(40) - 獣たちの闘争
煌めきが踊る。
不可視、不可避。
鋼糸という「見えない死」を前に、要はギリギリのところで踏み止まっていた。
ギリギリ――そう、ギリギリだ。
油断すれば首が飛ぶか、腕が飛ぶか。
圧倒的不利。攻略の糸口が見つけられないまま、少しずつ追い詰められている。
鋼糸。限界まで細められたワイヤーを自在に操るという技術。
高速で動き回る糸を視認するのは至難の業だ。かろうじて、陽光に反射した折に判別がつくだけ。
見切ることさえできれば、そうは思うが、たとえ見切ったとしても、見切れていなかった鋼糸に背後から襲われる。
(操ってるのは何本だ……?)
冷静に考えれば十本以下。少なくとも両手の指よりは少ないはず。
だが、レアクラスという存在は時に人知を凌駕する。それ以上の本数を操れていても、なんら不思議ではなかった。
かすかな音を裂く音。後ろ首にちりつく直感に従って身をかがめると、頭上を何かが通過した。
……立っていれば首が飛んでいた、か。
「ふふ、すごいわねぇ」
けらけらと、女が笑っている。
「私にこれを出させて、ここまで生き残ってるのははじめて。随分と楽しませてくれるじゃない」
(どうする……?)
突破口は、何がある?
直感だけで避ける、だなどという曲芸がいつまでも続けられるわけがない。そもそもどうして避けられているのかも自分でも良く分からないのだ。
何かの、ステータスのようなものが影響している、のだろうか。
いや、考えるだけ無駄だ――
とにかく今は、状況を打破する方法が必要。それが先決だ。
黒髪の女は、あの笑顔を貼り付けたまま俺を見下ろしている。
その指が動けば、鋼糸が動く。とはいえそれがどこから来るかまでは分からない。指だけでしか動かせないという保証もない。
「どうしたの? 来ないのかしら?」
悠々と、女が笑う。
「そうして何もしないまま、指を咥えている? それも面白いわ。あなたの大切なものふたつ、どちらが欠けるのか、とても興味があるもの」
「なんだと……」
「聞こえない?」
女性が指差す。己の背後を。
「この剣戟の音……誰と誰が殺しあっているのかしらね?」
「分かってるさ」
聞こえている。ずっと。
誰かが戦っている音。命を削りあう音が。
――時間がないなんてこと、最初から分かってる。
腰元に手を伸ばす。
鋭利な刃の感触。それはミミさんに作ってもらったあのスローイングダガー。
「シッ――!」
空を裂くように銀光が奔る。
「甘すぎるわね」
投擲されたその刃に、しかし返されたのは甲高い音ひとつ。中空を閃いた鋼の糸が、そのダガーを容易に叩き落としていた。
しかし――
「甘いのはそっちだ……!」
「……!?」
迎撃した少女は目を見開いた。
そのダガーの影に隠れるように、黒い剣を片手にした男が、低く突進していたから。
肉迫。ただの一足で、吐息の音が届きそうなほどの至近距離で、漆黒の刃が奔る。
手加減など考えようもなかった。生き残るために。そして何よりも、リンの、シノブ姉のもとに辿り着くために。
必殺の軌道を描いた剣閃。命を刈り取るための斬撃は……しかし、何の感触も返ることなく空振った。
「な――!」
斬撃が擦るほどの紙一重で、女の体が翻る。
そしての足が、燐光を放ちながら跳ね上がる――!
(疾影脚……!?)
見覚えのあるその軌道に、息を呑みながら飛び退る。
だがもう遅い。避けられるはずのない完璧なタイミング。
跳ね上がったその飛び蹴りが、俺の腹部に突き刺さった。
「がぁッ――!!」
激烈な痛み。ともすれば刃を突き立てられたのではないかと勘違いするほどに。
血が口から飛び散る。内臓の損傷――いや、そんなことを考えている余裕すらもない。
一撃で後方に吹き飛ばされながら、俺は体を引き絞った。
(追撃が来る……!!)
ほぼ確信に近い直感で、俺は背後に刃を振るう。
ビンッ、という強い感触。振るった刃が、吹き飛ばされた先に張り巡らされていた鋼糸を断ち切ったのだ。そのままでは、間違いなく五体がミンチになっていただろう。
「へえ……私の鋼糸を切るなんて、いい剣ね、それ」
「ぐっ……」
内臓をぐちゃぐちゃにされたような痛みに耐えながら立ち上がる。
眼前のUIに示されるヒットポイントゲージは、ただの一撃で半分を割っていた。それほどまでの強烈な蹴り。咄嗟に後ろに飛ばなければ、腹部ごと吹き飛ばされていたかもしれない。
(油断していた……)
彼女が放ったスキルアーツは『疾影脚』。レアクラスである『武錬士』の持つカウンタースキルだ。
おそらく彼女は、メインクラスを武錬士に、サブクラスを鋼糸使いに設定しているのだろう。
懐にさえ飛び込めばどうにかなると思っていた。甘えだ。サブクラスを失念するなど、どうかしている。
(強い……)
おそらくこの世界で、今まで戦ってきた誰よりも。
だがそれでも俺は、彼女を倒して、たどり着かなければならない。シノブ姉の下へ。
「行くぞ……」
もう一度剣を握り締める。
勝機なんて、もうどうすればいいか分からない。知ったことか。俺は戦う。俺は勝つ。俺は生き残る。俺は――!
