振り向いた時には既に、彼女の手元から一本の剣が、俺の手元へと投げられていた。
「っと……!」
思わず柄を取って受け取る。まあもっとも鞘に収まったままなので危険と言うわけではないし、第一抜き身であっても、ここは町中――安全圏内なので、ダメージを受ける心配もない。のだが、いきなりは心臓に悪い。
投げた方は、さして気にした様子もなくそのまま店内を物色しつつ――そして、背中越しに言葉をかけてきた。
「どうだ? 振れるか?」
要するに、その武器の重さは装備できるのか、という意味だろう。
もっとも、クラス上の制限に引っ掛からなければ、重さによって装備できるできないは存在しないが、使い物になるかどうかは別問題だ。
つまり筋力値が十分にないと、重い武器を振り回すことは難しいのだ。十分に威力を発揮できないし、すぐに疲れてしまう。しかしこれがパラメーターとして表示されないものだから、しばしば自分の筋力の限界を越えた武器を扱い、結果として墓穴を掘る人間も少なくない。
言われて、鞘に入れたままぶんぶんと剣を振り回してみる。
……ふむ。まったくもって重さを感じない。むしろ軽すぎるぐらいか。
「もう少し重くても振れるな」
「ふむ、なるほど。ま、今日はその辺にしておけ。あとはこれとこれ……」
どうやら強がりと思われたらしい。軽くむっとしつつも、正直、彼女の取る行動が意味不明すぎて、俺にはさっぱり理解できないまま立ち尽くす。
そして、それから数分後。装備一式を抱えてきたリンが、ふうと額の汗をぬぐった。
「よし、こんなところか」
「……何がだ?」
正直、俺はまったく意味が分からない。
こちらの言葉に、若干驚いたように目を見張って、次いで少し照れたようにコホンと咳をした。
「さっきも言ったろう? 武器を買うには騎士団の許可がいる。だがそれは買う時の話だ。装備する分には何の問題ない」
「……なるほど。それで?」
「要するに、まあ、私が買ってやれば問題ないということだな」
言って、にこりと彼女は笑った。
その言葉に――俺は思わず、眩暈がするように頭を押さえた。
(なんなんだ、この女……)
今の言い方……考え方……やり方……まるで本当に――。
「? どうかしたか?」
「……いや。なんでもない……」
努めて考えないようにしながら、俺はかぶりを振った。
そう。確かに今のままだと、冒険者になるためのクエストをこなさなければならないし、騎士団の許可とかいうのもいまいち謎だ。
さっさと行って、さっさと解決してしまいたい。それなら、この女の事情がどうであれ、利用するに越したことはない。そう、ただそれだけのことだ。
そう思いつつ、素直に従う。
女がレジに持って行ったのは、ごく平凡的な革防具一式と、スチールソード一本だ。革防具は初級中の初級防具だが、スチールソードの武器ランクは若干高めだ。
片手剣としてはアイアンソードの上位に位置し、扱いやすく強度に優れる。初心者用としてはなかなか良い武器だ。
リンがレジにアイテムを置いて、しかしそこで初めて、そういえば店員がいないことに気づく。リンもそれに気づいたのか、ちりーん、とレジに置いてある呼び鈴を指で弾いて鳴らした。
店内に響く音と共に「はーい!」というかわいらしい声。そして、それと共に出てきた、小柄な影は――
「……ミミさん!?」
金の髪、透けるような白い肌、そして低い背丈。
妖精のようなその出で立ちは、間違いなく、S.E.Lの専門鍛冶師であって……しかし同時に、自分がまたもや同じ失敗をしてしまったのだと悟った。
「ミミ、知り合いか?」
「あの~……そのう……」
リンの言葉に、困ったような声を出す彼女に、今度は「いえ」と自分で呟いた。
「すみません、人違いだったみたいです。知り合いに似てたので」
彼女は確かにS.E.Lの専属鍛冶師だったはずだ。しかし、この武器屋にいるということは……つまるところ、彼女とあのミミさんは、同一人物ではないというその証左。
それを一人で納得して、かぶりを振りつつも頭を下げた。
「似てたって、今名前を……」
「偶然、名前が同じだっただけです」
唖然と言葉を紡ぐリンに即答して、俺は「大丈夫」とかぶりを振った。
……何が大丈夫だ。
心の中で小さく呟く。リンと、マスターに続いて、ミミさんまで。こうまで知り合いが続き……そしてその全員が、自分のことなどまるで覚えていない。
まるで、何か悪い悪夢を見ているようだった。
(……会いたい)
会いたい。みんなと会って、話をしたい。
お前のことを覚えてると、そう言って欲しい。
その想いを無理矢理に胸の奥に引きずりこみ、俺は俯きながら、深く深く息を吐いた。
その頃には、リンが清算を終えて、俺の方へと向き直っていた。紙袋に入れてもらったらしい防具一式と、黒い鞘に収まったままの剣とベルトを差し出してくる。
俺は「ありがとう」すら言えないまま受け取って、無言のまま、ミミさんから背を向ける。
同じくなぜか無言で武器屋の扉へ向かうリンを追いながら、俺は背を向ける。
「あ、あのっ!」
不意に、背後から聞こえた声に、俺は足を止めた。けれど、振り向くことはしない俺の背に――そっと優しく触れるような、ミミさんの声が聞こえた。
「その……確かに、あのぅ……覚えていないというか、見覚えがないというか……」
自信なさげに震える彼女の声は、しかし、精いっぱいの勇気を振り絞るように――。
「あの……でも、また、もう一度……また、来てもらえますか?」
「…………どうして?」
言ってからの後悔が、何もなかったと言えば嘘だろう。ミミさんの、少し傷ついた顔に、俺は手を振って「大丈夫」と言ってやりたかった。
けれど出来ない。出来ないのだ……そんなことは。
これは本当のミミさんじゃない。ここは俺が本当にいるべき場所じゃない。だから……。
悶々と考える俺の背後で、少し傷ついたような顔をして、しかしミミさんは、小さく頭を振った。そして――
「確かに覚えていませんが……でも……」
「でも?」
ミミさんは、少しだけ、戸惑うように目線を泳がせて。
「初めて、会った気がしないので」
俺は、その言葉に。
「――ッ!」
何も返せないまま、歯を食いしばった。
これが、ミミさんなりの商売方法で、お客さんを失いたくないという一心から出た言葉。……なら、どれだけ楽だっただろうか。
知っている。よく知っている。彼女はそんなおべんちゃらなど使わない。
思ったことしか言わないのだ。それほどまでに純粋。それほどまでに清純。
それが分かっているから……分かっているけれど!
ここで、ミミさんの望む言葉を言ってしまえば……俺は、引き返せなくなる気がした。
サポートオブジェクトは反応せず、ここから抜け出せず……。
そして――みんなと、もう一度会う方法を、永遠に失う。
理屈なんて何もない。だけれど、そんな気がしたから。
「……すみません」
頭を下げて、俺は扉へ向かう。
背後で、彼女の声が何か聞こえた気がしたが……俺は、もう二度と足を止めることなく、その武器屋を後にした。