(37) - するべきこと
太陽が地平線に沈み始め、青空が紅に染まってゆく。
黄昏時――カナメは、宿屋の欄干に身を乗り出して、カリスの町並みを眺めていた。
行き交う人々もまばらになり、あれほどの活気があった露天商たちももはや店じまいだ。各々がめいめいに帰宅の途を歩き出していく。
「カナメ」
「……リン」
背後からの声に、俺は振り向くこともなく答えた。
「シルファは大丈夫だ。もう山は越えたそうだ。あんなことになったのに……強いな、彼女は」
「そう、だな」
俺は欄干に身を乗り出したまま、曖昧に答える。
「答えは決まったか? カナメ」
「…………」
リンの言葉に答えることができないまま、俺は沈みゆく夕日をただ見つめていた。
やがてあの夕日が沈み、空は紅から蒼に変わり、夜が来る。
その間には……俺は決めなければならない。
――明日、早朝に私達は任務に出発する。
リンの告げた内容に、俺は悟った。
その場にシノブ姉が現れるだろう、ということ。そして、それがシノブ姉を止める唯一にして最後の機会なのだということも。
事情は説明し、任務の中止も要請した。だが何やらのっぴきならぬ事情があるらしく、それでも任務の続行が決定されてしまっている。
だがそれに同行するということは……今も眠ったままの、シルファを置いていくということ。
だがこの機会を逸せば、シノブ姉を止めるチャンスは、永遠に失われることだろうことは想像に難くなかった。
(どうするべきかなんて、答えは出てる……けど)
足が竦む。
またシルファが襲われ、そして今度こそ、永遠に失われるかもしれない――その恐怖が、俺に最後の一歩を躊躇わせていた。
(俺のせいで、シルファが死ぬなんて……)
そんなことは耐えられない。絶対に。
「……ついでにこいつも報告しておく。昨日の事件についてだが」
悩む俺の横顔を見かねてか、リンがそう口を開いた。
「どうやらお前の言っていた傭兵団の連中が、村に火を放ったらしい。白化現象は、どうやらその後だな」
「白化現象?」
「ああ。数年に一度か、数十年に一度か……稀にあるんだ。物質から魔力が根こそぎ奪われ、白い灰に変わる……白化現象。そう呼ばれている」
「そんなことが……」
「今回の白化現象は村一帯に及んでいる。死体も何ひとつ残っていないから、お前の言ったいたことも立証できないし、証拠の一つも残ってない。その背後も洗えそうにない……すまない」
白化現象の原因は不明――リンの言葉に「そうか」とだけ俺は頷いた。
原因が不明なら、その中で唯一シルファだけが生き残った理由も、また不明ということなのだろう。
「またお前は……そうして自分を責めるんだな」
リンの呆れ声には、俺を責めるような色が含まれていた。
「そうして自分を責めることを、シルファが望んだか? お前がそうすることで、彼女が喜ぶとでもいうのか?」
「それは……」
「彼女が何を望んでいるのか、決めるのはカナメ、お前じゃないはずだ」
「でも……!」
それでも彼女は死に掛けたのだ。死んでいたっておかしくなかった。
そりゃそうだ。自分だって責める。もしあそこでシルファが死んでいたら、俺は絶対に自分を許せない。
「出立は日の出と同時」
リンが俺の肩を叩く。
「お前はお前のすべきことをしろ」
(俺のするべきこと……)
俺のするべきこと。それはここで悲しみに暮れることか? シルファに頭を下げることか? 泣いて許しを請うことなのか?
「ああ……そうだな」
俺のするべきこと。
――俺は、静かに、傍らの剣を手に取った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
馬車が揺れる。
当然だが、現代日本とは違って路面の舗装技術など拙いものだ。揺れ、跳ねて、そのたびに馬車が軋む。
山道に入ればまだ激しくなるぞ、と、同乗した隊員らしき人が苦笑まじりに言った。車酔いしてないだけまだマシだが。
――ちなみに余談だが、リンは別の馬車だ。
早朝、日没前に集合した俺たちは、それぞれ二つの馬車に乗り込んだ。俺が乗り込んだのは前の馬車で、団長、マグディウスはもうひとつの、後ろを走る馬車に乗り込んでいる。リンもそちらだ。
トラップがあった場合、真っ先にこちらの馬車が引っかかることになる、ということだ。
危険性が高い――そのほうがいい。手の届かない場所で誰かがやられる姿など、見たくはない。
「――おい」
不意に、誰かの声がした。
くるまっていた毛布の中から顔を上げる。声をあげたのは……一番後ろで、馬車から顔を出して外をうかがっている男だった。
「何か声がしないか?」
「声?」
また誰かが顔を上げる。
声……音……声?