「いいわ。私をもっと熱くさせて……!」
不可視の銀光が、死が、煌いて。
『それまでだ』
爆轟と共に、その全てが薙ぎ払われた。
まるで爆発そのもの、舞い上がる砂塵が、目の前を覆いつくして吹き抜けていく。
そして、やがて砂塵が晴れたあと――そこに立っていたのは、一人の男だった。
いや……男であるという確信はない。
蒼く、そして暗くくすんだフルアーマーで、その顔までもすっぽりと覆われていたから。
「レオン……?」
『それまでだ、ルールカ・レイ・ゲアハルト。戦闘を放棄し、今すぐ帰還しろ』
レオンと呼ばれた男は、身の丈以上もある大剣を肩に担ぎながら、低い声でそう告げた。
「……どういうことかしら? 今ちょうど楽しくなってきたというのに……」
『もしもこのまま戦闘を続ければ……お前が勝利するにせよ、少なからぬ手傷を負うことになる。それは大公の望むところではない』
男は、その首を巡らせて俺を見た。
『この男は獣だ。たとえ手負いとなろうが、喉下に喰らいつき、喰いちぎる類のな』
フルアーマーの向こうに見える目は……ただ静かに、しかし確かに、戦気とすら呼べるような強烈な意思を湛えているように思えた。
「ふん。そう思うなら、アンタが加勢すればいいじゃない」
『それは俺の仕事ではない』
「……シノブちゃんはどうするつもり?」
『捨て置け。どうなろうとこちらに害はない』
吐き捨てるように言ってから、男は背を向けた。
「待て……!」
『待ったところで、貴様に何が出来る』
「っ――」
それは正鵠だ。俺に出来ることは何もない。
おそらく……あの男は強い。ルールカと呼ばれた女より、俺よりも、はるかに。
『だが、もし貴様がすべてを救えるというのならば。……いずれ、また相見えることもあろう』
ザン、と音を立てて、大剣が地面に突き立った。
『それまで、己の牙を研ぐが良い。……さらばだ』
そして――。
一閃した刃によって巻き起こった砂塵の嵐が、すべてを埋め尽くし、そして再び見えるようになったときには、もうどこにも、誰の姿も見えなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「はあぁ――ッ!」
真紅色をまといながら、双剣が空を裂く。
心臓へと放たれる突き一閃。それとほぼ同時に、退路を塞ぐようにもう一閃が首を凪ぐ。
『フェイタルテラー』。ブレイダースキルの一にして、両の刃でともに必殺の一撃を放つスキルアーツだ。
だが視認すらも困難なはずのそれを、彼女は容易に捌き、距離を取って確殺領域から逃れて見せる。
真紅の軌道が空を切るのを見ながら、リンは動かぬ体をこわばらせた。
スキルアーツの直後に生じる、肉体の空白時間。それを、この眼前の少女が見逃すはずがない。だが。
「まだだぞ……!」
赤い燐光が終わる間際、再び剣が青く輝き出した。
「ミッシングリーパー――!!」
叫ぶ。体に英霊が宿る。
再び刃が十字を描きながら空を切る。その青い軌跡をたどるように、具現化した空を裂く刃が、衝撃波をまとって駆け抜ける――!
技巧連携。誰に教わるでもなく、リンが己の鍛錬と研鑽のみで生み出した剣の妙技。
それは、硬直直前に音声発動を差し挟むことによって、隙を消し連続でスキルアーツを発動させるという、オーリオウルオンラインの上級テクニックだ。無論、この世界に住む少女にそれを知る由もない。
砂塵を舞い上げ、風と轟音を伴って突進する十字の衝撃波を、大きく横に跳んでギリギリでかわしながら、シノブはどうにか乱れた体勢を整える。
――硬直の隙を消されては、つけいる隙がなくなる。ならば?
シノブは小さく呼息を吐いてから、一本のナイフを取り出した。
そして――砂埃を舞い散らしながら肉薄する双剣の少女は、笑っていた。
「あれを避けるか、さすがだな……!」
闘争の喜悦。強い者と戦い、己の全力を出しきり、なお拮抗するという高揚。
二つの短剣が、双剣を迎え撃った。響きあう剣戟、二つ。
「あなたは、強い」
「お前もな――!」
双剣が踊る。短剣が弾く。
強烈かつ的確なリンの連撃を、超高速の体術と技術で捌き続けるシノブ。
周囲は、ただ唖然とそれを見ていた。見ているしか出来なかった。割り込む余地などどこにもない。頼みの綱のヒーラーたちも、その超高速の接近戦についていける者は誰もいなかった。
ただここに来て、状況が変化しようとしていた。
「ぅ……」
シノブが顔をしかめる。わずかに双剣が肩をかすめたのだ。
そもそもにして防戦一方。短剣と双剣だ。武器の差からして不利な状況は否めない。それでもなお、互角に食らい付くシノブのスピードが異常なのだ。
「どうした……もう終わりか!」
「まだ」
ぽつりと小さく呟いて、ぽん、とわずかにシノブは後ろに飛んだ。
そして――
「――スティンガー」
呟いた、一言。
ほんのわずか一メートル弱の距離を詰めようと踏み出したリンは、猛烈な悪寒に襲われて足を止めた。
何が来る? 彼女は何も構えていない。投げナイフですらない。魔法でも、恐らくない。では……?
「上だ、リン――ッ!」
聞きなれたその声に、誰のものなのかなど考える暇もなく、リンは頭上を仰いだ。
禍々しく赤い輝きをまといながら、一本のダガーが降下しつつ肉薄するのが見えた。
凄まじいスピード。避けられない。タイミング。もう遅い。
「っ――!!」
全身全霊で体を捻る。だがそれでも避けられなかったその一撃が、肩をえぐり、血が噴出して、肩口を、そして顔を赤く濡らした。
掲載が大変遅れてしまい、申し訳ありません。
次回掲載は10月ごろを予定しています。