確かに何かが聞こえる。
甲高い――空から――
「……っ! おい、顔を外に出すな!」
「え――」
瞬間――
アアアアアアアァァア――ッ!!
女の金切り声に似た高音の声が、しかも衝撃破すら伴うような大音響で響き渡った。
馬が暴れ、馬車が大きく揺らぐ。壁に叩きつけられ、痛みに呻く暇もなく、俺は馬車から首を出していた男の襟首を引っつかんだ。
男は、その身体をぐらりと傾かせ、馬車から落下しようとしていた。寸でのところで馬車の中に引き込む。
「おい……!?」
「大丈夫。気絶してるだけだ、と思う」
「いったい何が――」
「ハーピーだよ」
混乱する男たちに、俺は小さく答えて馬車の外を見た。
ハーピー。本来は険しい山に棲むはずのモンスターだ。山道とはいえ、こんな標高の低い場所に出没するはずもないのだが。
「ハーピーだと……!?」
「おい、どうする! こっちにはもう魔法使いがいねぇ……!」
チッ、と舌を打つ。さっきの男はメイジだったのか。
ハーピーにはほとんど弓が効かない。有効打になるのは魔法だけ。
「後ろの馬車に救援を――」
「もし襲われても、俺らだけ対処しろって話だろうが! できるか!」
かといって、馬車を止めれば思う壺だ。
――俺ができることは……
「……俺がやる」
は? と呆然と俺を見る数人の男たちを尻目に、馬車の後ろから手をかけ、一跳躍、馬車の天井に飛び乗った。
空を見れば――大きな翼をはためかせる、ハーピーの姿があった。顔と身体は女、だがその手と足は大きな鳥。女面鳥身……ハーピー、か。
それも一体ではない。一、二、三……四匹か。
ハーピーの特徴はその声だ。甲高い声を叩きつけ、相手を気絶させてから襲う。エネミースキル、ラウドヴォイス。
だが、その声はハーピー自身にさえも傷を負わせる。だから乱発はできない。
(一体ずつ使ってこないのは……さっきの声で、他の奴もダメージを負ってるから、か)
つまり今がチャンス、だ。
息を落ち着かせる。跳ねる馬車の上。足場は安定しない。そして俺の武器は、この剣。
(――だけじゃ、ない!)
息を吐く。
そして、ベルトに挿していた投擲用のダガーを引き抜いた。
「はッ――!」
腕が閃く、一瞬。
飛び回るハーピーの胴体に、ダガーが根深く突き刺さった。
それも二体同時。ハーピーは甲高く声をあげ、空の上でばたついた。
「マジかよ……!」
馬車の後ろから顔を出していた男が、ありえない、とばかりに声をあげた。
無論、答える暇などない。
(まだ仕留めてない……!)
跳躍。馬車の屋根を蹴って、空中へと身を躍らせた。
そして……ダガーのせいで力を失ったのか、高度を落としていたハーピーの頭蓋をブーツの底で踏み砕く。
剣を一閃。喉を貫いて息の根を止める。さらに跳躍。
空中で通りすがりざまに、さらにもう一匹を一閃して仕留め、今度は次のハーピーの背中に飛び乗った。
喉元を手で掴む。こいつの弱点はここだ。
グウェエ、と声にもならない呻きをあげながら、ハーピーは重さに耐え切れず高度を徐々に落としていく。
俺は、さらに腰のベルトからダガーを引き抜いた。
腕を一閃。まだダガーの一撃に苦しんでいたもう一匹の首元を貫いた。
(よし――)
三匹分の燐光が空を舞っていくのを見ながら、俺は息を吐いた。
あとはコイツにどうにか高度を落とさせれば――
不意に、コォォォ、という細く長い音に、俺は身をこわばらせた。
これは……ラウドヴォイスの前兆……!
(コイツ、この状態で出す気か!?)
出せるのか? 分からない。だがもし出されれば……次は馬が保たない……!
「ぐ……っ!」
手を離し、剣を引き抜いて、ハーピーの喉元を貫いた。
致命傷。一撃でヒットポイントを根こそぎ奪い去られ、ハーピーはその姿を燐光に変えていく。
(落ちる……!)
浮力が消失し、重力に囚われる。
高度はまだ高い。落下ダメージは――耐え切れるのか? 分からない。
(くう……っ!)
加速し空気を裂いていくその感覚に身を堅くして、目を瞑る。祈るしかない……!
だが――
不意に、ふっと身体が浮いた。
目を、ゆっくりと開く。
地面まではまだ数メートル……少なくとも天国ではない。
その数メートル先を走る馬車の上で、サンクレアさんが、笑いながら手を振っていた。